「同じものの永遠なる回帰の思想」③『力への意志』

2018-04-28 10:34:55 | 従って、本来の「ブログ」

      
      「同じものの永遠なる回帰の思想」③

            
          『力への意志』

 ハイデッガーによる「ニーチェ」I・Ⅱ(平凡社)を、立ち止ま

っては後戻りしたり、それでも難解でしばらく読む気がしなくなっ

て投げ出したりしながらⅠ巻(558頁)の3分の1くらい(232

頁)までは「目を通す」ことができました。決して理解できた訳で

はありませんが、「私なりに」その感想を記したいと思います。

 これまでにも「同じものの永遠なる回帰の思想」①②を記しまし

たが、それはまったくチンプンカンプンで、ただニーチェの生い立

ちに終始しましたが、ここではもう少しその思想を「私なりに」確

かめたいと思います。「」内は同書からの引用です。

 その始まりに哲学についてのニーチェの言葉が書かれている。

「私はなんぴとも哲学へ勧説しようとは思わない。哲学者は「変わ

り種(原文傍点)だということは必然なのであり、またおそらく望ま

しいことなのだ。セネカとかキケロにみられるような、哲学の教訓

的礼賛ほど、私の嫌気をそそるものはない。哲学は特性とはほとん

ど無関係である。あえて言わせてもらえば、学問的人間というもの

も、哲学者とは根本からちがった者である。――私の願うことは、

哲学者というものの真正の概念がドイツですっかり絶滅してしまわ

ないように、ということである」(《力への意志》420番)

 つまり、我々が口にする「哲学」とは精々が社会学とか処世訓、

或は社会道徳の類であって、さらに学者でさえも「哲学者とは根本

からちがった者である」と言う。科学主義全盛の時代にあって、そ

れらは我々の外部に築かれた構築物に過ぎず、今や「哲学者という

ものの真正の概念」が「すっかり絶滅して」しまったかもしれない。

しかし、「哲学者が現れるのは、大きな危険の時代――車輪がいよ

いよ急速に転回する時代である。そのとき、消えゆく神話に代わっ

て、哲学と芸術が立ち現われるのである。けれども彼らは遙か前方

に投げ出される。なぜなら、よほど経ってからでないと、同時代人

たちの注目が彼らに向けられないからである。自分の危険を感知し

た民族が、天才を生みだすのである」(第10巻、112頁)

 ここで見落としてならないのは、ニーチェは「消えゆく神話に代

わって、哲学と芸術が立ち現われるのである」と言っていることで

ある。つまり芸術が哲学とともに新しい時代を切り拓くと言ってい

るのだ。では、まず哲学とは何であるかと言えば「《存在者とは何

であるか》という、哲学の昔ながらの導きの問いの長い軌道に沿っ

て」思索することであり、「存在者は何であるかという問いは存在

者の存在をたずねる問いである」。そして、「すべての存在はニー

チェにとっては、生成である。だがこの生成は、意志の発動と活動

力という性格を帯びている。そして意志とは、その本質において、

力への意志なのである」

 では「力への意志」とはいったい何であるか?    (つづく)