「同じものの永遠なる回帰の思想」⑦

2018-10-18 07:16:56 | 従って、本来の「ブログ」

        「同じものの永遠なる回帰の思想」⑦

 

         ハイデッガー著「ニーチェ」ⅠⅡを読んで


「真理とは幻想であり、誤謬である」とすれば、我々の認識(理性)は、た

とえ「真らしきもの」を認識できたとしても、本質そのものを捉えること

はできない。存在とは不断に変遷する無常な生成(カオス)の世界であるか

らだ。つまり、我々の理性はその本質を捉えて絶対化しようとするが、変

遷流転する生成の世界に的中しない。何故なら、世界とは生成であり存在

者の存在とは「力への意志」だからである。理性は存在の本質(真理)を掌

握することが出来ないとすれば、我々はニヒリズムに陥らざるを得ない。

ニヒリズムこそが生成から導き出される理性の結論である。つまり、理性

は「生きることは意味がない」と答えるしか出来ない。ただ、理性が生成

の謎を解き明かすことが出来ないならば、その決定を理性に委ねるのは間

違いではないだろうか。生成は理性からもたらされたのではないのだから

 存在の本質を問う形而上学的思惟(理性)は、変遷流転し何れ消滅する生

成の世界を仮象の世界と捉え、プラトンは仮象の世界を超越した「イデア」

こそが真の世界だと説いた(プラト二ズム)。存在を事実存在と本質存在に

分ける形而上学的思惟は、のちにキリスト教世界観へと受け継がれ(二世

界論)、本質存在としての超感性界(神の世界)の優位は揺るぐことはなか

った、ニーチェが現れるまでは。

 そのニーチェはプラト二ズムを逆転させ世界とは生成(事実存在)であり

、生成とは「力への意志」であると説いた。「力への意志」とは、すぐに

は理解し難い言葉ですが、たとえば「力」だけがあっても、また「意志」

だけがあっても思い通りにはいかない。つまり「力」と「意志」は分かつ

ことのできない相互関係です。ところで「意志」とは、自らに変化を、或

は変化しないことの決断を迫りますが、「かくあれ」と命じる「意志」に

対してそもそも「力」が備わっていなければ変化させることは出来ない。

そこで「意志」はまず「力」を高めることを命じ、そして高まった「力」

は「意志」を昂揚させ、「意志」は自分を超えた新たな「価値」を定立し

て更なる高みを目指すことを命じる。そして、意志するとは自分を超えて

意志することであり、変遷流動する生成の世界の下で新たな価値を求める

ことは「投企」に他ならない。こうして存在者は「力」への「意志」によ

って、自己を超えて新たな「価値定立」の下で「自己超越」を意志する。

「力への意志」とは生成変化を繰り返す世界の根本性格であり、存在者の

存在とは「力への意志」である。

                            (つづく)