「自己責任論と殺人」
元キャリア官僚だった男性が家庭内暴力を繰り返す息子に恐怖を
感じて自らの手で殺めた事件の裁判のニュースが伝えられた。表沙
汰にしたくなかっただろう家族の事情までもがつまびらかに報じら
れて何ともやるせない思いがした。もちろん殺人は如何なる理由が
あっても社会的に許されないが、それでは、過激な言動を繰り返す
我が子を親としての責任から、彼は妻に宛てた手紙で「これ(殺す)
しか他に方法はないと思います。どこかで死に場所を探します。見
つけたら散骨してください。『長男』も散骨してください。葬儀が
終わったら、病院へ入院してください。心が落ち着くまでゆっくり
休んでください」と書き残していて、自らの死をも覚悟した上で我
が子を殺める決意した。犯行当日、息子は近所の小学校の運動会の
声がうるさいと腹を立て、「うるせーな、子供ぶっ殺すぞ」と叫ん
で父親にたしなめられて口論になった。折しも数日前には引き籠り
状態の中年男性が小学校のスクールバスを待つ児童ら20人を無差
別に殺傷して自殺してしまう事件が起きたばかりで、息子による同
様の犯行を危惧した父親が咄嗟に凶器を手にしたとしても頷ける。
もちろん一概には言えないが、人は誰かを殺めることを決意する
時には当然自分自身にもそれ相応の責任が問われることを充分認識
した上での決意に違いない。つまり、他人を殺める決意の前に自分
自身の死についても考え及ばないはずがない。縦しんば裁判で死刑
を免れたとしても、それまでの社会生活がすべて失われることは明
白である。それにも拘らず他人を殺めようと決意するのは、自分の
命を犠牲にしても相手との関係を転換させたいという強い思いから
だろう。人は誰かを殺めなければならないと決意する時とは、そう
しなければとても自分は生きていくことができないと思ったからで
、誰かを殺める前に今在る自分を殺すのだ。そして、自死の代償と
して殺意が芽生える。
(つづく)