仮題「心なき身にもあわれは知られけり」(2)のつづきの続き

2022-01-30 18:16:54 | 「死ぬことは文化である」

      仮題「心なき身にもあわれは知られけり」


         (2)のつづきの続き


 さて、それではその「卑弥呼」が君臨する「邪馬台国」は日本の

どこに在ったのか、つまり大和説と九州説とに分かれる所謂「邪馬

台国論争」ですが、それは「魏志倭人伝」にその行程が極めて詳細

に記述されていることから何の問題もなく特定されると思いきや、

どうもそうではないらしい。その「魏志倭人伝」が伝える「卑弥呼

」の居る「邪馬台国」への行程は、まず朝鮮半島の中西部にあった

帯方郡より「海岸に従って水行し」、そして対馬、壱岐を経て九州

の「末盧(まつろ)国」に上陸する。「末盧国」とは佐賀県唐津市北部

の東松浦半島付近で、さらに「東南に陸行五百里で伊都(いと)国に着

く」とあり、それは糸島半島辺りで、そして「東南の奴(な)国まで百

里」、「奴国」とは博多付近で、それは江戸時代に近くの志賀島から

金印「漢委奴國王」の印が発見されたことからまちがいない。ただ、

それら「東」へと連なる土地の方角が「東南」と記載されていて些か

怪しいが、それは現代のように正しい方角を知ることができなかった

時代のことなので柔軟に受け止めるしかない。次に「東行して不弥(

ふみ)国に到るまで百里」とあるが、ここで「奴国から東行百里」の

「不弥国」とは何処であるかが特定できない。それは九州の中の何処

かに違わないが、方角の不正確さもあって奴国(博多) から「東行百里

」の地は諸説ある。ただ、次にある「南の投馬(つま)国に行くには

行二十日」とあり、ここで突如として里程による表示が日数に変わる

が、水行、つまり船に乗って向かうにはどうしても海に面した場所で

なければならない。もちろん、内陸の河川を遡上することも考えられ

ないわけではないが、そもそも「邪馬台国」が九州にあるとすれば上

陸した後に再び「二十日」もかけて「水行」したりするだろうか?だ

とすれば、「水行二十日」は九州から離れて海上を「水行」する以外

に考えられないのではないだろうか。つまり、それは「九州説」の破

たんにほかならない。

                         (つづく)


「あほリズム」(880)

2022-01-30 07:57:00 | アフォリズム(箴言)ではありません

    「あほリズム」

 

     (880)

 

 かつて作家 司馬遼太郎は、朝鮮民族の日本による「韓国併合」

の恨みは今後2000年は続くだろうと語ったが、ところが、これ

までは経済大国日本の成長の恩恵に与ってその恨みも封印されてき

たが、しかし、日本経済の凋落とともにその封が解かれて反日感情

が再燃している。つまり、彼らの反日感情は日本経済の凋落の証に

ほかならない。