「同じものの永遠なる回帰の思想」③ 「ニヒリズム」

2018-05-12 14:49:38 | 従って、本来の「ブログ」

      「同じものの永遠なる回帰の思想」③

 

        ヨーロッパの「ニヒリズム」           

 ここでは「同じものの永遠なる回帰の思想」について記したいと

思ったのですが、ところが何度読み返してみてもその姿が捉えられ

せん。それは「力への意志」とは切り離すことが出来ない思想だと

ハイデッガーは言うのですが、理解できてません。そこで、ニーチ

ェの言う「ニヒリズム」について、彼の言葉を転載します。これは

比較的分り易いと思います。そのあとでもう一度「回帰思想」へ回

帰したいと思います。

以下はニーチェ著「力への意志」より断片一二番「宇宙論的諸価値

の崩落」です。

        *       *      *


「心理的状態としてのニヒリズムが現れざるをえないのは、第一に

、われわれがすべての生起のうちに、そのなかにはない〈意味〉を

探し求め、そのためついには探究者が気力を喪失するときである。

そのときニヒリズムとは、長い間の精力の浪費の意識、《徒労》の

痛恨、不安定、また何らかの方法で気を晴らし、何ものかで心を鎮

める機会の欠如のことである――あまりにも長くおのれを欺いてき

たかのごとき自己羞恥のことである・・・・その意味は、すべての

生起における倫理的最高基準の《実現》、倫理的世界秩序、あるい

は森羅万象の交わりにおける愛と調和の増大、あるいは或る普遍的

な幸福状態への接近、あるいは――目標もやはりひとつの意味であ

るから――或る普遍的な虚無状態を目標とする突進ですらありえた

であろう。これらすべての考え方に共通なことは、なにか或るもの

がその過程そのものを通じて達成されるはずだということである。

――ところが、生成によってはなにものも到達されず、なにごとも

達成されないということが悟られるにいたる・・・・したがって、

まったく特定の目的に関する幻滅であれ、もっと一般化されて《発

展》全体に関わる従来のすべての目的=仮説の不十分さの洞察であ

れ、いわゆる生成の目的に関する幻滅こそがニヒリズムの原因なの

である(――人間はもはや生成の協力者ではなく、いわんや生成の

中心点ではない)。

 心理的状態としてのニヒリズムが現れるのは、第二に、すべての

生起のなかに、またすべての生起のもとに、或る全体性、或る体系

化、さらには或る組織化すら設定されたときである。そのとき驚嘆

や畏敬を渇望する魂は、支配と管理の最高の形態という全体的表象

に酔い痴れる(――それが論理学者の魂であれば、絶対的整合性や

実在弁証法だけでも、万有と和解するに足りるのである・・・)。

一種の統一、何らかの形式の《一元論》、そしてこの信にもとづい

て、人間は自分より無限に卓越している全体者に連帯し依存してい

るという深い感情に浸り、みずから神性の一様態となる・・・《公

共の福祉は、個々人の献身を要求する》・・・・だが見たまえ、そ

のような普遍的(公共的)なものは与えられていないのだ。ひっきょ

う人間は、無限に価値ある全体者が彼を通じてはたらいているので

なければ、自分の価値への信念を失ってしまうのである。すなわち

彼は、自分の価値を信じることを可能にするために、そのような全

体者を発想したのである。

 心理的状態としてのニヒリズムには、さらに第三の、最後の形態

がある。生成によってはなにごとかが到達されるはずがなく、すべ

ての生成の底には、最高価値の気圏においてのように、個々人がそ

のうちに没入することを許されるいかなる偉大な統一も統宰してい

ないという、これら二つのことが洞察された暁には、逃げ道として

残されているのは、この生成の世界全体を虚妄と断じ、この世界の

彼岸に或る世界を真の世界として虚構することだけである。けれど

も、この世界が組み立てられたのはただ心理的欲求によるものにす

ぎず、人間にはそうする権利はないのだということを人間が見抜く

や否や、ニヒリズムの最後の形態が発生する。これは、形而上学的

世界に対する不信をそれ自身のうちに含み、――真の世界を信じる

ことをおのれに禁ずるものである。この立場においては、生成の実

在性が唯一の実在性として承認され、背後世界や偽りの神性に通ず

るいかなる種類の間道も禁じられる――しかし、もはや誰も否認し

ようとは思わないこの世界が耐えがたいのである・・・・。

 ――根本において、何が起こったのか。《目的》という概念をも

ってしても、《統一》という概念をもってしても、《真理》という

概念をもってしても、現実存在の総体的性格は解釈することを許さ

れないということが把握されたとき、ついに人々は無価値性の感情

が達成されたのである。現実存在によっては、何ものも到達されず

、なにごとも達成されない。生起の多様性のなかには、それを包括

する統一が欠けている。すなわち、現実存在の性格は《真》ではな

くて虚仮なのである・・・・真の世界を自分に信じ込ませるいかな

る根拠も、もはやまったくなくなった・・・・要するに、われわれ

が世界に或る価値を嵌め込むために用いてきた《目的》、《統一》

、《存在》というカテゴリーが、再びわれわれによって世界から抜

き取られる――すると世界はいまや無価値の様相を呈するのである

・・・・」。                  (つづく)

 


「同じものの永遠なる回帰の思想」③ 『力への意志』―③

2018-05-05 12:19:08 | 従って、本来の「ブログ」

      「同じものの永遠なる回帰の思想」③


           『力への意志』―③


 形而上学は英語では metaphysics と言い、物理(physics)を超え

た(meta-)観念のことで、ハイデッガーによれば、そもそも形而上

学はプラトンとアリストテレスによってもたらされたと言います。

プラトンは「生成変化する物質界の背後には、永遠不変のイデアと

いう理想的な範型があり、イデアこそが真の実在であり、この世界

は不完全な仮象の世界にすぎない。」(ウィキペディア『プラトン』

)と「イデア論」を主張し、ハイデッガーによると「存在が区別さ

れて本質存在と事実存在になる。この区別の遂行とその準備ととも

に、形而上学としての存在の歴史が始まるのである」。プラトンの

イデア論は「以後、形而上学の進行のなかで、この<本質存在>を規

定する形而上学的(超自然的)原理の呼び名は、プラトンの<イデア>

から中世キリスト教神学では<神>へ、さらには近代哲学においては

<理性>へと変わってゆくが、それによって規定される〈本質存在〉

の<事実存在>に対する優位はゆるがない。」哲学者ホワイトヘッド

も「西洋の全ての哲学はプラトン哲学への脚注に過ぎない」と語っ

ている。ニーチェの「力への意志」はそれら「プラト二ズム」に対

する否定であり、彼自身も「私の哲学は逆転したプラト二ズム」で

あると言明し、殊に「プラト二ズム」の正統な継承者であるキリス

ト教に対して、牧師の息子である彼は「神は死んだ」と宣告した。

 「イデア」或は「神」を失った世界は精神的支柱を失くして忽ち

ニヒリズムに陥るだろう。しかし、そもそも虚構の上に築かれた世

界観こそがニヒリズムを覆い隠していたのだ。否、ニヒリズムへの

忌避こそが「イデア」や「神」といった幻想を生んだのではないか

。しかし理念を世界の外に追い遣って目の前の世界だけが真実だと

すれば、再び隠されていたニヒリズムが世界を覆うことになる。ニ

ーチェはその喪失がもたらすニヒリズムへの回帰を了諾した上で、

救いのない世界の中で幻想に惑わされずに生きるには「力への意志

」によって絶望と抗うしかないと言う。

 「力への意志」という言葉は「力」も「意志」もどちらも作用を

表わす言葉で馴染まないが、ハイデッガーはそれを詳細に分析して

説明している。たとえば、意志を《意欲》に代えて「われわれは

また、本やオートバイのような事物を《意欲する》こともある。」

が、「意欲するとは自分を自分の命令下に立たすことであり、その

まま遂行であるような形での自己命令の覚悟なのである。」そして

「われわれは〕自己への覚悟をもって〔意欲する。意欲するとは自

己の意欲であり、そしてこれは同時に〕いつも自分を越え出て〔状

況を〕意欲することなのである。」つまり《意欲する》とは、意欲

する〔状況〕を掌握して、それまでの自分を越えて、自らを命令下

に立たせる覚悟が求められ、そして意欲《意志》そのものが主体と

なって意欲する前の自分に行動《力》を迫る。それは、まさに芸術

が創作意欲に駆り立てられて作品に取り組む姿勢そのものである。

つまり、「芸術は力への意志のもっとも透明でもっとも熟知の形態

である」。そして芸術家が創作に情熱を傾ける時、そこでは「力へ

の意志」が最大限に発揮されて《情緒》《情熱》《感情》《命令》

に支配されて創造の世界に「陶酔」する。ニーチェは言う、

「陶酔における本質的なものは、力の昂揚と充溢の感情である」

そして、「芸術家の心理について――芸術が存在するためには、

なんらかの美的な行為や観照がおこなわれるためには、どうして

も或る生理学的前提条件が不可欠である。それが「陶酔」なので

ある。陶酔がまず全器官の興奮性を亢進させておかなくては、芸

術というものは成立しない。どれほど異質な条件のもとで生じた

いかなる種類の陶酔でも、すべてこの力をもっている。中でも著

しいものは、性的刺激の陶酔。――このもっとも古くからの、も

っとも根源的な陶酔形態である。また、すべての大きな欲望、す

べての強い情動にともなう陶酔、たとえば祝祭、競技、神技、戦

勝、あらゆる極端な動作の陶酔、残虐行為の陶酔、破壊における

陶酔、たとえば早春の陶酔のように、一定の気象条件の影響をう

けた陶酔、また麻酔薬の作用下での陶酔、最後に、意志の陶酔、

過度にはりつめて充溢した意志の陶酔も、これと同様である」。

つまり、「力への意志」とは「陶酔すること」であり、それは芸

術(創作活動)においてもっとも顕現する、と言うのだ。

                       (つづく)


「あほリズム」(402)

2018-05-05 11:25:41 | アフォリズム(箴言)ではありません

          「あほリズム」

 

            (402)

 「中韓首脳が電話会談 平和協定へ協力で一致」
 産経ニュース(2018.5.4 20:39)
 https://www.sankei.com/world/news/180504/wor1805040050-n1.html 


 いよいよ朝鮮半島(統一朝鮮)も中国の支配下になるのか?

 次はたぶん台湾だな。そしてその次はいよいよ・・・