「あほリズム」(418)

2018-06-13 05:54:09 | アフォリズム(箴言)ではありません

          「あほリズム」

 

            (418)

 

     どうもアメリカが狂い始めたようだ。

 

             (419)

 

 そんなことはトランプ候補の大統領当選時に予想された

 ことではあるが、アメリカは国家主義へ回帰しようとしている。

 

              (420)

 

 それは、東アジアへの関与からの撤退である。

 つまり、もうそっちは中国に任せとけと言うことだ。

 後ろ盾を失った日本はさて、どうする?

 

 

 


「あほリズム」(417)

2018-06-11 03:51:14 | アフォリズム(箴言)ではありません

             「あほリズム」

 

               (417)

 

    猫の手を 借りて 仕事が 捗(はかど)らず    ケケロ

  

 「ゴンちゃん、ネコの動画がもっと見たいんだったら、

  早くマウスの扱いかた覚えてね。ネズミじゃないよ、マウスだよ」


「同じものの永遠なる回帰の思想」⑤

2018-06-11 03:18:05 | 従って、本来の「ブログ」

     「同じものの永遠なる回帰の思想」⑤

 

       同じものの永遠なる回帰の思想(2)

 ニーチェが回帰思想についてはじめて言及しているのは「悦ばし

き学問」の中で、それは次の通りである。

「『最大の重し』(傍点)――或る日また或る夜、ひとりのデーモン

が汝のもっとも深い孤独の中へ忍びこんできて、汝にこう告げると

したらどうであろうか。〈汝が現に生きており、今まで生きてきた

ようなこの生を、汝はもう一度、そして無限回も生きなくてはなら

ないであろう。そしてそこには何の新しいこともなく、いかなる苦

痛、いかなる快楽、いかなる思想も嘆息も、汝の生の大につけ小に

つけ言いがたいすべてのものが、汝に回帰し、それもすべて同一の

順序系列で回帰し――同様にこの蜘蛛とこのじゅ樹々の間の月光も

、同様にこの瞬間と私自身も回帰しなくてはならない。現実存在の

永遠の砂時計は、くりかえしくりかえし反転され――そしてそれと

ともに汝も、塵の中の塵よ〉と。そのとき、汝はひれ伏して歯ぎし

りし、こう告げるデーモンを呪うのではないか。それとも汝は、〈

お前は神だ。私はこれほど神的な言葉を聞いたことがない〉と彼に

答えるような途方もない瞬間を、かつて経験したことがあるだろう

か。もしもあの思想が汝に襲ってくるとしたら、それは現にあるよ

うな汝を一変させ、おそらくは押しつぶしてしまうであろう。何事

につけ、〈汝はこれをもう一度、そして無限回も重ねてする意志が

あるか〉と問うことは、汝の行動の上に最大の重しとなって横たわ

るであろう。それとも、この究極の永遠な確認と封印によりほかに

は『もはや何ものも望まぬ』(傍点)と言い切ることができるために

は、汝は自分自身と生とにどれほどの好意を抱かなければならない

ことか――」

 存在者の――「存在者」とは存在する全てのことである(ケケロ)

――本質存在は「力への意志」であり、その事実存在とは「同じも

のの永遠なる回帰」である。そして「力への意志」と「同じものの

永遠なる回帰」は繋がっていて分かつことはできない。つまり、存

在者の存在が「力への意志」である限り、「同じものの永遠なる回

帰」は必然なのだ。その説明は前回にハイデッガーの言葉を引用し

て記したのでここでは繰り返さないが、ニーチェ哲学の「力への意

志」と「同じものの永遠なる回帰」についての感想を述べたいと思

う。

 「今まで生きてきたようなこの生を、汝はもう一度、そして無限

回も生きなくてはならないであろう。そしてそこには何の新しいこ

ともなく、いかなる苦痛、いかなる快楽、いかなる思想も嘆息も、

汝の生の大につけ小につけ言いがたいすべてのものが、汝に回帰」

するとすれば、当然イデアの世界(神の世界)などというのは妄想で

あり、畢竟ニヒリズムに陥らざるを得ない。つまり回帰思想とはニ

ヒリズムに他ならない。しかし、そのニヒリズムから脱け出すには

「自分自身と生とにどれほどの好意を抱かなければならないことか」

とニーチェは言います。つまり「同じものの永遠なる回帰」がもた

らすニヒリズムから脱け出すには「力への意志」によって自らを超

えなければならないと言うのです。

 ニーチェは回帰思想を再び著作「ツァラトゥストラはかく語りき」

の「幻影と謎」の中で比喩的に叙述している。過去へ続く永遠なる

道と未来へと続く永遠なる道は「瞬間」という城門の前で二つに分

かれている。しかし、永遠に相隔たっている道の結び目はこの「瞬

間」においてである。ハイデッガーの読み説きから「将来において

何かが起こるのはまさに(この瞬間の)決断に懸っているのであり、

回帰の輪はどこか無限の彼方で結ばれているのではなく、輪が切れ

目のない連結をとげるのは、相克の中心としてのこの瞬間において

なのである。回帰において何が回帰するのかは、この瞬間によって

――そして瞬間の中で拮抗し合うものを掌握する力によって――決

せられる。永遠回帰の教えにおけるもっとも重い本来的なものは、

まさに『永遠は瞬間にあり』(傍点)ということであり、瞬間ははか

ない今とか、傍観者の目の前を疾駆する刹那とかではなく、将来と

過去との衝突である。この衝突において、瞬間は本当の瞬間になる

。それは、すべてが如何に回帰するかを規定するものになるのであ

る。」今この瞬間をどう生きるかによってニヒリズムの円環から脱

け出すことができると言うのだ。

                         (つづく)


「あほリズム」 (416)

2018-06-03 11:36:29 | アフォリズム(箴言)ではありません

       「あほリズム」


         (416)

 「紀州のドンファン」と称された資産家の男性が死んだ。その不

審な死から事件の可能性が疑われているが、凡そ世間一般の男はこ

れまでの彼の成り上がり人生をさぞ羨ましく思ったかもしれないが

、もしもカネは手段に過ぎないとするなら、彼はひたすら自らの性

欲を満たす目的の為だけに手段を費やしたことになる。つまり一つ

の愛さえも育めなかった。高価な金品に囲まれながら、まるでカネ

そのもので飾られたような部屋の中で、手段を手に入れながら欲望

を満たすことにしか生き甲斐を見い出せなかったことに何か虚しさ

を感じずにはいられない。もしも経済が生存手段に過ぎないとすれ

ば、それでは生存の目的とはいったい何だろう?

 


「同じものの永遠なる回帰の思想」④

2018-06-01 00:30:52 | 従って、本来の「ブログ」

      「同じものの永遠なる回帰の思想」④


       同じものの永遠なる回帰の思想


 ニーチェの回帰思想をハイデッガーが分り易く解説しています。

「力の普遍的性格からして、世界とその生成の有限性(完結性)が帰

結する。生成の有限性に則って考えると、世界の生成が終わりなき

ところへ果てしなく経過し去るということは不可能である。したが

って、世界の生成はまた元へ立ち帰ってくる経過でなければならな

い。

 ところが、世界の生成は、現実的時間の中で――すなわち前向き

にも後向きにも終わりのない(無限な)時間の中で――経過する。こ

のような無限な時間の中で経過する有限な生成は、平衡と静止の状

態としての均衡状態にいつか到達しうるものだとすれば、すでにず

っと以前にそこに到達していたはずである。なぜなら、存在者の可

能性は数の上でも様式の上でも有限なものであるから、これらの可

能性は無限な時間の中では必然的に汲み尽されるはずであり、すで

に汲み尽されていたはずだからである。しかるに、このような静止

状態としての均衡状態は現存していないのであるから、それはかつ

て到達したこともなく、したがってここでは、それはそもそも存立

しえないのである。それゆえに世界の生成は、有限にしてかつ元に

帰り来る経過として、『不断の生成』(傍点)であり、すなわち永遠

である。だが、この世界の生成は無限な時間の中での有限な生成と

して不断に生起するものであり、それの有限な可能性が汲み尽され

たあとでも終熄することはないのであるから、その時以来、この生

成はすでに反復されてきた、――否、無限回も反復されてきたはず

であり、そして不断の生成たるかぎり、将来においても同じように

反復されるにちがいない。さて世界全体はその生成形態においては

有限でありながら、われわれにとっては実際上測りつくせぬもので

あるから、世界全体の全体的性格の変容可能性も、あくまで有限で

ありながら、われわれにとっては見渡し尽せず、したがってたえず

新しくみえ、それゆえに常に無限なものという観を帯びて現われる

のである。そして、数的には有限個である個々の生成過程の間の作

用連関は完結的な連関であるから、いかなる生成過程も後向きには

すべての過去を後に引いてくるし、あるいは前向きに作用すれば、

それらの過去を自分の前に押し出して進まざるをえない。というこ

とには、いかなる生成過程も、いつかまた自分自身を連れ帰ってく

るはずだということが含まれている。この過程も他のいかなる過程

も、同じものとして回帰するのである。世界的生成の全体の永遠な

る回帰は、同じものの回帰であらざるをえない。

 同じものの回帰が不可能になるとすれば、それはこの回帰がとに

かく回避されうるときだけであろう。それが回避されるためには、

世界全体が同じものの回帰を拒むということが前提条件になるであ

ろう。そしてこのことは、そうしようとする先廻り的な意図と、こ

れに応ずる目標設定とを含意するであろう。それはすなわち、――

無限な時間の中での生成の有限性と不断性にもとづいて本来なら不

可避的な《同じものの永遠なる回帰》を、どうあっても回避しよう

とする終局目標を設定するということであろう。ところが、このよ

うな『目標』(傍点)設定を前提することは、必然性の混沌としての

世界全体の『根本体制にもとる』(傍点)ことである。してみれば、

残るところは、すでに必然的帰結として判明したことだけである。

すなわち、必然性の永遠なる混沌としての世界全体の生成性格――

それはここでは、とりもなおさず存在性格であるが――は、同じも

のの永遠なる回帰でしかありえないのである。」

                        (つづく)