先日の新聞記事に、ヨーロッパの大富豪が『増税なら、われわれに』というのがあった。財政逼迫のなか生活関連予算を削減するくらいなら「富裕層に増税を」と呼びかけているという。
イタリア・フィアットのルカ・モンテゼートロ社長やドイツの50人グループ、アメリカの投資家ウォーレン・バフェット氏らが、
「我々は必要以上の金を持っている」、「超大金持ちを甘やかすのはやめよ」、「貧富の格差拡大を阻むために手を討たねばならない」とそれぞれの政府に主張しているという。
日本の大企業家の集まり『経団連』はというと、あくまで増税反対でさらなる法人税減税をもとめる有様である。自分らの緩やかに緩和された所得税の累進課税率もそのままである。
本書は、そんな情けない日本の現状分析から始まっているが、目次を見ると「分かち合い」の字が多く見受けられるのが気になる。『分かち合いの経済』の心が、誰に対して発せられたかであるが、日本の大企業家・大富豪に『分かち合い』の心を説くのは甘い気がするのだが。
それはさておき、中身を読むと、本のタイトルとは別に、鋭く現実を見る目が光る。
『格差のどこが悪い』、『格差のない社会などない』と為政者(当時の小泉首相)が居直る社会は『絶望の社会』である(P-2)と、まず断言する。その理論的背景になっているのが『新自由主義』であるが、その思想が『規制緩和』と『市場原理主義』と『民営化』、それと『小さな政府』に集約されることは、この本に限らず言及されてきたことである。
その『新自由主義』は「格差」や「貧困」を「勤勉」をもたらすインセンティブ(動機)と意義づけるから、「格差」や「貧困」をなくす方向に努力するなど考えもしない。
『規制緩和』でもっとも影響の大きかったのは雇用関係、労働環境の破壊である。
「1999年の労働者派遣法の改正によって、労働者派遣が原則自由化された。しかも、2004年の改正では、製造業への派遣が解禁されていく。(中略)さらに、企画業務型裁量労働制が導入され、ホワイトカラーに時間外手当なしに長時間労働を強制する扉が開かれる。(後略)」
従来、「派遣労働」が認められていたのは、臨時的・一時的な業務で、専門性が高い業務に限られていて、業種が法律により限定されていた。こうした業種に当たる人材を確保するのは企業側としても難しい面があったのでやむを得なかったともいえるが、これが時間的にも技術的には制約が解除されると、企業側の都合だけとなる。
「規制緩和のおかげで、景気上昇にともなう要因増を、派遣従業員などの解雇容易な従業員を採用することによって、企業は対応できたからである。」(P-5)
「必ず訪れる好景気の終わりとともに、こうした非正規従業員の大量解雇という地獄絵を見ることは自明の理である。」(P-6)
「~(前略)企業が社会保障負担を節約できることは、低賃金と解雇容易性とともに、非正規従業員を雇用する三大メリットなのである。」
統治者が非抑圧者を支配するする場合の鉄則は『分割して統治せよ』である。江戸時代は士農工商という身分制度を置き互いに牽制させ、さらには商人の下に『えた』という身分を置き、農民・貧民の不満をそらせた。
現在はというと、正規職員に対する非正規雇用の職員、派遣労働者の大量の生産と配置である。
「『日本的経営』の三種の神器とは、終身雇用、年功序列賃金、企業別組合である。家族(=企業)の一員として正規従業員になれば、雇用は終身保障され、生活給としての年功序列賃金が適応される。(中略)」
「『日本的経営』は福祉国家が担った雇用保障機能や生活保障機能を、企業が吸収したものといえる。」
ここに日本の特殊性がある。昔、映画で『武士道残酷物語』というのがあった。江戸時代、武士は君主に忠誠を誓い命まで差し出したが、現代のサラリーマンは企業に忠誠を誓い、身も心もぼろぼろになるまで働く。『滅私奉公』の世の中の仕組みは全然変わっていない、というような内容の映画だったと思う。
それでもまだよかった。運良く大企業に拾われれば、以前は社内福祉制度が機能した。『新自由主義』が闊歩しだしてからは状況が変わる。
「本来は政府が実施すべき社会福祉を、企業福祉として実施する・・」(P-72)が、「日本では社会保障給付によるセーフティーネットが、正規従業員として企業共同体に帰属していることを前提に張ってある。」(P-5)からだ。
こんな状況で、非正規雇用の従業員が多数を占めてくると、企業としては上のようなメリットがあるが、働く側はたまったものではない。正規職員だけは、まだ恩恵を受けているのかといえばそうでもない。非正規職員と正職員を無理に区別するため、責任を抱え込みサービス残業に追い込まれる。精神も追い詰められる。終身雇用は約束されず、年功賃金も崩れる。
かつて企業組合が非正規の問題を真剣に取り上げなかったツケがここにきている。セーフティネットがヨーロッパほどしっかりしていない日本で企業の外に放り出されたらひとたまりもない。
そればかりではない。医療保険も年金も非正規職員の増大により、加入者が減り根本から掘り崩されようとしている。
著者は財政学の専門家だから財政の話にも言及しておこう。
「『パクス・アメリカーナ』(『プレトン・ウッズ体制』)のもとでは、固定為替相場制が導入され、(中略)資本統制が認められていた。(こうした資本統制をする権限の存在が)、『混合経済』と『福祉国家」が機能する前提となっていたのである。(P-40)
「土地、労働、資本という生産要素のうち、土地も労働も移動しない。(中略)労働は動かないわけではないが障壁がある。(中略)ところが、資本は国境を越え、鳥のごとく自由にフライトする。(中略)しかし、資本が生み出す所得に課税しようとしても、資本が自由に国境を越えて移動すれば、高額所得を形成する資本所得に課税できなくなってしまう。」(P-42)
大企業は何かというと、「国際競争力が低下する」と言って、法人税の引き下げを要求し、儲けた多額の利益を内部保留として貯め込む。挙げ句の果てに工場や本社機能まで海外に逃亡し税金逃れをしたのでは、何のための、誰のための「国際競争力」かわからない。
税のあり方に関しては、
「高額所得を形成する資本所得に対して重く課税する所得税と法人税を基幹税とする租税制度は、所得再分配機能に優れている(中略)だけではなく、市場経済が引き起こす社会不安をも安定化させると考えられたのである。」(P-43)
今でこそ、国民一人あたりの借金が500万円とか800万円とか言われる膨大な数字となっている財政赤字であるが、これは1990年以降、意図的に作られたものであるという。
「1980年代から1990年代までを観ると、租税収入と歳出とはほぼパラレルに推移し、財政収支の赤字幅は拡大していない。ところが、1990年代に入ると、一転して財政収支の赤字幅が急速に増大していく。(中略)・・
・・とりわけ1998年以降、新自由主義にもとづく構造改革として大減税が実施されていく。それまでの減税が所得税の減税に重点があったのに対して、1998年度以降の構造改革としての大減税では法人税減税に焦点が絞られていく。次いで、高額所得者の対する所得税減税が展開されていく。」(P-125、126)
(そのあとに、どれだけ下げられたか具体的な数字を挙げて、いかに大企業・高額所得者が優遇されてきたが説明されているので、興味ある人は是非見てほしい。)
その結果、本書も指摘するように、「お金がないから我慢せよ」、「福祉サービスの低下もやむを得ない」となっていく。さもなくば、「消費税増税」という論法である。つまり、
「富める者が多くを負担する累進的負担構造を、貧しき者が多くを負担する逆進的負担構造へと変えていこうとする」(P-137)のが今の政府のやり方なのである。
ここで、本稿の最初に挙げた『ニュース』がどれだけ新鮮に響いたが!
『現実的なものは合理的であり、合理的なものは現実的だある。』-ヘーゲルの言葉を苦々しく思い浮かべると共に、人の意識も変わってくるものだと思った。
『存在は意識を規定する』-「存在」とはこの場合、『EU』とその諸制度、今のヨーロッパ諸国の在り方だが、日本の場合は、まだまだ時間がかかりそうだ。
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本書では、ほかにも示唆に富んだ指摘がちりばめられている。アメリカに消費税にあたる付加価値税がないのは意外であった。また、本書が刊行されたのは2010年であるが、原子力発電の先行きの無さを指摘しているし(P-184)、2001年でなく、1973年の「9・11」に、民主的な手続きにより成立したアジェンデ政権が、ピノチェトのクーデターによって暴力的に倒された事件にも触れられている。
著者である、その神野直彦さんが本書の『あとがき』で、自分をして、「私の思想は、異端である」という。それはわからないでもないが、その人がどうして『地方財政審議会会長』をして、さらに「原口総務大臣に感謝」の気持ちまで表明しているのか、そのへんの事情がもう一つ理解できない。