ついさっき訃報の連絡がきた。
昨日また身近な人が亡くなった。
俺がこの地に生を受けてからこれまで地元で、そして会社で一緒に先輩として活動してきた人でした。
子どもが二人いましたが、震災の数年前に長男は長野県に勤務していてそこで結婚し孫を連れて帰ってきました。そして帰ってきてすぐにくも膜下出血でなくなりました。この後、奥さんが事故で障害者になり、奥さんの世話をしながら頑張ってきましたが、昨年の震災で状況が一変しました。
奥さんを抱えての避難は大変だったでしょう。すぐに避難先から帰ってきましたが、奥さんを抱えながら屋内退避状態で物資不足の中大変な生活を送ってきました。俺も顔を合わせて励ますしかなかったことを本当に後悔しています。もっと何かできなかったのか、でもみんなそんな状態だから「大丈夫だ」と言われれば何にもできないですよね。
そんな状態で、以前から腰痛がひどかったので今年の春についに動けなくなってしまいました。救急で運ばれましたが運ばれた先は20km以上はなれた相馬市です。そして、入院先で脳梗塞を併発してしまいました。そこからは意識がありません。一人残った娘は二人の世話で苦労したことでしょう。
そして、昨日永眠してしまいました。
長い間本当にご苦労さまでした。そして、ありがとうございました。悔いは残ると思いますが安らかにお眠りください。
娘は嫁いでいますので家を守る人がいなくなってしまいました。この地から家庭が一軒かけようとしています。なんとか娘に期待して家を守ってほしいですね。でも現実はそうはいかないでしょう。
震災と原発事故以来、30km圏内におかれたせいで生活に制限を受け、物資を確保するにも苦労し放射能におびえながら生活した南相馬市では、活動に制限がある年寄が体力的にも精神的にも弱ってきています。仮設住宅に住んでいる皆さんの方が交流の機会があり精神的に楽かもしれません。旧警戒区域付近に生活している年寄りは交流もなくひっそりと暮らしているので、身体に異常をきたす人が多くなってきました。自宅で生活しているから何も苦労がないだろうは間違っています。地域でもみんなで交流する機会を作っているのですが、年老いた人たちは参加してきません。市や県もそのところを理解はしていないでしょうね。
これも震災による死と言ってもいいのかもしれません。この原発事故がなければもっと農業をしながら平穏に生活していたことでしょう。
俺はこれから秋田へ向かわなければならず告別式には出席できないかもしれないので、故人にあってから秋田へ向かうことにします。
最近、身近な人が亡くなることが多くなってきた。俺も年なのかもしれないけれどそれだけではないような気がする。