村爺のなんでもいいべ

南相馬市の馬事公苑を中心に活動しているディスクゴルフの話題や南相馬の出来事や思いついたことを書いていきます。

告別式

2012年03月19日 17時42分46秒 | 日記

昨日、3.11の大津波で被災し行方不明のままになっている友人の父親の告別式に出席してきました。

友人は父親が行方不明のままなのでまだあきらめきれないが、家族みんながいつまでも気持ちの切り替えができずにいるのは困るので、告別式を一区切りとして気持ちの切り替えができればと決心したそうです。

告別式と一周忌の法要が一緒になってしまいました。

あいさつでは本当に無念さが伝わってきました。

高校生の孫がお別れの言葉を話した時には、本当に涙が出て困りました。

精進上げの席ではJRの運転手をしている後輩に久しぶりに会いましたが、震災の時に新地駅で大津波に流された電車を運転していたそうで、跨線橋に避難して何とか助かったそうです。乗客を誘導してくれた警察官がいましたが、本当に警察官が乗っていて助かったと話してました。でも、あの大津波の光景が忘れられずトラウマになっているそうです。

告別式に出席した人たちは、地元で大津波の被害を受けた方が多くいますので、本当に深刻な話をしていましたね。

もう一年過ぎてしまいましたが、まだまだ大震災は終わっていないと実感します。

残念ですが、友人は自宅があった宅地と農地を手放して、南相馬以外に移り住むと言ってます。

帰りに自宅があった場所に行き、花を手向け黙とうしてきました。


さいたまスーパーアリーナ

2012年03月18日 18時00分00秒 | 震災・放射能

一年前の今日、郡山から埼玉県のさいたまスーパーアリーナに避難しました。

17日と18日の早朝2時からガソリンを確保するために並びましたけど、2時に並んだ時点で先頭から約2km先、気温は-4℃と厳しい寒さ、ガソリンを節約するために寝袋にくるまりながら朝まで待っていました。幸いにも両日とも3000円分のガソリンを入れることができましたので助かりましたね。ガソリンを入れ終わったのは10:00でしたから8時間もかかったことになりますよ。

それから開いていたヨークベニマルで買い物、物資が乏しい中、野菜とかくだものが購入できたからよかったです。

叔母の家に帰り最後の昼食、近所の人が叔母の家に避難してきている人がいるのを知って炊き出しのおにぎりと飲み物を持ってきてくれました。自分たちも大変な状況なのに本当にありがたい事でした。

食事を終え、3日も風呂に入っていなかったので三春にある田園生活館さとの湯へ行きました。そこにはやはり大熊から避難してきた人たちが多く入浴していましたね。東電からの差し入れとしてパンや下着類が無料で配られていました。俺らもこれから移動するのに不安なのでパンを大量に頂きました。

入浴を終えさっぱりしたところで、「出発は明日にしたら」という叔母でしたが、あまり甘えてられないので出発を決断。叔母のところに別れを告げたのは16:00頃でした。

避難者は高速道路を使用できる情報が入ったので、郡山南ICへ、料金所では警察官が検問をしていた。警察官に免許書の提示を求められたが、避難の際どこに免許書を入れたのかわからなくなっていた。あわてて荷物をかき回しやっと探し当てたが免許書は違う車に乗っていた。でも何も言われないで「道路が傷んでいますから気を付けて行ってください」と言われた。なんて優しい警察官なんだろう!!

東北自動車道は被災地へ向かう救援車両が列をなして走っていた。上り方向へ向かう車は少なく原発避難者がほとんどのようでした。国道4号線は渋滞が続いていましたので、高速道路が使用できるのを知らない人が多かったんでしょうね。高速道路のガソリンスタンドでは給油が可能で3000円に限定されていましたが、2か所で満タンに給油することができました。サービスエリアでも食事が可能で夕食をとり、ATMで現金を確保できたので気持ち的にだいぶ楽になったような気がする。

埼玉県の岩槻ICで高速を降りた、料金は無料と言われたので助かりました。そこからナビの言うとおりに車を走らせ、さいたまスーパーアリーナに到着したのは22:00を過ぎていたような気がする。地下の駐車場に入っていくと係の人が待っていた。「お疲れ様でした」と言われた時には思わず涙がこぼれそうになった。

その時点で避難者はまだ300人程度でした。

受付を済ませて毛布を頂き自分たちがこれから生活する区域に案内された。通路でリノリュウムの上に段ボールをひき一人一枚の毛布で過ごさなければならないようでした。

でも暖房が利いていて暖かかったので背中の痛さを我慢すれば寝ることはできましたね。

そこから3月28日までの生活が始まりました。住所はさいたまスーパーアリーナ 2F 210が住所になってしまいました。

入浴は15分程度離れたところにある「大宮大成鉄道村」という健康センターに一日おきに通いました。それが唯一の息抜きでしたね。後は連日、本か新聞を読んで暮らす生活が続きました。

孫たちは徐々に慣れてきて、サッカー選手のサッカー教室に参加したりイベントに連日参加できるのでストレスが溜まらず助かりました。

食事も当初はおにぎりだけでしたが、弁当やパンそして炊き出しのトン汁など充実していました。本当に埼玉県やボランティアの皆さんには感謝です。

でも残念だったのは、双葉町の態度でした。

さいたまスーパーアリーナに避難した人は2500人程度で、そのうちの1800人は双葉町民でした。双葉町民とその他の避難者には差別みたいなことが多くありましたよね。議員の皆さんが慰問に訪れても「双葉の方ですか」と聞いていたっけ。「南相馬です」というとそっけなくかわされるようなことがよくありました。町長は毎日管内放送を使って「双葉町民の皆さん」とあいさつします。3分の1は双葉町民以外の人なんだから「福島県民の皆さん」だろ!! 「双葉町民の皆さん、今日はテレビで有名な○○さんが皆さんのために来てくれます。3Fのどこどこに集まってください。」みたいな双葉の事しか考えない行動ばかりでした。同じ福島県から避難してきた人たちは「双葉が誘致した原発で俺たちが被災しているんじゃないか」と、双葉町長のあいさつが始まると怒りをあらわにしていました。

俺もいまだにこの顔と声を聴くたびに怒りが込み上げてくる。

いろいろなことがありましたが、わずか10日間、支えていただいた多くのボランティアの皆様、埼玉県の職員の皆様には本当に感謝申し上げます。あの生活の光景はいまだに頭から離れません。

ディスクゴルフの多くの仲間も慰問に来ていただきました。本当にありがとうございました。

これまでの人生で初めての経験でしたが、これからの人生で再び経験することのないように祈るだけです。


JPDGA公式戦スケジュール

2012年03月17日 09時34分42秒 | ディスクゴルフ

JPDGA(日本ディスクゴルフ協会)の公式戦スケジュールがやっと公開されました。

昨年はJPDGA会員登録したのに公式戦に参加できませんでした。なんかディスクゴルフから離れていると公式戦や大会参加への意欲がなくなりますよね。今は会員登録するかどうか悩んでいるところです。

県協会の会長が登録しないではまずいのかな? 俺は来年も会長だっけ? なんか忘れてきた!!

いつも参加していた

みちのくオープンは、8月18日・19日に岩手県北上総合運動公園

東北オープンは、10月7日・8日に秋田県由利本荘市水林スポーツ公園

いつも参加したかった

関東オープンは、7月7日・8日に栃木県宇都宮市

昭和記念公園オープンは、11月2日~4日に東京都立川市の昭和記念公園

会員登録しなくてもこの大会は参加できるように努力しようかな?

そして、福島県でも公式戦が開催されるようです。

震災前は、南相馬市馬事公苑で日本選手権と南相馬オープンを開催していましたが、原発事故で活動が停止され大会開催なんかできない状況に追い込まれてしまいました。これからもたぶん大きな大会開催は無理でしょう。

そういうことを考えてか? JPDGA会長と福島県フライングディスク協会のとかさんが話を進めていたそうです。

これまで福島県フライングディスク協会が開催していた「会津オープン」を公式戦LT(ローカルトーナメント)として開催するそうです。でもスケジュールを見ると「公認大会」になっている?????

第10回会津オープンは、9月1日・2日に下郷町の大川ふるさと公園で開催します。今年は福島県ディスクゴルフ協会が主管だそうです。福島県ディスクゴルフ協会の皆さん、会津オープンに参加して大会を盛り上げましょう!!

やっぱり一か月以上ディスクに触れていないとなんかどんどんディスクゴルフから気持ちが離れて行くような気がしますよね。

何も障害物がないけれど雲雀が原で投げるだけでもやってみますか?

どうでしょうかね? 南相馬に住んでいる皆さん!!


普通救命講習会

2012年03月16日 19時36分23秒 | 日記

今日は消防署が開催した普通救命講習会を受講してきました。

3時間の受講時間でしたがすべて実技講習で大変参考になりました。

震災があってから、いざという時に自分は何ができるんだろうと思うようになりました。目の前に人が倒れていたらどういう行動をとっていいかたぶん判断がつかないと思う。でも、知らないふりをするわけにもいかない。何かしなければならない状況に置かれたらと思ったら不安になってしまいました。そんな時に普通救命講習会の話が出たので受講をすることを決心し、今日実現しました。

かなり前に普通救命講習会は受講していたのですが、その後にAEDの普及があってからかなり処置方法が変わった話を聞いていたので、今日の講習で実際に体験できてよかったと思います。

今日受講した処置方法を紹介したいと思います。

一次救命処置(BLS)の手順

① 倒れている人を発見したら

まず周囲に危険がないか確認する。

これは二次災害を防ぐためであり救助者の安全が最優先するからである。救助者がけがをしては何もなりませんからね。

② 反応の確認

近くによって肩を叩きながら相手の耳元で「大丈夫ですか?」などと大きな声で呼びかける。

③ 通報

呼びかけに反応がなければ大声で「誰かいませんか」と叫んで助けを呼び、周囲の人に119番通報とAEDの手配を頼む。

「あなたは、119番に通報をお願いします。」

「あなたは、近くにAEDがあったら持ってきてください。」

④ 呼吸の確認

呼吸確認は以前の「見て・聞いて・感じて」ではなく目視だけで迅速に行う。10秒以内で胸とお腹の動きを見る。

普段通りの呼吸がある場合は、回復体位と言って嘔吐した場合のどに詰まらないように、また、呼吸が楽になるように横向きに寝かせる。

⑤ 胸骨圧迫

普段通りの呼吸がない場合は心停止の可能性が高いのですぐに心臓マッサージに入る。

胸の真ん中に手の付け根を置き、肘を真っ直ぐ伸ばし上半身の動きで、少なくとも5cm程度沈むように、少なくとも100回/分の速さで圧迫を30回繰り返す。子供の場合は体の3分の1くらい沈むように。

訓練をうけていない救助者は気道確保・人工呼吸を行わずAED到着まで胸骨圧迫を続ける。

十分な訓練をうけている救助者は胸骨圧迫30回のあと人工呼吸2回を行う。

周囲に人がいる場合には2分で交代してもらう。または交代を申し出る。胸骨圧迫だけ2分~3分でも相当に疲れる。1分間だけの交代でも相当に助かる。一人で続けていると極度に疲労し圧迫が弱くなってくる。俺の場合は30回でも疲れてしまいました。

⑥ 気道確保と人工呼吸

気道確保は、仰向けに寝かせた状態で、片手で額をおさえあごの先端を持ち上げる。

人工呼吸は、口を覆い、鼻をつまむ。約1秒かけ胸の上りが見えるまで2回呼吸を吹き込む。肺活量測定のように多量の呼気を吹き込むと空気が胃に流れてしまうので注意すること。

胸骨圧迫(心臓マッサージ)と人工呼吸の割合は、30:2で胸骨圧迫を優先する。訓練を受けていない方は、胸骨圧迫だけを繰り返してもよいということです。とにかく心臓を動かし続け血液を流し続けなければならないということです。30回の心臓マッサージはかなりきついです。それを救急隊が到着するまで続けなければなりませんので、やはり交代の人を要請しないとだめですね。

⑦ AEDが到着したら

すぐに使用します。

AED には蓋を開けると自動的に電源が入るタイプと救助者が電源ボタンを押す必要のあるタイプとがあります。

電源ボタンを押すと機械が操作方法をガイドしてくれます。その操作方法に従って操作しましょう。でも、準備している間は胸骨圧迫を続けてください。

AEDの操作は、

1. 機械の電源ボタンを押すまたはフタを開ける。

2. パットを取り出しイラストの通りに体に張り付ける。胸骨圧迫を続けながら張り付ける。

3. 「解析中です離れてください」とメッセージがあったら身体から離れてください。体に触れていると誤作動を起こすことがあります。

4. ショックが必要な場合は、「ショックが必要です。充電中です。離れてください。」の案内がありますので、身体から離れて充電完了を待ってください。

5. 充電が完了し「ショックボタンを押してください。」と案内があったら身体に触れていないことを確認しショックボタンを押します。

6. ショックが完了したら、AEDが心臓のリズムを自動的に解析します。

7. 「ショックは不要です」と解析したら心停止状態ですので、すぐに胸骨圧迫を再開します。その後、約2分間で再びAEDが解析を開始します。そして、4.の操作に入ります。その処置の繰り返しを救急隊が到着するまで続けなければなりません。

子供の場合は、子供用のAEDパットがありますのでそれで実施してください。

以上の処置手順を繰り返し練習しましたが、いざという時に一人では講習を受けた人でも本当に難しいと実感しました。本当に周りの人の協力が必要ですね。

知らないふりや関わり合いになりたくない人が多くいると思いますが、いざという時には恥ずかしがらずに大声で助けを求めてください。、みんなで助けるということが大事ですね。

俺も心臓に疾患があるのでもしかすると誰かに処置をしてもらう立場になるかもしれません。その時にはよろしくお願いします。なるべく力のある男は胸骨圧迫を、力のない女性は人工呼吸をお願いします。

消防の防災記念館や防災センターみたいなところではいつも普通救命の体験ができると思いますので、皆さんもいざという時のために体験してみてはどうでしょうか。


避難

2012年03月15日 19時48分51秒 | 震災・放射能

ちょうど一年前の今日南相馬から避難しました。

14日の夜、「警戒区域」(その頃は太田川が警戒区域の境界になっていた)の方から「避難してください」との広報が聞こえてきていた。「早く避難しろ」と電話もひっきりなしにかかってきていた。

テレビ局のアナウンサーで以前交流のあった人からも電話があった。「避難したんですか?」と聞かれたので、「いや、家でビール飲んでる」と答えると怒られてしまった。みんな必死に避難しているのに不謹慎なのかな?

天気予報で風向きを見ていると西か北西の風が吹いているので安心している俺は変だったのかな?。

そんな姿を見て俺の親たちは息子を当てにできないと判断したんだろう。「俺たちは明日避難する」と言い出した。

実は俺も避難したいのは山々だったけど、車が津波にやられていたので、みんなで避難するだけの車とガソリンがなかった。

15日

何とか農機具のガソリンをかき集め親の車を満タンにした。「自分たちだけで大丈夫だから」と言って聞かないが心配なので、姉の家族も福島のホテルに避難すると聞いていたからそちらにお願いすることにした。

俺たち夫婦の車にはガソリンが半分しかない。津波の被害に遭った俺の車にはほぼ満タンにガソリンが入っていたので、とりあえず会社に行って車からガソリンを抜いてみることにした。

会社に行き俺の車を見るとすでにガソリンの給油口がこじ開けられガソリンが抜き取られていた。数10台の被災車があったがほぼ盗難にあっていた。「ひどすぎる!!」 よく見ると荒らされている車が多くあった。

仕方がないのであきらめて家に帰り避難の準備をした。

娘や孫、妻の実家の家族と合流し郡山の叔母のところにとりあえずお世話になることにしたので、食料になるものをかき集めて、おにぎりを大量に作り出発した。

南相馬から脱出する車が福島方面に続いていたのを覚えている。

「これからどうしよう」とばかり考えながら運転していたような気がする。

郡山の総合体育館で雨に濡れ、寒さに震えながらスクリーニングの順番を待っていたっけ。

その夜から叔母さんの家のこたつに8人で3日間寝ました。

次の日から凍えそうになりながらガソリンを確保するのに並んだっけ。

これまでの人生50数年で、これだけ大変な仕打ちを受けたことはなかったような気がする。

あれから一年、今は思い出となりつつあるがこれからの人生で忘れることができない数日間だったと思う。

これからもこの思い出を笑って話せることはないような気がする。


いじめ

2012年03月14日 19時49分03秒 | 震災・放射能

昨日の新聞に「避難中学生から恐喝容疑 会津地方の同級生4人補導」という記事が載っていた。

会津地方の中学1年生が県中地方の学校から放射能から逃れるために転校してきた男子生徒を恐喝し金銭を脅し取ったということだ。かかわった生徒は16名もいて総額は50万円以上になるという。

放射能の恐怖から逃れるために避難し、避難した先で集団恐喝にあい、また避難しなければならなくなった気持ちは大変なものだったろう。

確かに会津地方は風評被害だけで放射能の恐怖はないかもしれない。だから放射能の恐怖から逃れてきた子供の気持ちなんか理解できなかったのかもしれない。でも、この行為はひどすぎる。

同じ福島県人でこんなに大変な思いをしているときに、こんな事をするなんて福島県の恥ですよね。

先日、隣組の総会があった時にもいじめ話が出ました。

「緊急時避難準備区域」内では学校の再開ができずに、30km圏外の学校を間借りして授業をしていたのですが、やはり他校の生徒への嫌がらせは多くあったようです。

トイレを使わせてもらえなくてお漏らしをした子供もいたと聞きました。

小学生の孫がいるじいさんも小学校の先生をやっている人に抗議していましたが、表面に出ないだけでかなりの嫌がらせがあったようです。先生も注意して見ているようですがなかなか見つけて注意することが難しいと言ってました。

俺の孫も山形県の小学校で受け入れてもらってますが、いじめにあっているようなことは聞きませんでしたので安心しています。

早く友達を作ることができない子供や、なかなかみんなに打ち解けることができない子供が標的にされてしまうんでしょうね。

南相馬市原町区の幼稚園から小学生までの子供は半数以上がまだ避難している状況です。避難している子供たちは、本当は南相馬から離れたくて避難しているんじゃないんです。みんな以前のように友達と一緒にいたいのに無理やり離されているんです。かわいそうですよ。

避難した先の学校でいじめにあっている子供がいると聞くと、自分の孫がいじめにあっているようでかわいそうでなりません。

こどもだけではなく大人へのいじめもたくさんありました。

「福島」と聞いたり見たりしただけで、差別を受けたり、嫌がらせにあった話は多く聞いています。現実に嫌がらせにあった車も見たことがあります。表面上は福島県民の事を思っているようですが、嫌がっている人も多くいるということです。

原発事故直後は、福島県人というだけで結婚を破棄された話も聞きました。女の子を持つ親にとっては将来が心配だと言っています。

同じ日本人としてそういう行為をする人の気持ちが理解できません。

そういう人権的な風評被害もあることを国会議員の皆さんにも理解してほしいですね。

そして、東電の社長さん賠償金を出し渋りしているようですが、あなた方のせいでこのような嫌な思いをさせられている被害者の気持ちをわかってくださいよ!!


ふくしま復興の誓い

2012年03月12日 22時27分27秒 | 震災・放射能

3.11 佐藤福島県知事が「ふくしま復興の誓い2012」で「ふくしま宣言」を発表しました。

この宣言のように「前を向き そして明日へ」進んでいかなければなりません。

福島県民の代表で宣言した知事の宣言文を全て掲載します。

3.11ふくしま復興の誓い2012「ふくしま宣言」

 2011年3月11日午後2時46分。

 あの日、あの時を迎えるまで、このふくしまの姿を誰が想像できたでしょうか。
 大地震、大津波は、多くの尊い命と穏やかだった私たちの暮らしを、非情にも奪い去りました。
 原子力災害は、美しいふくしまを一変させました。
 さらに、風評被害は、地域の活力を奪い、私たちの心までも深く傷つけました。

 この1年、福島県民は、深い悲しみや悔しさを抱えながら、ある人は、住み慣れた土地を追われ、ある人は、少しでも元の暮らしを取り戻そうと汗を流し、またある人は、家族離ればなれの生活を選びました。そして、見えない放射線への不安とも闘いながら、それぞれが必死に毎日を生き抜いてきました。
 これほど厳しい状況にあっても、取り乱すことなく、地域のきずなを大事にしながら、一生懸命頑張っている県民の皆さんを、私は誇りに思っております。200万県民一人一人の努力と温かい心に、深く敬意を表します。

 全国、そして世界の皆さん、これまでの、心のこもった数え切れない御支援に、福島県民は大いに助けられ、励まされ、勇気をいただきました。改めて、心より感謝を申し上げます。
 皆さんの支えと県民の努力があって、このふくしまにも、今ようやく復興の芽が出始めました。
 この小さな芽を、私たちみんなの手で、しっかりと大きく育てたい。そして、やがて大きくなったその木の下に、笑顔あふれる子どもたちが集まる、そうしたふくしまを、私は創っていきたいと考えています。

 地震・津波という自然災害に始まり、原子力災害さらには風評被害、人類がこれまで経験したことのない、このような多重の災害が、なぜ起きてしまったのか、私たちはしっかりと考えなければなりません。
「自然の脅威に対する十分な備えができていたか。」
「科学技術の力を過大に評価していなかったか。」
「原子力を扱うことの難しさと正面から向き合ってきただろうか…。」
 これらの問いの中に、未来への大切な教訓があるはずです。

 私たちは、科学技術の力を過信することなく、自然の持つ力の大きさをもう一度しっかりと心に刻み、全ての人が安心して暮らせる社会づくりを進めていきます。
 そして、二度とこのようなことが起きないよう、県内の原子力発電所を全て廃炉とすることを求めながら、再生可能エネルギーを推進し、原子力に頼らずに、発展し続けていくことができる社会を目指します。
 今、全世界の人がFUKUSHIMAを見つめています。私たちは、地域の発展と地球環境の保持が両立できる新しい社会の在り方を、さらに、そこに暮らす人々が共に支え合い、地域の文化や誇りをつないでいくことの大切さを、復興していく自らの姿をもって、世界に示してまいります。

 ふくしまが選んだ道は、決して平坦な道ではありませんが、県民は、すでに前を向いて立ち上がり、歩き始めています。県民が心を一つにして、この困難に立ち向かってまいります。

「私たちは必ず、美しいふるさとふくしまを取り戻します。
 私たちは必ず、活力と笑顔あふれるふくしまを築いていきます。
 そして私たちは、このふくしま復興の姿を世界へ、未来へと伝えます。」 

 災害発生から1年を迎えた本日、これを「ふくしま宣言」として、全世界の皆さんにお誓いいたします。

2012年3月11日 福島県知事 佐藤雄平

 

これまでの一年間本当に大変な思いをしながら頑張ってきた一年でした。南相馬のために、会社のために、家族のために、地域のみんなのために、いろいろな人のために地元で頑張ってきた人が大勢います。確かに放射能の影響はこれからの人生でどういう影響が出るかわかりません。でも影響の大きい子供たちは別として、我々は故郷をなくさないように頑張らなくてはなりません。そして、孫たちが安心して戻れるように、この「ふくしま」を「みなみそうま」を守ろうじゃないですか!!

ディスクゴルフ、バドミントンそして地域の復興、会社の復興、頑張らなくてはならない多くの事があります。そういう頑張っている姿をこれまでご支援いただいた全国の皆さんにお見せしようじゃないですか。

「ふくしまから はじめよう。」

大地震、大津波、原発事故と人類が経験したことのない大災害を同時に経験した福島県民から、この経験を生かした本当の復興をはじめましょう!!

これまでと違った本当に前向きな「がんばろう!! ふくしま!!」そして「がんばろう!! みなみそうま!!」ですよ!!


あれから一年

2012年03月11日 08時39分43秒 | 震災・放射能

東日本大震災から今日で一年を迎えます。

巨大地震と大津波に加えて東京電力第一原発事故が南相馬を襲いました。

人類が初めて経験した複合災害は

今なお南相馬を苦しめています。

震災・津波・原発事故では多くの方々が命を絶たれています。

お亡くなりになられました皆様のご冥福を

心からお祈り申し上げます。

「心ひとつに」

今日3月11日は脱原発よりも亡くなられた皆さんの追悼をお願いします。

そして、この南相馬を支援していただいた皆様に「ありがとう」の感謝の日にしましょう!!

これからの生涯も私たちは決して忘れません。

避難者を受け入れてくれた皆様

物資を届けてくれた皆様

南相馬を助けてくれた

自衛隊・警察・消防・消防団の皆様

南相馬の皆さんの支えになってくれた

福島県・南相馬市職員の皆様

全国から駆け付けてくれたボランティアの皆様

ライフラインの復旧に避難もしないで頑張ってくれた

工事関係の皆様

そして、遠くから必死に励ましたくれた全国の皆様

この一年皆様の支えによって南相馬は復興しようとしています。

ふるさと南相馬を支えて頂きましたことに感謝申し上げます。

ありがとう!!

この一年で築かれた「絆」は忘れません!!


3.11まで1日

2012年03月10日 07時00分00秒 | 日記

明日でいよいよあの大震災と大津波に見舞われた忘れもしない最悪の日から1年を迎えます。

あの日から一年間、多くの皆さんからのご支援や激励に支えられて生きてこれたんだと実感させられます。

皆さんからの優しさで、本当に涙もろくなったようにも思います。

震災と津波被害の翌日には会社の復旧しか考えていませんでしたが、その後に起きた原発事故で会社の復旧もできずに避難を余儀なくさせられてしまいました。

どこに行けばいいのか本当に困っているときに、郡山のおばさんが受け入れてくれました。自分も家の前が崩れているし、断水が続いているし、放射能が高くなってきていたので、南会津の息子のところに避難したかったのかもしれません。数日間でしたが本当にお世話になりました。

おばさんの家にいる間中次の避難先を探しまくりましたが、なかなか受け入れてくれそうなところは見つかりませんでした。みなさん大変な状況だから仕方がありませんよね。

そんな中、友人から埼玉アリーナが受け入れ開始した情報を頂きました。深夜に凍えそうになりながら2日間並んでガソリンを確保しすぐに埼玉に出発、深夜に到着したにもかかわらず快く受け入れてくれました。それから埼玉アリーナに避難している間中は、ボランティアの皆さんに本当に尽くしていただきました。感謝の言葉しかありません。

ディスクゴルフの多くの仲間も激励に来てくれました。本当に困っているときって駄目ですよね。本当にみんなの優しさが身に染みて感じました。毎日毎日「ありがとう」の言葉しかなかったように思います。

避難先から帰宅してパソコンを開いてメールを見たら多くの皆さんから安否確認のメールが入っていました。俺なんかを心配してくれる人が多くいることに感激してしまいました。

家は避難前と変わらぬ姿でいてくれました。盗難に遭っているのを覚悟していましたが、地元に残っている人たちが警備を続けていてくれました。自分たちが大変な時にみんなのために頑張ってくれている姿をみて、自分の恥ずかしさを思い知らされました。

ディスクゴルフ関係の多くの皆さんからもご支援を頂きました。

いわきのBANANAさんは自分も大変なのに「屋内退避」の南相馬にみんなに会うため支援物資を持ってに駆けつけてくれました。あの状況の中で合うことができたのは本当にうれしかったです。

 

アメリカかからはイノーバー社とヒーローUSAが共同でチャリティディスクを製作し、その販売代金を南相馬市に義援金として頂きました。JPDGA会長が直接桜井市長に渡しに来てくれました。

富山県ディスクゴルフ協会からも南相馬市へ義援金を頂きました。

岡山のももさんからは、被災者のためにチャリティランで集めたTシャツをたくさんいただきました。津波被害で何もなくなった皆さんはきっと喜んでくれたはずです。

南相馬市には全国の皆さんから約3億9千万円の義援金が集まりました。その中から市民の皆さんにも配分がありました。たぶんディスクゴルフ関係の皆さんから頂いた義援金は、南相馬市の協会会員のご家庭で頂いた金額相当と思います。ちゃんと皆さんの手元にわたってますのでご安心ください。そして、ありがとうございました。

南相馬市ディスクゴルフ協会・福島県ディスクゴルフ協会にも多くの皆さんからご支援を頂きました。

秋田県協会、東京都協会の皆さん、岡山のももさんからのご支援で南相馬市に残っている会員の皆さんはディスクゴルフを楽しむことができました。

ヒーロー様とディスクスポーツ様、岡山県協会のももさんからは復興祈念大会の賞品を協賛いただきました。

福島県協会にも栃木県、茨城県はじめ多くの皆さんからご支援を頂いております。

ヒーロー様がチャリティディスクを作成し、JPDGAで販売し、全国の多くの皆さんが購入した収益金からも義援金として頂きました。

本当にこれまで多くの皆様に福島県ディスクゴルフのためにご支援を賜りましたことに感謝申し上げます。

頂きましたご支援はディスクゴルフ復興のために大切に使わせていただきたいと思います。

福島県のいわき、福島の皆さんもいろいろと企画して励ましてくれています。南相馬市が活動できないと知っていち早く大会を開催してくれました。会長として何もできないふがいなさが恥ずかしく思いました。

個人的には、岡山のももさんに本当に助けていただきました。

農業ができなく、安心して食べることができないときに送っていただいたブドウは涙が出るくらいおいしいものでした。

そしていつも励ましてくれました。

ディスクゴルフをやっていたおかげで全国の皆さんから励ましていただいております。ディスクゴルフをやめたいと思ったことが多くありましたが、これまでの多くの人とのつながりがあったおかげだと思います。ディスクゴルフをやってて良かったと本当に思うようになりました。

家族、親せき、友人、地域の皆さん、ディスクゴルフ仲間、バドミントン仲間、会社の仲間とみんなの友情や絆に支えて守っていただいた一年だったと思います。今まで自分一人で何でも解決できてきたと思ってましたが、そうではなく皆さんの支えに守られてきたからこそ生きてこれたんだなとこの年になって初めてわかりました。

皆様、この一年本当にお世話になりました。

車が治ったので、今日は山形に避難している孫たちの顔を見に行ってきます。正月以来の再会ですので楽しみです。

明日はひたち海浜公園に行ってディスクゴルフをやりながら一年を迎えようと思いましたが、家で静かに過ごすことにしました。そして、14時46分に震災により亡くなられた方々のために黙とうをささげたいと思います。


3.11まで2日

2012年03月09日 08時00分00秒 | 日記

昨日の大安に愛車が無事に退院してきました。

あの大津波に吹き飛ばされて、大怪我を追いながらも電柱に抱き着いて生き延びた愛車でしたが、大手術を繰り返し、ドクターじじいにも見放されそうになりながら、全治363日でなんとかよみがえることができました。

昨日は、全快祝いに燃料を満タンに入れ50kmほど一緒に遊んでやりました。

ちょっと不具合があるけれども、快適に走り続けていましたよ!! こんなに回復できるとは正直思ってもいませんでしたけど本当に満足です。

これまで大変な思いをして治療を続けてくれたドクターじじいに感謝しなければなりませんね。

これで津波の傷跡が一つなくなりそうです。

これまで9か月間俺のために走ってくれた代車にも感謝です。壊れそうな状態の車でしたが本当に活躍してくれました。これで秋田まで行きましたよね。これでお別れになりますが、まだまだ元気で頑張ってください。

退院祝いにビールでも飲み交わしたいところですが、愛車はレギュラーガソリンしか食さないので俺が愛車の分まで飲んでやりました。