村爺のなんでもいいべ

南相馬市の馬事公苑を中心に活動しているディスクゴルフの話題や南相馬の出来事や思いついたことを書いていきます。

3.11まで3日

2012年03月08日 19時00分00秒 | 農業

大地が激しく揺れ、大津波が南相馬の沿岸部を襲った。その後に東京電力第一原発事故が追い打ちをかけた。あれから間もなく一年を迎えます。

南相馬市の農業も大打撃を受けいまだに復興できない状態が続いています。

南相馬市の津波被災を受けた農地は2600ヘクタール。国の被災農家経営再開支援事業を活用して、被災農家が中心となって農業復興組合を設立、がれきの撤去や除草作業にとりくんでいます。重機の入れない田んぼのがれきを手作業で取り除いていたり、雑草の生い茂った農地の草刈りをしている姿を毎日見ていました。小さなプレハブ小屋を事務所にして活動しているようです。いつもこいのぼりがすがすがしく泳いでいます。

雑草は放射能を含んでいるため牧草を丸めるようにまとめられて保管されるようです。

農地のがれきが取り除かれ道路も通れるように整備されていました。

被災された農家の皆さんは仮設住宅や借り上げ住宅から毎日通って作業を続けています。離れ離れになった地域の絆もこの作業で少しは回復するかもしれませんね。でも、被災農家の皆さんは自分たちの力では農家を再開させるのは無理だと実感しています。「もう機械や道具を全部流されたからでぎねーべ」という人がほとんどです。これからは農協や組合組織で経営しなければ復興はできないでしょうね。

今年も米の作付が自粛されました。25年度までに除染を完了させると言ってますが、汚染されたものの仮置き場や中間貯蔵施設の設置場所が決まっていないのに、果たしてどれだけ進めることができるのかわかりません。とりあえず地域の仮置き場が決まったところから除染を開始するようなことを言ってました。

以前の安心して暮らせる穏やかな南相馬市はいつになったら戻ってくるんでしょうか?

あの稲穂が風になびく風景はいつになったら見ることができるんだろうか?

平成22年に収穫した米も残り少なくなってきました。いよいよ自分で作った米以外の米を購入して食べなくてはならなくなります。今まで30年以上米作りをしてきて初めての経験です。

もう自分の田んぼで作った米を食べることができないんでしょうかね。

荒れた田んぼを見るたびにむなしさだけがこみ上げてきます。


3.11まで4日

2012年03月07日 18時21分34秒 | 日記

朝、雨で雪が解けた庭を見ると福寿草が咲いていました。

土色の庭にこの黄色い花が咲き始めると春の訪れを感じさせられますよね。

 

以前、山菜取り好きの父親が山奥から採ってきて庭に植えたもので、厳しい寒さが緩んできた頃に咲き始めていたような気がします。

昨年は、震災や避難でごたごたしていたので咲いていたのか記憶にありません。

花言葉は、永久の幸福、思い出、幸福を招く、祝福だそうです。

今、一番憧れる言葉たちですよね。

先週の土曜日に愛車の見舞いに行ったときに日曜日には治療が終了すると言っていたので、今日は仏滅だから明日の大安に退院するかと期待して行ってみたところ、必死になって車に磨きをかけていた。日曜日にはできなかったようですね。これまで、「部品がそろったからすぐにできるから」と言われてから半年、「来週には乗れるから」と言われてから1か月間? 何回「来週には」が続いたことか。土曜日には「明日にはできる」が水曜日にはできてない。今日も「明日には乗れるから」と言われた。結局11日の1年目かな? とにかく明日の大安に退院を期待しよう!!

あの津波に吹き飛ばされてからほぼ一年が過ぎてしまいました。

津波の傷跡がやっと一つ消えてくれそうです。


3.11まで5日

2012年03月06日 18時54分28秒 | 震災・放射能

今日の福島民報新聞に前南相馬市副市長の故中川康弘さんの記事が載っていた。

私もスポーツ関係で活動しているときに、市とのつながりの中で色々とお世話になったり一緒に活動をしてきた仲なので、津波の被害に遭い亡くなったと聞いた時には本当にショックでした。

中川さんは本当に豪快な人で思ったことをズバっと言える数少ない人だったのかもしれません。いつもざっくばらんに議論し合える人でした。そういう性格でしたので人に好かれて、自然と周りに人が集まるような親しみがありましたね。「中川さんみたいな人が市長になればいいのに」といったことがありましたが「俺はなんねー」なんて笑いながら答えていましてたよ。南相馬市にとっては宝物を失ったのかもしれません。

写真は、南相馬市で開催したワールドディスタンスイベントに参加した世界チャンピオンのジェンキンス兄弟と市長に表敬訪問をした時のものです。市長が不在で中川さんが対応してくれました。

新聞記事には、中川さんの生前の事や残された家族の事が載ってますので、ここにも紹介させていただきたいと思います。

情け厚く、友に愛され 「何気ない話をしたい」

南相馬市鹿島区 中川康弘さん=当時63=
 南相馬市鹿島区の仮設住宅。電気ポットの湯が沸く音がかすかに聞こえる。壁のボードには仕事や登山、ボウリングなどのスナップ写真-。同区烏崎の元南相馬市副市長中川康弘さんの笑顔が並ぶ。
 妻惠美子さん(64)と4年ほど前、パスポートを取得した。10年間有効なパスポートだったが、1度も使うことはなかった。これから2人で、たくさんの思い出をつくり、ボードにはもっとたくさんの写真が並ぶはずだった。
 昨年3月11日、自宅で東日本大震災に見舞われた直後、津波を警戒して沿岸部に向かった。「ちょっと見てくる。まだ(逃げ遅れている人が)いるかもしれない」。近所の人に告げた。それが最後の姿だった。
 南相馬市(旧鹿島町)生まれ。相馬高を卒業し、昭和41年に旧原町市役所に入った。同市総務企画部長、南相馬市総務部長などを歴任し、平成22年に退職した。
 一男二女に恵まれた。「子煩悩」。3人が社会人になった後も変わらず、常に気に掛けていた。「元気か?風邪引くなよ」。東京で暮らす娘に日々の出来事などをメールで送る。同居していた息子とは晩酌し、休日は息子の友人も誘ってゴルフを楽しんだ。
 「人生を後悔したくない」。友人の1人は中川さんの口癖を思い起こす。退職後は庭木の剪定(せんてい)、アユ釣り、キノコ採りなど四季を通して、地域の山々や海沿いを歩き趣味を楽しんでいた。少年時代から続けていた野球では、旧原町市役所チームの監督も務めた。感情を表に出す豪放な性格は多くの人に愛され、毎晩のように友人を招いて酒を酌み交わした。自然と周りには人々が集い、そこには笑顔があった。
 行方不明になって1カ月が経とうとする昨年4月。東京電力福島第一原発事故を受けて新潟県に避難していた惠美子さんの元に遺体発見の知らせがあった。海に面した自宅から200メートルほど内陸に入った住宅跡でがれきの中から発見された。惠美子さんが最後に見たジャンパー姿のままだった。手首には娘がプレゼントしたブレスレットがしっかりと巻かれていた。
 「人が大好きだったから、たくさんの友達がいたのかもね」。惠美子さんは1枚の写真を手に取り、友人とキノコ採りを楽しむ夫の得意気な表情に、ほほ笑んだ。「何気ない話をしたい。そんな時、そばに夫がいない現実を実感してしまう」

中川さんの息子とは会社で一緒に働いています。写真もすべてなくなってしまったと聞いたのでこの写真をあげました。いろいろな機会に以前交流のあった方から写真頂いたり父親の事を聞かされるそうです。本当に父親は大きな存在だったんだと言ってました。

南相馬市烏崎地区は140数世帯が生活をしていましたが10数戸を残しすべて流されてしまいました。そして54人もの人が命を落としています。中川さんの家も目の前が海でした。現地に行ってみた時には公民館だった建物が残っているだけで当然何もない状態でした。

本当に無念ですが今ではどうしようもありません。

中川さん本当にお疲れ様でした。そして我々のために頑張ってくれたことに感謝申し上げます。

中川康弘さんはじめ津波の犠牲になられた多くの皆様のご冥福をお祈り申し上げます。


お祭り

2012年03月05日 18時26分45秒 | 日記

今日は啓蟄、冬眠していた虫が目を覚まして地上へ這い出してくる時期とされています。金曜日は大雪でしたが今日は大雨になりそうです。明日は10℃を超える暖かさになるようですので、本当に冬眠している虫たちも、今日の雨で目覚めて明日の暖かさで這い出してくるかもしれませんね。

昨日は、私の隣組が氏子として守っている神社の例祭が行われました。本当の例大祭は4月8日に行われることになっているのですが、例年その時期になると農作業が忙しくなるということで1か月早めて開催しています。でも、今年も稲の作付は見合わせるので本当の例祭日で開催してもよかったのかもしれませんね。

神社は、綿津見(わたつみ)神社で別名八龍様とも呼ばれています。

綿津見は、綿津見(わたつみ)と書かれる他に「海神(わたのかみ)」と呼ばれるそうです。「わた」は海の古語で「つ」は「の」で「み」は神霊の意味だそうで、「わたつみ」は「海の神霊」となるそうです。また、海の別名としても使われるそうです。

八龍神社は、農耕生活の守護神と雨を掌る神とされていると聞きましたので、この地域の農耕生活を守るために祭ったのではないかと思われます。

綿津見神社は海の神様ですが、私の幼い頃は八龍様と言われていましたので、海で生活していた人々が陸に上がって農耕生活を始めてこの地に祭ったのかもしれませんね。

昨年は3月6日に例祭を開催し、その5日後に震災の被害を受けてしまいました。

いつもの年だと宮司の祝詞の中では「この地の人々の安らかなる日々と豊作」を祈るのですが、今年は「大震災と原発事故でこの地の人々は本当に苦しめられている。そしていまだに稲作をはじめ農耕がかなわぬ日々を送っている。この地の人々が安らかなる日々を送れるように、いつものように農作業に励めるように、払いたまえ、清えたまえ」のような言葉が祝詞の中に入っていたと思う。宮司さんも我々のことを思って祝詞をあげていたんですね。

これで悪鬼が去りこの地に平和が訪れてくれるとありがたいのですが、それを祈るしかないですね。

野田さんよ南相馬の放射能を払いたまえセシウムを清めたまえ


3.11まで7日

2012年03月04日 08時33分45秒 | 震災・放射能

3.11の大震災発生から後7日で1年を迎えます。

14:46の震災発生から津波・原発事故に見舞われこの一年間は本当に気の休まる日はありませんでした。不安がつのりストレスから体調を崩しそうになったことも多くあります。気持ちが弱くなりすぐに涙がこぼれるような事も多くあったような気がします。この地に生活しているとなぜか気持ちが沈みがちになってきます。先週もそうですが、この町から離れて飯舘村を過ぎるとなぜか気持ちに安心感みたいなものが出るような気がします。なぜでしょうね?

南相馬市でも多くの人々が地震・津波で被災し、原発事故で避難を余儀なくされています。

住宅被害は、全23898世帯中1635世帯(津波1162世帯・地震18世帯) 全世帯の6.8%が住まいを失ってしまいました。

人的被害は、死者631人 行方不明者7人 負傷者 59人 市民の0.89%の人が命を落としてしまいました。

現在の避難者は、人口71494名 市内居住者43514名 市外避難者 26210名 現在でも36.7%の人が避難をしている状況です。

私の友人も津波の被害で住まいを失ってしまいました。この写真のところには、うっそうと茂った木々の中に大きな住宅が2軒並んでいました。

今まで木々にさえぎられて見えなかったのできずかなかったのですが、震災後に行ってみた時にはこんなにも海が近かったのかと実感しました。あのうっそうと茂った木々は今では大きなモミの木が3本と欅の木が2本残るだけです。その木々と一緒に住宅と父親と母親の遺骨が流されしまいました。母親は前の年の暮れに病気で亡くなりまだ納骨を済ませていませんでした。父親は私らが行くといつもニコニコと話をしてくれる優しい父親でした。でもいまだに行方不明のままです。妻の遺骨を抱きながら流されてしまったのか遺骨も見つかりませんでした。一緒に捜索と流されたものを探し回ったのですが、写真が見つかるくらいで何もなくなりました。写真も周囲1km位に散乱していたのでどこまで流されたのか想像もできないくらいでしたね。今ではきれいに片づけられあの面影は失われつつあります。友人も仕事の都合で遠方に行ってしまいましたが、地元に帰ってくるかはわからないと言ってます。

その右隣は3世代が一緒に暮らす家族が住んでました。息子が結婚して新潟の勤務先から地元に帰ってきて間もなく被災してしまいました。ばあちゃん・母ちゃん・嫁さんの3世代の女性が被災してしまいました。嫁さんだけが行方不明でした。嫁さんは新潟出身でその両親が震災直後から捜索に来ていました。毎日毎日同じところを歩き回り「必ず見つけるまで帰らない」と探し続けていました。その姿を毎日見るたびに涙がこぼれてきました。でも結局見つからないままです。「原町に返さなければよかった」といった言葉が忘れられません。

最近、一周忌を前に告別式をする人が増えてきました。私の友人もあきらめることができずに1年間は待ってみると言ってます。まだまだ踏ん切りがつかないようです。でも、一周年を境として気持ちの変化が生まれてくるかもしれませんね。

私も会社で仕事をしていて地震が発生するとなんか嫌な気持ちになります。なにかトラウマがあるのかもしれません。

一年が過ぎ、早く気持ちの切り替えができるといいですね。


玉川のコース情報

2012年03月03日 16時58分11秒 | ディスクゴルフ

昨日、仕事で須賀川に行きましたが、早めに終わったので玉川村にあるディスクゴルフコースの状態がどうなっているのか確認してきました。

以前行ったときにはがれき置き場となりがれきの搬入が行われていましたが、コース全てががれき置き場になっているんじゃないかと心配していました。

がれきはいつも使っているコースの#1・#2あたりに置かれていました。#3~#9は使用可能の状態です。がれきの量もあまり増えてはおらずたぶんそれ以上増えないのではないでしょうかね。分別が始まっているのかもしれません。

昨年は草刈りが行われなかったようで枯草に覆われていました。

玉川村の許可が受けられれば、がれき処理の邪魔にならないように使用することができそうですね。

この時から雪が降り始めてきました。スタットレスタイヤがすり減っている代車の軽自動車での帰りが心配になってきたので焦って帰途に就いたのですが、予想以上の降りになり川俣町に着いた時には圧雪状態。登り坂は大丈夫かとひやひやしながら登っていくとやはり急坂で立ち往生している車が!! 俺の車も停止したとたんにスリップで前に進まなくなった。警察が到着したので話を聞くと八木沢峠で事故があり通行止めになっていると言われた。俺の車も俺は前に進もうとするのだが、なぜか俺の意思とは反対に横を向いてしまう。警察の勧めもあり仕方なく引き返すことにしました。そこから福島市に向かい市内の健康センター「カッパ王国」へ、思わず大雪のおかげで温泉と生ビールを味わうことができました。

今週中には愛車の退院が可能といわれていたので帰り足で整備工場に行ってみましたが、ドクターじじいが除雪で最後の整備ができなかったと言ってお茶を飲んでいた。「えぇぇぇ~!!」と言ったら、「明日は仕上げるから」と言ってたのでいよいよ退院の日が近づいてきたと思われる。全治360日くらいかな?


SPEEDI

2012年03月01日 19時00分00秒 | 震災・放射能

文部科学省が開発した緊急時迅速放射能影響予測ネットワークシステム (SPEEDI) のデータ公表が事故直後の計測時点ですぐに発表されませんでしたが、その影響で関東および福島近県の国民がひろく被曝の危険にさらされたと思われます。事故直後から新聞や各識者らから指摘され続けていましたが、事故の直後に外務省を通じてアメリカ軍にはいち早く提供していたという報道がありました。。一方、菅内閣は6月に国際原子力機関(IAEA)に提出した報告書の中で、損壊した原発の放射線放出に関する完全なデータをリアルタイムで入手することができず、また、SPEEDIが推測に基づいて作成した予測結果を公表すれば「不必要な混乱」を招く可能性があったと報告しています。

これまで長年増大な税金をつぎ込んで開発してきのに、その分析に必要とするデーターが推測のデーターしか集まらないとは、これまで開発してきたやつらに食い尽くした税金を返してほしいくらいだよ!!

これまでは、アメリカには情報を流してなぜ被曝をこうむるであろう被災者の避難のために使えなかったのか疑問に思っていたが、先の民間有識者でつくる「福島原発事故独立検証委員会」の調査結果によると有効活用されなかった放射性物質の拡散予測システム「SPEEDI」については、菅氏ら官邸トップがその存在すら知らなかったことを証言から裏付け、「宝の持ち腐れに終わった」と結論づけた。とあります。

事故直後は何もわからなくて後で聞いて言い訳しただけじゃないか。官邸のトップがわからなくても斑目委員長はわかっていただろう、意見くらい言えなかったのかな!!

じぁ誰がアメリカにSPEEDIの情報を流したんでしょうかね。官邸のトップが知らなくても危険な状態にあったことは確認されていたはずです。アメリカの人たちがいち早く「100km以上離れろ!!」と言っていたのはその情報があったからだろう。我々は何も知らないでさまよい歩いていた時に、避難していた場所の放射線量が高いのを知らずに大変な生活を強いられていたというのに、ただ「知らないふり」をしていただけじゃないか。

危機管理がしっかりしていれば「憶測」のデーターで予測した結果でも危険が予測されたら避難させるのが本当だろう。結果が公表されない影響で広い地域の多くの人たちが多量に被曝していたら、誰が責任を取るんだろうか? 民間の企業が負傷者を出すような事故を起こしたなら管理者の責任は免れないはず。今回の事故で避難を強いられて多くの人が亡くなっているし、被曝している人も多くいる。また、多くの人が被害を受けている。普通の事故であれば刑事責任になるはずでしょう。

調査結果の記者会見では、後進国でこのような事象が起きて菅元総理のような行動をとったら死刑に値するようなことを言っていた。東電の社長は責任を取って辞職しただけだ。ただ逃げただけじゃないか。

この原発事故は国と東電の癒着や馴れ合いから発生したと言ってもいいくらいだと思う。責任をうやむやにして誰も責任を取らないで終わるんでしょうかね。

もうすぐ発生から1年を迎える。せっかく落ち着いてきたのに最近の新聞記事を見るたびに怒りが込み上げてくる。