「再び男たちへ」塩野七生著より頂いたお題である。 台所感覚と国家感覚と国際感覚の三大感覚の内、全てを台所感覚で判断するのが民衆であると論じていた。
五百年前のマキャッヴェリ語録を、「民衆」とあるところを(台所感覚)と読み替えていたものを引用する。
「・・・大局的な事柄の判断を民衆(台所感覚)に求める場合、総論を展開するのではなく、・・・こうやればトクで、こうやればソンになる・・・と説明・説得することである。
・ ・・いかに有益な政策でも、表面上はソンになりそうだったり、または外見がぱっとしなかったりすると民衆(台所感覚)の賛同を得るのは至難のわざとなる。」
マキャッヴェリの達観を民衆・平民・凡人の小生に分かり易く翻訳してくれたのが、塩野氏のエッセイである。
小生の毎日の生活を振り替えって見ると、まさにその通りである。目覚めてから、洗面・朝食・・・・一日の全行動が「損得勘定」基づいているのである。
最も分かり易い損得勘定とは、数字で判断出来る金銭上の事である。
難しいのは、数字で表せない損得勘定なのである、これには公式もなければ基準も定かでない場合が多い。一生かかってても判らないような気がする。
その「損得勘定」を当座の事とせず、
3ヶ月先、3年先、30年先(こんな長いのは小生の場合には必要ないが)の「損得勘定」に思いをはせて判断できる台所感覚が持てたら、
一段と賢人に近づけるように思うのだが、凡人には至難の業である。
相も変わらず、スーパーマーケットで安物探しの毎日を過ごすことになりそうである。凡人・平民・民衆ならこれもしようがないのではなかろうか。