“世の中には、人に勧めるべきか、勧めないほうが良いのか迷うことが三つある。第一は結婚、二つ目は戦争、最後の一つは聖地巡礼。”と「海の都の物語(塩野七生地著)」に書いてあった。
1480年ミラノ公国の官吏サント・ブラス(35歳独身)が休職して、ヴェネツィア共和国の巧妙な観光政策のルートに乗って巡礼出た時の記録の部分を読んでみた。
商人の国であるヴェネツィアは営利が期待できれば何にでも手を出した。聖地巡礼は異教徒の妨害をはじめ苦難と危険に満ちた旅であるが、西欧キリスト教徒の究極の夢でもあった。
ヴェネツィアは、聖地巡礼が営利事業として立派に成り立つと判断し、行政指導を徹底し国ぐるみで、この観光事業に取り組んだ。
1.12c末、法皇アレッサンドロ三世により、キリスト昇天祭にヴェネツィアを訪れ、聖遺物を礼拝すると「完全免罪」を得るという特権を与えられた。これは大変な特権で、他にはローマが唯一あるのみ。
2.キリスト昇天祭の後、ほぼ十日間隔で聖霊降誕祭、キリスト聖体祭と続き、都度聖遺物が公開された。その上、西欧諸国から集まった人は、ヴェネツィア貴族に付き添われて祭列に参加できるという政府の方針は大好評だった。
(聖遺物とは、聖ルカの腕、使途シモンの足の骨、聖女ウルスラの太ももの骨、イエスのいばらの冠のいばら1本、イエスが架けられた十字架の木片・・・その他の多数の聖人の骨や歯など)
3.当然、美しい観光コース見物や見世物など物見遊山も楽しめた。
4.巡礼達には、数ヶ国語が堪能な観光案内人を兼ねた巡礼専用の無料の世話人が、宿の手配やその他至れり尽くせりの世話をした。
このように国を挙げて観光事業に邁進する体制を取ったので、旅行者には大変喜ばれた。痒いところに手が届くようなサービスに加えて、さらに、ヴェネツィアが企画したのは団体割引適用の完全パックツアーであった。
このパックツアーは、ヴェネツィア独自の「聖地巡礼事業法」により、船や宿の定員管理、食の品質管理、生活環境管理、警備兵や医者の配置義務などを規定し、さらには、万一旅先で亡くなった場合には、丁重な遺体の処置、遺族への返還、旅費残金の返却等々までも網羅していた。
このような国家商法により、安全性・快適性など最高の評判を得、中世における最大の観光事業国の王座を2百年間も守れたのである。
特にフランス、イギリスからの巡礼者にとって地の利を得ていたライバルのマルセーユは、行き届いたサービスという点で劣っていたので、ついにヴェネツィアに勝つ事はできなかった。
個人主義思想の強い西欧にあって、干潟に逃れ国家を建設すると言う、未曾有の苦難を乗り越えた国民だからであろうか、貴族・権力者・大商人達もお国大切と、全てに率先して応分の負担と義務を果たすという、たぐい稀な国家を建設したのであった。
それ故に、国民の国家への忠誠心と行政指導の徹底により、千年にわたり商業国家として繁栄を続けられた。 現在世界に蔓延する汚職や投資マネーの暴走などは都市国家ヴェネツィアにはなかったようである。
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