マキャッヴェリは、かくの如く言うのである。
「民衆というものは善政に浴しているかぎり、とくに自由なぞを望みもしなければ求めもしないものである」
良妻にかしづかれた“ぐ~たら”亭主は、自分で考える必要は無いし、自分で何かを決めるために考え悩む必要も無い。
ただ単に、良妻の言うがまま、するがままに従えば、生命と安全は保障され、自分で思い煩い悩むことは全く無いのである。四六時中、緊張したり決定のための努力をする必要が一切無い極楽での暮らしをしているのである。
自由には責任が伴い、独立には決定と実行を要するなど、決して自由と独立は謳歌してだけいればよいというものではない、「自分で生きねばならぬ」と言う面倒な事とは無縁ではいられなくなるのである。
読者の中で、自分が良妻だと思っている人は、ご亭主に今より多くの負担を掛けて、自由と独立の有難味を教える必要があるが、無理にとは言わない、なぜなら、ご亭主が独立心と自由の有難味を覚えてしまったら、それにブレーキを掛ける良案が見当たらないからである。
読者の中で、自分は最良の亭主で良妻には全く面倒を掛けていないと思う人が居たら、何もしない方が良い、なぜなら、賢い良妻は、既にご亭主の知らないところで、自由と独立を謳歌しているに違いないからである。(今更、どうしようもないのである)
良妻にかしづかれた“ぐ~たら”亭主だと思う人は、将来の自分の行く末にじっと思いをはせてみて欲しい。良妻の極楽の傘の中から飛び出して、しんどい自由と独立を求めて今更邁進するか、はたまた、現状維持で“ぐ~たら”を継続するかである。
「良妻にかしづかれた“ぐ~たら”亭主」や「最良の亭主で良妻には全く面倒を掛けていない人」以外の方は、現状維持で良い。
なぜなら、善政と言う厄介なものが、初めから存在していないからである。常に、お二人でもたれ合いながら協力して生きているからである。
(すなわち、これは自由と独立した生活なのである・・・良いかどうかとは、別の話だが・・・)