日本では、千年前の源氏物語はおろか、江戸期のものですら、簡単には読むことが出来ない。必然的に現代語訳のお世話になることが多いのである。
イタリアには、古文の現代語訳が無いと言うのである、正確に言うなれば、イタリアには古文が無いということのようである。
現代イタリアの標準語は、フィレンツェやシエナを中心とするトスカーナの言ってみれば方言が主体に出来ているそうなのである。
ところが、このトスカーナの方言たるや、ダンテやボッカッチョやロレンツォやマキャヴェリのおかげで、あの時代に既に完成してしまい、それが今日に引き継がれているに過ぎないというのである。
従って、七百年前に書かれたダンテの「神曲」の現代語訳は存在しない、或いは必要ないというのである。地獄編の冒頭の部分は、小学4年で暗記し、ロレンツォ・ディ・メディチの有名な「バッカスの歌」は小学5年生で暗記するという。
中世ヨーロッパの文化や文明の中心だったことから、外国からの異文化の影響を受けなくて済んだことが、中世の言語・文学をそのまま継承できたようにも思えるのである。
わが国においては、最初は漢字文化が到来し、加えて朝鮮の影響もあり、続いて、ヨーロッパの文化がその上に重なり、文字だけでも、漢字・カタカナ・ひらかな・果ては、英数字まで多種多様な国になってしまっている。
その上、外国にはあまり多くない擬態語・擬音語のような特殊な表現方法や、国民性に由来する繊細多様な表現が存在し、益々複雑化してしまったようである。
しかし、この種の繊細な表現を可能にした国民は大変幸せではないかと思う。
英語のことしか判らないので、これを例に引くしかないのだが、単刀直入・簡単明瞭なのは商売やビジネスには向くとしても、繊細な情緒を伝達するにはいささか不自由なのである。