12345・・・無限大  一粒の砂

「一粒の砂」の、たわごと。
無責任結構・ 中途半端・ちゃらんぽらん・ 出たとこ勝負、で参りましょう!

RAM増設

2008年07月15日 07時33分32秒 | Weblog

 先日息子が、自分のパソコンのRAMを256MBから1GB 増強して1.256MB にした。大変簡単でドライバー1本あれば良いと言う。結果はすばらしく、劇的に性能が向上したと言うのである。

 小生のパソコンはそれより少し新しいのだが、WORDとインターネットなど複数の作業を同時に行おうとすると、しばしば片方が動かなくなるという困った状態になっていた。

 Ctr+Alt+Delの三つのキーを同時に押さえると「タスクマネジャー」が表示される。これで見ると、使用しているメモリーが800MB を越える事もあり多々あり、この種の傷害が起きていると考えた。

小生のパソコンのRAMは256MBx3枚=768MB と少し大きいが、CPUの性能はセレロン1.5GHという息子の物より数段低いものである。

マニュアルを読むと、「同容量のRAMボードを2枚取り付けると、デュアルチャンネルのメモリアクセスに対応しており、より高速な動作が可能です」とあった。

最大増設可能容量は、1GBx2であるため、思い切って最大まで増設する事にした。 さて手順をご紹介する。

1GB RAMボード2枚購入;
この機種に適合するボードを選ぶ事ができないので、息子にマニュアルを渡し、電気店で選んでもらい購入するように依頼した。 これからが、本当の交換作業手順である。

1. パソコンの電源を切る
2. 電源コードやその他の全ての接続コードを外す
3. パソコンを裏返す

4. バッテリーアンロックのレバーをスライドさせ、バッテリーパックを取り外す
5. メモリースロットのカバーを小さいドライバーでねじを緩め外す
6. スロットに256MBのRAM2枚が付いていたので外す

7. 新しく購入した1GBのRAM2枚を取り付ける
8. 確実に取り付けられている事を目視で確認して、メモリースロットのカバーを取り付け、ドライバーでねじを締め固定
9. バッテリーパックを再び挿入

10. 全てのコードを接続

11. 電源を入れ、作動を確認する。

所要時間は、10分以内、これで完了、大変簡単だった。 小生の物は、2,256GBのRAMになった。その結果、性能はやはり劇的にと言えるほど向上した。しかし、大枚17800円x2=35600円の出費となった。

最近になって、パソコンは、5年が使用限界と言われていた事の意味が判ったような気がしてきた。

「壊れて使えないというよりも、性能的に使えなくなってしまうということであると」

今回の処置は、小生のパソコンの使用限界を数年伸ばすことには成りそうである。


品格

2008年07月14日 06時40分45秒 | Weblog

 なんと上品な方かと思える人に幾人かお会いした事はあるが、それは女性に限られていた。そして、その数もごく限られていた。

 この言葉が、最近特に喧しい。インターネットで出てきた2冊の本の記事を引用する。

 1.国家の品格 新潮新書  藤原正彦著。
日本は世界で唯一の「情緒と形の文明」であると規定し、論理よりも情緒、英語よりも国語、民主主義よりも武士道精神が肝要であると説く。

2.女性の品格 (PHP新書)  作者: 坂東眞理子  出版社/メーカー: PHP研究所 発売日: 2006/09/16

坂東さんの略歴。内閣広報室参事官、男女共同参画室長、埼玉県副知事当を経て、女性初の総領事(オーストラリア)、現在昭和女子大学学長とのこと。

第一章 マナーと品格
第二章 品格のある言葉と話し方
第三章 品格ある装い 
第四章 品格のある暮らし
第五章 品格ある人間関係第六章 品格のある行動
第七章 品格のある生き方

これを読んだ人のコメント:
新書といっても難解な部分はなく読みやすいので、あっという間に読み終わりました。自分ができていなかったり、いいなと思ったもの。

・姿勢を正しく保つ・・・猫背になりがちなので
・花の名前を知っている・・・花や色、暦など日本の言葉は美しいものがたくさんあるからもっと知っておきたいです
・古典を読む趣味を持つ・・・毎年課題にしているけれどなかなかはかどらず
・無料のものをもらわない・・・ティッシュはついもらってしまう(笑)
・独りのときを美しく過ごす・・・これけっこう大事かも
・頼まれたことは気持ちよくするか、丁寧に断る・・・なかなか難しいです

内容は言われてみるとなるほどと思うものの、そんなに目新しいものはなかったかな。でも、分かっていてもなかなかできないということなんでしょうね。

「強く優しく美しく、そして賢く」 等身大の自信を持った品格ある女性に少しでも近づきたいなと思いました。

若い頃、なんと品のあるすばらしい方かと尊敬した大先輩がおられた、しかし、その実態が家庭崩壊である事を知って大いに失望したものだった。裏と表で全く別人だったのであった。

どうもそれ以来、小生の品を見る目は、常に猜疑心に溢れている。

追記:
小生の場合には、寅さん流(本音的)品格の方が、気楽に付き合えるのであるが・・・。


善政

2008年07月13日 06時08分51秒 | Weblog

マキャッヴェリは、かくの如く言うのである。
「民衆というものは善政に浴しているかぎり、とくに自由なぞを望みもしなければ求めもしないものである」

 良妻にかしづかれた“ぐ~たら”亭主は、自分で考える必要は無いし、自分で何かを決めるために考え悩む必要も無い。

ただ単に、良妻の言うがまま、するがままに従えば、生命と安全は保障され、自分で思い煩い悩むことは全く無いのである。四六時中、緊張したり決定のための努力をする必要が一切無い極楽での暮らしをしているのである。

自由には責任が伴い、独立には決定と実行を要するなど、決して自由と独立は謳歌してだけいればよいというものではない、「自分で生きねばならぬ」と言う面倒な事とは無縁ではいられなくなるのである。

読者の中で、自分が良妻だと思っている人は、ご亭主に今より多くの負担を掛けて、自由と独立の有難味を教える必要があるが、無理にとは言わない、なぜなら、ご亭主が独立心と自由の有難味を覚えてしまったら、それにブレーキを掛ける良案が見当たらないからである。

読者の中で、自分は最良の亭主で良妻には全く面倒を掛けていないと思う人が居たら、何もしない方が良い、なぜなら、賢い良妻は、既にご亭主の知らないところで、自由と独立を謳歌しているに違いないからである。(今更、どうしようもないのである)

良妻にかしづかれた“ぐ~たら”亭主だと思う人は、将来の自分の行く末にじっと思いをはせてみて欲しい。良妻の極楽の傘の中から飛び出して、しんどい自由と独立を求めて今更邁進するか、はたまた、現状維持で“ぐ~たら”を継続するかである。

「良妻にかしづかれた“ぐ~たら”亭主」や「最良の亭主で良妻には全く面倒を掛けていない人」以外の方は、現状維持で良い。

なぜなら、善政と言う厄介なものが、初めから存在していないからである。常に、お二人でもたれ合いながら協力して生きているからである。

(すなわち、これは自由と独立した生活なのである・・・良いかどうかとは、別の話だが・・・)


阿波踊り

2008年07月12日 06時20分12秒 | Weblog

夏は盆踊りのシーズンである。各地で盛大な踊りが開催されることであろう。

      

47年前の大学2年生から阿波踊りに参加し、以降在学中は毎夏参加した。昼頃から酒を飲み始め、町に繰り出し深夜まで踊り続けた。楽しい踊りであったが4日間通して踊るとなるといかに若くても相当疲労した記憶がある。

     

我々の踊り連は、機械工学科1年生から4年生までの総勢約200名から有志が参加するので結構大所帯だったと記憶している。今から思うと飲み食いや参加の費用はどうしたのだろうか、万年金欠だったがどうにかしたのであったろう、お金に困った記憶がない。

 その当時は春の終わり頃から、お囃子の練習の鐘や三味線に笛の音が聞こえ始め、6月頃ともなると町の辻つじで老若男女が町内単位の練習している風景が見られた。

   

三つ子の魂百までもの例えの方が正しいのであろうが、徳島県人には阿波踊りのDNAが組み込まれているかのごとく、総じて見事な踊りを踊る事ができる。

他県出身者は、見事と言えるほど無様な踊りだった。ベテランの徳島県出身者から見るとさぞかし無様なことだったろうと恥ずかしく思い返している。

    

丁度10年前に撮影したビデオがあったので再編集してみた。一向に古さを感じさせないのには、今更ながら驚いている。久しぶりに見に行きたいものである。

どうしても好きな事なので短くカットすることができなかった。
10分の長編である、ご辛抱頂きたい。

<!-- 阿波踊り -->


ある生き方

2008年07月11日 05時45分42秒 | Weblog

 小生は幾つかの趣味教室に生徒として出入りしているのだが、ある時から先生にも目を向けて見るようになった。

 十数名から数十名までと、講座の人気により生徒数は大きく異なっている。また、多くの先生は複数の教室を開催されている。

お若い時からの趣味が嵩じて、ついに先生になられた方ばかりである。ご本人の意図は先生になる為でなく、「好き」が嵩じた結果成り行きで先生になられた方ばかりである。

小生が指折り数えて見ると、先生方の謝礼収入はそれなりのもので、殆どの先生が、年金生活者である関係もあり、ご自身の生活の質の向上のために、その収入を引き当てなさっているようである。

また際立っているのが、先生方自身の人脈の広がりが大きいことである、はつらつと楽しげに人と交わっておれる生活というものも良いものである。

我々の年代では、とても先生を目指すことは不可能だが、若い時から一芸に秀でる事ができる人は、こんな生き方もあるようである。

本文は、お若い方のご参考になればと思い書いてみた。
唯一の問題点といえば、休みをとることが時間的に難しくなることであろう。


歴史と後世の評価

2008年07月09日 06時07分49秒 | Weblog

「歴史が裁く」とか「後世の審判を待つ」と言い、過去の人を評価する。 歴史上の偉人の後世の評価は歴史書などである程度判るのであるが、存命中の頃の評価については、それを知るための資料は余りにも少ないようである。

太閤さんの存命中と後世の評価の差異がいかようであるのか知りたいのであるが、あまり容易ではないのである。

 第一の理由は、後世の評価が、何を基準にするのかで随分その評価は変わるのである。肝心の基準があれこれ結構沢山あるのでは、決定的な評価をすること自体かなり難しい場合が多いような気がする。

例えて言えば、民主主義や資本主義が未来永劫絶対正しいと言えないのと同じ事である。

 第二の理由は、存命中の時代の評価となると、それらが後世に遺されているものは、殆どが、権力者に対する「おべんちゃら」で溢れており、真実の姿ででは到底ありえないような気がするのである。

歴史や後世が裁いたり審判したりする事においては、その評価はどうにでも出来ることのような気もして、粉飾の多き評価は無意味な事だとも思えるのである。

そんな訳で、超現実主義者のマキャッヴェッリのように、今現在の評価こそ一番優先すべき事と言うのが、正しいのかもしれない。

一介の小市民である小生などにとっては尚更で、後世に他人から評価されることなどはないであろうし、よしんばいかような評価をされようが知った事ではないのである。

何かを遺すというような、そんなものはむしろ一切ない方が、あの世から未来のこの世を振り返るなどと言う煩わしい事から開放され清々するように思っている。

このブログなどと言うものは、せいぜい長くて数十年の保存しかされないのであろうから、言いぱなしで、どーと言うこともなさそうである。


事故証明

2008年07月07日 06時06分06秒 | Weblog

「お守り」の役目を期待して、いつも旅行保険に加入しているが、今回ばかりはお守りにはならず、本当の保険として本来のお世話になってしまった。

カメラに夢中で20cmほどの段差を踏み外しただけであるが、年のせいなのだろう、経験した事のない激痛が走った。それでも翌日はローマから帰国なので、痛みをこらえながら関空に着いてズボンを巻くって見ると、見事に左の膝が腫れあがり歩行も困難なくらいになっていた。

それでも、大した事はないと我慢したのだが、3週間が経過しても一向に回復する兆しが無く、しぶしぶ受診したら、半月板がグチャグチャと医師に言われ手術した。ここまでは、以前本文にも書いた通りである。

これからが本論である。通常保険金を受け取るためには、いかなる手続き・書類が必要かなどあまり聞きもしないで加入しているのである。

大事になった場合には、それなりに周りが気を配り必要な書類なども落ち無く入手できるのだろうが、小生のような、当初保険のお世話になるなど思いもかけないようなケースの場合は、厄介な事が生じる場合もある。

当初事故による傷害という認識は全く無く単なる軽い捻挫くらいに思い、事故証明書の事など考えつきもしなかった。 帰国後手術などが必要といわれてから、子供達が騒ぎ出し、電話で旅行会社(保険の代理店でもあった)に相談した。

直ぐに添乗員さんが記入した「事故証明書」なるものが郵送されると共に、保険会社にも連絡を取ってくれ書類一式が送られてきた。

あいにくとオプショナルツアーで、添乗員さんは他のグループをアテンドし、小生のグループは現地ガイドのみとなり、添乗員さんは現場確認をできる状態には無かった。

また、小生もみっともなさが先に立ち、帰国・解散まで一切誰にも報告して居なかったため、事故証明を書くにも添乗員さんは苦労された事と思っている。

海外旅行では、体調不良や怪我など、その大小を問わずこまめに添乗員さんに報告しておくと、万一の時何かと便利であろうと言うのが、小生の反省点であった。

追記:
帰りの機内で、簡単なメモでも書き添乗員さんに渡しておくと、添乗員さんも事務処理が楽であろうと思う。

なんといってもも安全衛生に注意することが第一であるが・・・。


今年の睡蓮

2008年07月06日 08時14分38秒 | Weblog

今年初めて深山公園に睡蓮を見に行った。  
最初に美しい緑をどうぞ

1. 睡蓮の池に通じる公園の入り口である。
  足慣らしも兼ねて、道のなだらかな
  テニスコート側の入り口を利用した。
  (こちらは駐車場が少ないのでご注意ください)

2. 緩やかな上り下りのある山道を500mほど進む。
  途中、この町特有の岩がごろごろする山が見える。

3. また、池の上の橋や、
   その先に瀬戸内海があり小豆島方向が望める。

4. 小屋のある池のほとり。

5. 睡蓮が見えるが、例年ほどの数でないような気がする。

 この公園には、この池以外に幾つかの池がある、
今年も何回か出かける事になりそうである。

池を見るという機会は以外に少ないものである、
たまには睡蓮を楽しむために出かけるのも良いのではないだろうか、
魚や亀や虫達にも会えるのである。


現代語訳

2008年07月05日 06時44分07秒 | Weblog

 日本では、千年前の源氏物語はおろか、江戸期のものですら、簡単には読むことが出来ない。必然的に現代語訳のお世話になることが多いのである。

 イタリアには、古文の現代語訳が無いと言うのである、正確に言うなれば、イタリアには古文が無いということのようである。

 現代イタリアの標準語は、フィレンツェやシエナを中心とするトスカーナの言ってみれば方言が主体に出来ているそうなのである。

ところが、このトスカーナの方言たるや、ダンテやボッカッチョやロレンツォやマキャヴェリのおかげで、あの時代に既に完成してしまい、それが今日に引き継がれているに過ぎないというのである。

従って、七百年前に書かれたダンテの「神曲」の現代語訳は存在しない、或いは必要ないというのである。地獄編の冒頭の部分は、小学4年で暗記し、ロレンツォ・ディ・メディチの有名な「バッカスの歌」は小学5年生で暗記するという。

中世ヨーロッパの文化や文明の中心だったことから、外国からの異文化の影響を受けなくて済んだことが、中世の言語・文学をそのまま継承できたようにも思えるのである。

わが国においては、最初は漢字文化が到来し、加えて朝鮮の影響もあり、続いて、ヨーロッパの文化がその上に重なり、文字だけでも、漢字・カタカナ・ひらかな・果ては、英数字まで多種多様な国になってしまっている。

その上、外国にはあまり多くない擬態語・擬音語のような特殊な表現方法や、国民性に由来する繊細多様な表現が存在し、益々複雑化してしまったようである。

しかし、この種の繊細な表現を可能にした国民は大変幸せではないかと思う。

英語のことしか判らないので、これを例に引くしかないのだが、単刀直入・簡単明瞭なのは商売やビジネスには向くとしても、繊細な情緒を伝達するにはいささか不自由なのである。


夕顔と六条御息所

2008年07月04日 05時19分21秒 | Weblog

 昨年の10月から今年の2月にかけて、言い換えれば昨年度の後半は殆ど「夕顔の巻」が講義の中心だった。残念な事に、昨年の10月は休んだので「夕顔」の第一回目を聞き漏らしている。

 寂聴さんが、源氏物語の解説を優雅な人形と共に行っている番組が、NHK総合TV朝10時5分からある。(本日が最終日だと思うのだが)

「夕顔の巻」の解説では、主人公「夕顔」と対比される「六条御息所(ろくじょうみやすんどころ」の二人の美女が登場する。

 六条御息所は、先の東宮の正妻であったが東宮に死に別れて未亡人となった24歳(源氏より7歳年上)である。その地位・財産・美貌・教養全てにおいて最高、完全無欠な誇り高き女性であった。

しかし、プライドが高すぎて、源氏の心を慰めると言うより、源氏にとっては気や心が休まるというタイプの女性では決してなかった。
(紫式部が、「六条御息所」と名付けたのは、何たる皮肉だろうか、彼女の芸の細かさに驚いたのは、小生だけだろうか?)

夕顔は、その地位・財産・美貌・教養などとても六条御息所に較べようもないが、自己主張をしない、男のいいなり望むままに身も心も添わせていくという稀有な女性であった。(かわいいい女とでも言うのであろう)

これには源氏も心を奪われ、夜も日も明けぬほど通いつめるようになった。

 寂聴さんによると、源氏物語の男性読者が選ぶ理想の女性とは夕顔なのだそうである。

千年前の女流大作家である紫式部の描いた男性から見た理想の女性像も「夕顔」であったではないのだろうか。

理想とは殆ど在り得ないから理想になるのであって、過去も現在も等しく、男性は女性には手を焼いていた(尻に敷かれていた)のであろうと容易に想像できるのである。

誰に気兼ねするでもなく、勝手気ままに生きていける小生こそ最も幸せな男と言えるような気がしているのである。

夕顔に嫉妬した六条御息所は、生霊となって夕顔をとり殺すのである。(六条御息所は後々も生霊・怨霊となって、源氏の他の女を苦しめるのであるが・・・。)

怨念・生霊・怨霊などと言う言葉は、美人専用のように思えてならないのである、これこそ美人の怖さなのであろう。


迷惑メール対策

2008年07月02日 06時39分24秒 | Weblog

 友人A:メールは日に千通弱という、Hメールも多数あるが、こまめに削除するのみという。(彼は、コンピュータの専門家でもある)

友人B:メールは日に数十通、こちらもこまめに削除。

友人C:こちらも沢山のメールが来るようで、以前はフイルター設定をして対処していたが、フイルター対象アドレスが、千件近くになっても改善せず、業を煮やして、ついに光通信にフイルター込みで契約を更新した。(その後の状況は不明)

小生、日に数十通程度それほど多くは無いが、Hメールに業を煮やして、1年くらい前からフイルターを設定している。

いったい幾つのフイルター対象アドレスがあるのか数えるのも面倒なのであるが、やはり千件にはなっていると思う。

 効果としては、毎日数件の新規Hメールがあり、日に数件ずつ新しくフィルター対象アドレスを設定する操作をすれば良くなってきた。

しかし、敵もさるもの、最近では、MICROSOFTやJALやyahooなど大変知名度の高い名を騙るものまで現れ始めた、便利になったらなったで困った「やから」の出てくることである。

この知恵比べはエンドレスのようである、騙されないようにしなくては。


台所感覚

2008年07月01日 05時07分54秒 | Weblog

「再び男たちへ」塩野七生著より頂いたお題である。 台所感覚と国家感覚と国際感覚の三大感覚の内、全てを台所感覚で判断するのが民衆であると論じていた。

五百年前のマキャッヴェリ語録を、「民衆」とあるところを(台所感覚)と読み替えていたものを引用する。

 「・・・大局的な事柄の判断を民衆(台所感覚)に求める場合、総論を展開するのではなく、・・・こうやればトクで、こうやればソンになる・・・と説明・説得することである。

 ・ ・・いかに有益な政策でも、表面上はソンになりそうだったり、または外見がぱっとしなかったりすると民衆(台所感覚)の賛同を得るのは至難のわざとなる。」

マキャッヴェリの達観を民衆・平民・凡人の小生に分かり易く翻訳してくれたのが、塩野氏のエッセイである。

小生の毎日の生活を振り替えって見ると、まさにその通りである。目覚めてから、洗面・朝食・・・・一日の全行動が「損得勘定」基づいているのである。

最も分かり易い損得勘定とは、数字で判断出来る金銭上の事である。

難しいのは、数字で表せない損得勘定なのである、これには公式もなければ基準も定かでない場合が多い。一生かかってても判らないような気がする。

その「損得勘定」を当座の事とせず、
3ヶ月先、3年先、30年先(こんな長いのは小生の場合には必要ないが)の「損得勘定」に思いをはせて判断できる台所感覚が持てたら、

一段と賢人に近づけるように思うのだが、凡人には至難の業である。

相も変わらず、スーパーマーケットで安物探しの毎日を過ごすことになりそうである。凡人・平民・民衆ならこれもしようがないのではなかろうか。