ルクノス ~ともし火~

日本聖公会 北関東教区 宇都宮聖ヨハネ教会のブログです。

顕現後第2主日

2015年01月18日 | ショートメッセージ
<ヨハネによる福音書1:43-51>

ナタナエルは実際にイエスに会うまで、
ガリラヤから救い主が現れ出ることなど信じられませんでした。
しかし、ナタナエルはイエスに会った時、
自分がイエスを知っている以上に
イエスに知られているている者であることを知り、
イエスを救い主として受け容れるのです。
わたしたちも自分で神を選んだのではなく、
神の大きな御手の中に生かされている者であり、
その自覚がわたしたちを信仰から信仰へと導くのです。

司祭 ヨハネ小野寺達
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顕現後第1主日(主イエス洗礼の日)

2015年01月11日 | ショートメッセージ
<マルコによる福音書1:7-11>

イエスは洗礼者ヨハネから
「罪の湯寿司を得させる悔い改めの洗礼」を受けました。
罪の無いイエスがその洗礼を受けたのは、
イエスが罪人の側にまわり罪人を贖うためでした。
十字架の上で障害を閉じるイエスの公生涯の始まりが
その洗礼だったのです。
やがて教会は罪の赦しに止まらず、
人を神の子とするための洗礼を
「父と子と聖霊の名によって」授けるようになるのです。
イエスが人となって罪人と同じように生きてくださった恵みを感謝し、
イエス・キリストの体である教会に結び合される者でありたいと思います。

司祭 ヨハネ小野寺達
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クリスマス聖餐式

2014年12月21日 | ショートメッセージ
<ヨハネによる福音書1:1-12>
神の子の降誕は真っ先に羊飼いに届けられました。
その頃、町々は住民登録のためにごった返していました。
皇帝は人々を徴税と徴兵の対象として登録させますが、
神は見捨てられた最も小さい者を自らが探し当てて
「良きおとずれ」を伝えています。
神は財力や兵力に役立つ人を求めているのではなく、
人としての貴さを奪われ失った人が再び生きることができるように
み子をこの世に遣わしてくださったのです。
御降誕を感謝。

司祭 ヨハネ小野寺達
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降臨節第3主日

2014年12月14日 | ショートメッセージ
<ヨハネによる福音書 1:6-8,19-28>

洗礼者ヨハネは救い主イエスを指し示す働きに徹して生きた人で、
そのことを今日の聖書日課福音書では
「彼は光ではなく、光について証しするために来た」と記しています。
私たちも、光ではなく光について証しするために生きています。
私たちは、太陽のような光源ではなく月のように太陽の光を受け
その光を反射してその光を証しするのです。
主イエスの恵みを全身に受けてその恵みを証しできますように。

司祭 ヨハネ小野寺達
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降臨節第2主日

2014年12月07日 | ショートメッセージ
<マルコによる福音書1:1-8>

洗礼者ヨハネは旧約時代最後の人
また救い主イエスの先駆けと位置付けられます。
そのヨハネが宣べ伝えたのは
「罪の赦しを得させるため」の「悔い改めの洗礼」でした。
救われるため(言葉を替えれば大切な自分としての一生を全うするため)の準備として、
悔い改めて自分を超えた大きな存在によって罪が赦されることが必要なのでしょう。
ヨハネの声をしっかり受け止め、救い主を迎える備えをいたしましょう。

司祭 ヨハネ小野寺達
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降臨節第1主日

2014年11月30日 | ショートメッセージ
<マルコによる福音書13:33-37>

主の来臨を待ち望む期節になりました。
「主を待つ」とは、降誕日の備えをすると共に、
2000年前のイエス誕生を思い、
キリスト来臨の備えをすることです。
それはこの時期に限って行うことではありませんが、
この期節に限って行うことではありませんが、
この期節にその思いを強く持つことによって
私たちの信仰全体を豊かにし緊張感を高めることにつながります。
良い降臨節を過ごせますように。

司祭 ヨハネ小野寺達
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聖霊降臨後第22主日

2014年11月09日 | ショートメッセージ
<マタイによる福音書25:1-13>

主イエスが復活して天に昇った後、
主イエスが最終的にこの世を治めるために再臨するという思想が拡がりました。
その時が直ぐにも来ると考えて日常生活を放棄する者がいる一方で
その時が来ないままに信仰の緊張感を無くす者もありました。
主イエスの来臨は単なる天変地異の出来事ではなく、
わたしたちがいつも主がそこに臨んでおられることを信じて
その主に応えて生きることを意味する思想です。
日々のあらゆる場に救い主が共にいてくださることを信じて、
その導きのうちに生きていくことができますように。

司祭 ヨハネ小野寺達
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聖霊降臨後第21主日

2014年11月02日 | ショートメッセージ
<マタイによる福音書23:1-12>

イエスは、律法を論評しながらも他人の痛みを担わない
ファリサイ派のようであってはならないと教えられました。
人間にはどうしても自意識が働き他者の前で虚栄を張ってしまいます。
主イエスの生き方に照らしてみると、
罪とは「他者と共に生きることを放棄して自己保身を謀る」ことなのです。
イエスは自己愛に寄ってではなく隣人を愛することが
自分をも救う道であることを教えています。

司祭 ヨハネ小野寺達
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聖霊降臨後第20主日

2014年10月26日 | ショートメッセージ
<マタイによる福音書22:34-46>

神と人を愛することは分けられない一つのことです。
このことをイエスは十字架によって示してくださいましたが、
それと同時に十字架は神が私たちを愛していてくださることを
神の子が具体的に示す出来事でもあったのです。
イエスは、ファリサイ派が形式化したユダヤ教の中で保身する姿を厳しく批判し、
神の愛に基づいて神と人を愛するように訴えたのでした。
それは私たちへの時代を超えたメッセージでもあるのです。

司祭 ヨハネ小野寺達
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聖霊降臨後第19主日

2014年10月19日 | ショートメッセージ
<マタイによる福音書22:15-22>

イエスの言葉尻を捉えて罠にかけようとする者
(普段は対立するファリサイ派とヘロデ派)が、
皇帝に税を納めることへの可否についてイエスに尋ねました。
どう答えても批判するためです。
イエスは「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に」と答えました。
これは単に頓智が有るか無いかのことではなく、
その背景にイエスが「それではあなたはどう答えるのか」と
問いかけていることを忘れてはならないのです。
私たちは洗礼の折に額に十字の徴を刻まれていることを覚え、
神に帰せられる者であることに誇りと喜びを持てますように。

司祭 ヨハネ小野寺達
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