ルクノス ~ともし火~

日本聖公会 北関東教区 宇都宮聖ヨハネ教会のブログです。

日光・宇都宮合同礼拝

2006年07月31日 | 日光真光教会
日光真光教会の創立記念日でもある《主イエス変容の日》に先駆け、
ゼルバベル 広田勝一主教を向かえ、宇都宮聖ヨハネ教会と日光真光教会、
そして、下館聖公教会の合同礼拝が行われました。

その中で、3名の兄弟姉妹の洗礼・堅信式の御恵みに与りました。

広田主教は、
「私たちに注がれ続けてこられる神様の働きに心を留め、
主が共におられる喜びにいつも満たされているように願っている。
そして、イエス様を人々に伝える人として歩むことが、
私たちひとりひとりに課せられている勤めである。」
と、語られました。

聖霊降臨後 第7主日

2006年07月28日 | ショートメッセージ
(マルコによる福音書 6:30-44)
私たちは日々の生活の中で、ともすると、現実のことに追われ、休みなく働き、
何が本当に大切かが分からなくなっていないでしょうか。
何のために今の活動、仕事をしているのかすら分からなくなってしまい
「誰も自分の立場をわかってくれない。誰にもこの苦しさは分からない。」と、
追い詰められ、疲れ、人から愛されることを求めているとはいえないでしょうか。
そういう人たち、とりわけ世話をする立場にある親に、教育者に、指導者に、
そして、教会の羊飼いに、修道者に対してイエス様はおっしゃいます。
「私は分かっている。だから、あなたは人里離れたところへ行って、
しばらく休むがよい」。

イエス様は、迷っている私たちを飼い主のいない羊という譬えであらわし、
それをご自身こととして苦しみ、憐れんでこのように言われるのです。

現実の社会では、休む時間すらも奪われてしまいます。
そして、祈りの時はもっとも最初に削られていく時間かもしれません。
そして、祈ることも、神の言葉をじっくり考える
といいうことも出来なくされていきます。

しかし、それでは、魂の抜け殻のような体を抱えて、
ただ惰性で生きているようなものになってしまいます。
 イエス様は、このような有様を見て、怒り、悲しみ、そして深く憐れまれ、
私たちに「人里離れたところへ行って、しばらく休むがよい」と、言われるのです。
私たちにとっての「最初の休息」のとき。
それは、イエス様と時を過ごす時です。
忙しければ忙しいほど、イエス様と時を過ごすことが必要です。
きっと、その時こそ、イエス様は教え、心の平安を取り戻させてこれるはずです。
そのような時間を全く生み出す余裕がないのであれば、
時間の使い方、今の生き方に何か問題があるのかもしれません。
どうか、忙しい日々の中でも、「祈ること」を忘れずに
神様の下での「休息の時」を持つことを忘れずにいてください。

執事 マタイ金山昭夫 《2006.7.23 週報より》

聖霊降臨後 第6主日

2006年07月18日 | ショートメッセージ
今日の福音書(マルコによる福音書6:7-13)において、
弟子たちは「杖一本のほか兄も持たず、
パンも、袋も、また帯の中に金も持たず、ただ履物は履くように、
そして『下着は二枚着てはならない』と命じ(8-9)」られて派遣されました。

たしかに、旅行者をもてなすことが信仰的にも美徳とされた
ユダヤ社会を背景として語られている言葉であるとしても、
これでは杖と履物以外には旅行者として必要なものさえも
携行できないことになり、とても極端な命令です。

ここで言う、杖と履物という旅行束は、
彼らが自由に旅行できる「市民」であること
(つまり「奴隷」ではないこと)を示してはいますが、
実際は逗留(とうりゅう)する地域の人々の施しに依存して
生きることをもあらわしています。

今日、イエス様の弟子たちへの派遣命令は、
先週の聖書箇所の「預言者は故郷で敬われず」という言葉をふまえて考えると、
まるで弟子たちに「敬われない預言者」となるように言っているように聞こえてきます。
すなわち、イエスは弟子たちを「敬われない」者として、
宣教することを求められました。

ただ、神様から与えられた賜物を「神から与えられたもの」として
人々に届けることが「預言者」の使命であるとすれば、
それを届けるのは、この世的には誰よりも無価値であることが要求されたのでしょう。
「こんなに偉い人が言っているのだから」
「これだけの能力を持った人が言っているのだから」というようにして
福音が宣教されることを、イエス様は拒絶し禁止しておられるのです。

弟子たちが、そこに留まることを要求されつつ、
飽くまでも「旅人」のままにされるのも、
神様から与えられた賜物が彼らの「この世」的ステイタスとして
定着することを避けるためだったのではないでしょうか。

もしかしたら、彼ら同様私たちも行く先々で常に「敬われない預言者」
となることを求められているのかもしれません。

栃木伝道区合同礼拝

2006年07月12日 | その他
小山祈りの家にて、栃木伝道区合同礼拝がありました。

午前中は、聖堂はじめ施設内の清掃や庭の草取りの奉仕活動にあたりました。



祈りの家には、たくさんの自然があります。
庭には、たくさんの花や実が生っています。

   

午後からは、礼拝です。
お説教は、立教学園聖パウロ礼拝堂チャプレン 長谷川清純司祭です。

司祭は、私たちが神様を信じ、お任せすることによって、
私たちに実を結ばせてくださる。
小さな働きだけど、神様の役に立っているという想いで奉仕することが大切。
と、話されました。

聖霊降臨後 第4主日

2006年07月06日 | ショートメッセージ
人間は、大きな苦しみや危険や悲嘆に襲われる中で、
どのように感じ、またそれに対して振舞うのでしょうか。

ある人たちは、そのような危機的な状況に直面した場合、
「神などもう信じない、神などいるはずがない」と、神様を否定し、
排除してしまうかもしれません。
しかし、別の人たちは、そうした危機の中でこそ、
神様に対する信頼と希望を失うことなく、
いっそう真剣に神様に向かって祈るということができるのではないでしょうか。
その人々にこそ自分自身が無力感の中で、
神様をも無力なものとしてしまう「誘惑」から逃れられたのです。

すなわち、私たち人間にとっては、危機的な状況が、
神否定をもたらす「危機」ともなり得るということなのでしょう。

本日の福音書(マルコによる福音書5:22-24、35b-43)において、
会堂長であったヤイロの場合は、
後者の道を進んで行ったといえるのではないでしょうか。

執事 マタイ金山昭夫 《2006.7.2 週報より》