<マルコによる福音書7:1-8、14-15、21-23>
今日の福音書の中で「汚れた手」と表現されているのは、
衛生面のことではなく宗教的儀式面のことで、
今の日本の儀式的習慣でいえば、
葬儀に参列した後に浄めの塩を用いる「お清め」に似たことです。
ファリサイ派の人々は、
イエスの弟子たち浄めの儀式をしないで食事をしていることを批判しました。
これに対してイエスは、人を汚すのはむしろ
そのように人を批判するファリサイ派の心に発する言葉なのだと言います。
他人を汚し損なうのは、人の心の内から発する言葉や行いなのです。
わたしたちも神の愛に裏打ちされた「塩で味付けられた優しい言葉」を用いて、
その交わりを浄め祝されたものに対していきたいと思います。
司祭 ヨハネ小野寺達
→説教はこちら
今日の福音書の中で「汚れた手」と表現されているのは、
衛生面のことではなく宗教的儀式面のことで、
今の日本の儀式的習慣でいえば、
葬儀に参列した後に浄めの塩を用いる「お清め」に似たことです。
ファリサイ派の人々は、
イエスの弟子たち浄めの儀式をしないで食事をしていることを批判しました。
これに対してイエスは、人を汚すのはむしろ
そのように人を批判するファリサイ派の心に発する言葉なのだと言います。
他人を汚し損なうのは、人の心の内から発する言葉や行いなのです。
わたしたちも神の愛に裏打ちされた「塩で味付けられた優しい言葉」を用いて、
その交わりを浄め祝されたものに対していきたいと思います。
司祭 ヨハネ小野寺達
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