ルクノス ~ともし火~

日本聖公会 北関東教区 宇都宮聖ヨハネ教会のブログです。

復活節第5主日

2020年05月09日 | 宇都宮聖ヨハネ教会
復活節第5主日(ヨハネによる福音書14章1節~14節)

「心を騒がせるな。神を信じなさい。そしてわたしをも信じなさい」
(ヨハネによる福音書14章1節)

これは、ヨハネ福音書の中で、復活された主が、
再び昇天される際に、弟子たちに向けて語られた言葉です。
そういったことから、告別説教と言われる事もあり、
葬送式等でもよく読まれる聖書箇所です。

イエス様はこの前の部分では
「私の行く所に、あなたは今付いて来ることはできないが、後で付いて来ることになる。」(13:36)と
言われて不安になった弟子たちはとても不安になったのではないでしょうか。

今、この世界は新型コロナウイルスによって、
世界中が不安に包まれている現代にも響いてくる言葉ではないでしょうか。

ドイツの神学者で牧師でもあった
ラインホルト・ニーバーという方の有名な祈りにこうあります。


「神よ、変えることのできないものを受け入れる平静さを、
変えるべきものを変える勇気を、そしてこの両者を見分ける知恵をお与えください。」
 

ここでいう「平静さ」(serenity)とは、
晴朗、うららかな、のどかな、という言葉ですが、
今の私達が最も求めているものではないでしょうか。
また、ニーバーが神さまに、切なる願いとして祈った
「平静さ」、「勇気」そして「知恵」が、私達にとっては、
きっと今の時代を生きる道標になると思います。


そして、この章の後半部分で、弟子たち、そして私達に向けて、主はこう言われます。

「わたしは道であり、真理であり、命である。
わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない」

私達はこの主の御言葉を頼りに、日々、信仰を持って、主に従いましょう。
そして、永遠の命に導かれると信じて、いまのこの試練の時を過ごしてゆきましょう。

司祭 マタイ金山昭夫


復活節第4主日

2020年05月02日 | 宇都宮聖ヨハネ教会
復活節第4主日(ヨハネによる福音書10章1~10節)

本日の福音書はイエスさまが私たちの良き羊飼いであることを伝えています。
羊飼いというとアルプスの少女ハイジに出てくるペーターのように、
牧歌的なイメージを持つかもしれませんが、実はとても過酷な職業です。
羊はとても弱く臆病な動物で、そのうえ方向音痴で、
群からはぐれるとパニックを起こし走り出してしまいます。

一方、羊飼いは、そんな羊たちの特性をよく知り、
羊一匹一匹に名を付けて愛情を注ぎ、弱い羊が群れから離れないよう気を配り、
餌となる青草の茂る場へと導いていきます。
そして羊を襲う動物があれば、命をがけで羊を守ります。
夜になると羊は囲い門を通り、囲いの中に入れられます。
この囲いは一人の羊飼いのものではなく、
いろいろな羊飼いの羊が一緒に入れられており、
朝になると羊飼いは自分の羊の名を呼んで囲いの門から外へ連れ出しました。
この時、羊たちは自分の羊飼いの声を聞き分けてついていくのだそうです。

本日の福音書にも「羊はその声を知っているのでついていく。」と書いてありますが、
羊がその声を知っているのは、まず羊を呼ぶのもの声があるからです。
本日の福音書に続く部分でイエスさまは「わたしは良い羊飼いである。
わたしは自分の羊を知っており、羊も私を知っている。
それは父がわたしを知っておられ、私が父を知っているのと同じである。」とも言われています。

この「知る」という言語のギリシャ語は単に「認識する」ということにとどまらず
「聞き知る・分かる・気づく・感じる・認める・理解する」という意味も持っています。
つまり、良き羊飼いであるイエスさまは、
私たち一人一人の良いところも、悪いところも、弱いところも全てをわかってくださり、
わたしの苦しみや痛みをも、自分の身を切るように感じてくださいながら、
私たち一人一人の名を呼んでくださっているということです。

そしてまた、イエスさまと一つであられる父なる神様も私たちの名を呼ばれています。
イザヤ書43章には、「恐れるな。わたしはあなたを贖う。あなたはわたしのもの。
わたしはあなたの名を呼ぶ。水の中を通るときも、
わたしはあなたと共にいる。大河の中を通っても、あなたは押し流されない。
火の中を歩いても、焼かれず炎はあなたに燃えつかない。」という主なる神の言葉が記されています。 
主が、私たちのすべてを知ってくださり、私たちの名を呼び、
私たちを守り、導いてくださっているのです。

今、コロナウイルス感染症によって、私たち人類は大きな試練の中にいます。
この感染症の恐ろしさは、病気そのものの恐ろしさだけでなく、
人と人との関係性を遮断していくところにもあるように思います。
しかしそのような闇の中で、私たちが今まで、
便利さや豊かさを追い求める中で見失っていたもの、
捨ててしまったものに気づき、取り戻している時間でもあるように思います。

感染の終息のために、教会に集って祈ることはできないけれど、
こうして離れていても、祈りでつながれていることを再確認できます。
いままでは忙しくて別々に食事をしてた家族が
一緒に食卓を囲めるようになった、という話も聞こえてきます。
私たちが、忙しさの中で捨ててしまったもの、忘れてしまったもの、
その中に、本当は大切なことがいっぱいあったこと。
お金よりも、地位よりも、成績よりも、名誉よりも、本当に大切なものは何なのか、
私たちはこの危機の中で、あらためて気づかされているようにも思います。

恐ろしさに立ちすくみ、どうしていいかわからない、そんな時も多い日々ですが、
そんな弱い羊である私たちを、良き羊飼いであるイエスさま、
そして父なる神様は、私たちの名を呼び、私たちを導いてくださいます。
そのことを信じ、祈り、この試練の時を、
その先にある復活の光を見つめながら進んでいきましょう。

私は今、毎日、庭の畑を耕してレタスやトマトを栽培しています。
感染が終息し、再び皆さんと共に礼拝をおささげし、
愛餐会ができるようになったら、皆さんにサラダを食べていただきたいなと、
その日を楽しみに待ち望みながら。シャローム!
(執事 マリア 越智容子)

1:「はっきり言っておく。羊の囲いに入るのに、
門を通らないでほかの所を乗り越えて来る者は、盗人であり、強盗である。
2門から入る者が羊飼いである。
3:門番は羊飼いには門を開き、羊はその声を聞き分ける。
羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す。
4:自分の羊をすべて連れ出すと、先頭に立って行く。羊はその声を知っているので、ついて行く。
5:しかし、ほかの者には決してついて行かず、逃げ去る。ほかの者たちの声を知らないからである。」
6:イエスは、このたとえをファリサイ派の人々に話されたが、彼らはその話が何のことか分からなかった。
7:イエスはまた言われた。「はっきり言っておく。わたしは羊の門である。
8:わたしより前に来た者は皆、盗人であり、強盗である。しかし、羊は彼らの言うことを聞かなかった。
9:わたしは門である。わたしを通って入る者は救われる。その人は、門を出入りして牧草を見つける。
10:盗人が来るのは、盗んだり、屠ったり、滅ぼしたりするためにほかならない。
わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである。