ルクノス ~ともし火~

日本聖公会 北関東教区 宇都宮聖ヨハネ教会のブログです。

聖霊降臨後 第23主日

2007年11月26日 | ショートメッセージ
5:1イエスはこの群衆を見て、山に登られた。
腰を下ろされると、弟子たちが近くに寄って来た。
5:2 そこで、イエスは口を開き、教えられた。
5:3 「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。
5:4 悲しむ人々は、幸いである、その人たちは慰められる。
5:5 柔和な人々は、幸いである、その人たちは地を受け継ぐ。
5:6 義に飢え渇く人々は、幸いである、その人たちは満たされる。
5:7 憐れみ深い人々は、幸いである、その人たちは憐れみを受ける。
5:8 心の清い人々は、幸いである、その人たちは神を見る。
5:9 平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる。
5:10 義のために迫害される人々は、幸いである、
天の国はその人たちのものである。
5:11 わたしのためにののしられ、迫害され、
身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、
あなたがたは幸いである。
5:12 喜びなさい。大いに喜びなさい。
天には大きな報いがある。
あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。」
[マタイによる福音書 5章1-12]



「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。」
この言葉から始まるこの「山上の垂訓」は、
おそらくキリスト教についてあまり良く知らない方であっても、
どこかで聞いたことのある有名なものだと思います。

「心の貧しい人々は幸いである。」「悲しむ人々は、幸いである。」
これらは、当たり前に考えれば、そんなことはありえない、
それは違うと誰もが思う言葉ではないでしょうか。
そもそも聖書に「いつも喜んでいなさい」と教えられているのに、
悲しむ人々が幸いとはどういうことだと、
反論をする人がいてもおかしくありません。

しかし、これらの言葉は、おかしいようでありながら、
どこか心に残る言葉ではないでしょうか。
すぐには承認できないけれども、
なんだか大切なことが言われているような気がする。
そんな、心の深いところに入ってくる言葉です。
イエス様の言葉は、逆説的な言い方が多いようです。
弟子たちや周囲の人々が質問をしても、
ストレートに答えられることは、あまりありません。
短い言葉を返され、質問をする人自身の生き方や考え方を問い直させるのです。
そればかりではなく、重荷を負うて労苦していた人に勇気と希望を与え、
その人を立ち上がらせるのです。
イエス様の言葉は、そんな不思議さに満ちています。

「心の貧しさ」、「悲しむこと」、これらはいずれもマイナスと思えます。
「あの人は心が貧しい」と言えば、それは最大級に人を蔑んでいることだと思います。
「あの人は悲しんでいる」というのは、蔑むことにはならないでしょうが、
憐れみの対象とでも言うべき言い方です。
けれども、これらのマイナスと思えることを、
主は「幸いだ」と言ってくださるのです。どうしてなのでしょうか。

よく大きな病気をされた方や、大きな怪我をされた方が、
「この体験がなければ人の痛みの分からない人間になっていたと思う」
と言われることがあります。
「病気というマイナスの体験をとおして、
少しではあっても他の人の痛みをおぼえることができるようになった、
それは有り難いことだ」と、そのように言われます。
これはとても大事なことです。

今の格差社会、競争社会では、他の人の痛みを分かるか分からないか、
人によってはそんなことはどうでもよいか、
あるいは二次的なことだと思うのではないでしょうか。
優先順位をつけるとすれば、まず、健康第一で、自分が大事で、
他の人の痛みを知るということはそれらよりずっと後にくることでしょう。
しかし、大きな病気や怪我をした人が、
この体験がなければ人の痛みの分からない人間になっていたと思うと言われる。
それは、人の痛みを知るということが、
実は人間にとってどれほど大切なことかを悟ったということです。
それは自分の健康をそれこそ損ねてでも知る価値のある、
大切なことなのかも知れません。
それは決して負け惜しみではなく、
そこに人間の本当の価値を見出した体験の言葉なのです。

司祭 マタイ金山昭夫

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聖霊降臨後 第22主日

2007年11月01日 | ショートメッセージ
18:09 自分は正しい人間だとうぬぼれて、
他人を見下している人々に対しても、イエスは次のたとえを話された。
18:10 「二人の人が祈るために神殿に上った。
一人はファリサイ派の人で、もう一人は徴税人だった。
18:11 ファリサイ派の人は立って、心の中でこのように祈った。
『神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、
姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。
18:12 わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。』
18:13 ところが、徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、
胸を打ちながら言った。
『神様、罪人のわたしを憐れんでください。』
18:14 言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、
あのファリサイ派の人ではない。
だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」
【ルカ による福音書 18章9-24】



今日の福音書は、神殿で祈る二人の人の姿を通して、
神様が私たちをどのようにご覧になっているかということが示されているように思います。
こうした見方は、今日の福音書の記者であるルカにおいては
特に強調される点でもあります。
それはひとことでいえば、「謙遜」(ケノーシス)を良しとされる神だということです。
すなわち、高ぶるものは、引き下ろされ、自らへりくだるものが上げられるという、
あの「マリアの賛歌」に見られるような、ルカに特徴的な信仰告白でもあります。
しかし、これは福音書の説く逆説的な真理をもっとも良く言い表している部分だとも言えるのです。

例えば、福音書の描くイエス様は、救い主として民衆から期待されていたような、
ローマの圧制から解放と勝利をもたらす「栄光の王」といったことを
いつでも裏切るような行動にでられます。
なぜならば、民衆の期待は、イエス様の本当の姿を見誤っているのです。
主が来られたのは、貧しい人、や病人そして、罪人のために来られたという、
民衆の常識では「ありえない」逆説=パラドックスによって
救い主として来られたのです。

また、ここでいう罪人とは、いわゆる、悪人ではありません。
私たち人間は誰一人も例外でなく罪人なのです。
実際に私たちの日常生活は、いわば目に見えない「悪」に満ちており、
わたしたちはそこに知らず知らずに加担してしまってはいないでしょうか?
そうでなくても、私たちは、このファリサイ人のような
義を成せるかということすら難しいでしょう。
時には人を傷つけ、自分だけが良ければ良いというような行動を
とってしまうこともまれではないのです。

たとえ時に誰かのためにということを成し得たとしても、
実のところは自分自身の名誉や、
自己満足のためである場合もあるかもしれません。
こんな私たちですから、
誰一人「自分は悪とは無縁です、罪などおかしておりません」などと、
どうして涼しい顔でいえるのでしょうか。
もし、それが、できるのであればよっぽど厚顔無恥化か、
まったく本当の自己理解に欠けているとしか言いようがありません。

自らを省みるとき、そこに、私たちは不完全で
どうしようもない自分を見出さざるをえません。
そして、福音書はそんな私たちの現実を鋭くとらえながら、
同時に、罪人であればこそ、そんな自分に気づくことができるのであれば、
その人は本当に神の国にはいれるのだとも言っております。
自分が貧しいものであるということを神の前にさらけ出せる人こそが、
本当の自分に向き合うことができ、神様に顔を向けて祈ることができるのです。

今日の福音書でイエス様が嫌われたのは、
ユダヤ教(社会)で中心的な存在であったファリサイ派の自己肯定の姿勢です。
それは、「自分は罪人」ではないと思い込んで、
他人を裁いては、見下ろすような態度をしてしまうような
高慢さともいえるでしょう。

しかし、このようなファリサイ派的な態度は、
実は私たちと無縁なのものではありません。
それは私たちの心の中のどこかにいつもある誘惑です。
「あの人よりは私の方がまだましだ。」という自分への慰めは、
本来福音の精神と相いれないはずのものです。

何様でもない自分に気がつき、
本当の救いはそれをなされる神により頼む信仰を、
イエスさまは良しとされたのです。
そして、この徴税人を通して、救いへの道を求めるなら、
自らをより頼まずただ謙遜であれ、私たちに教えておられるのだと思います。

司祭 マタイ金山昭夫


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