5:1イエスはこの群衆を見て、山に登られた。
腰を下ろされると、弟子たちが近くに寄って来た。
5:2 そこで、イエスは口を開き、教えられた。
5:3 「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。
5:4 悲しむ人々は、幸いである、その人たちは慰められる。
5:5 柔和な人々は、幸いである、その人たちは地を受け継ぐ。
5:6 義に飢え渇く人々は、幸いである、その人たちは満たされる。
5:7 憐れみ深い人々は、幸いである、その人たちは憐れみを受ける。
5:8 心の清い人々は、幸いである、その人たちは神を見る。
5:9 平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる。
5:10 義のために迫害される人々は、幸いである、
天の国はその人たちのものである。
5:11 わたしのためにののしられ、迫害され、
身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、
あなたがたは幸いである。
5:12 喜びなさい。大いに喜びなさい。
天には大きな報いがある。
あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。」
[マタイによる福音書 5章1-12]
「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。」
この言葉から始まるこの「山上の垂訓」は、
おそらくキリスト教についてあまり良く知らない方であっても、
どこかで聞いたことのある有名なものだと思います。
「心の貧しい人々は幸いである。」「悲しむ人々は、幸いである。」
これらは、当たり前に考えれば、そんなことはありえない、
それは違うと誰もが思う言葉ではないでしょうか。
そもそも聖書に「いつも喜んでいなさい」と教えられているのに、
悲しむ人々が幸いとはどういうことだと、
反論をする人がいてもおかしくありません。
しかし、これらの言葉は、おかしいようでありながら、
どこか心に残る言葉ではないでしょうか。
すぐには承認できないけれども、
なんだか大切なことが言われているような気がする。
そんな、心の深いところに入ってくる言葉です。
イエス様の言葉は、逆説的な言い方が多いようです。
弟子たちや周囲の人々が質問をしても、
ストレートに答えられることは、あまりありません。
短い言葉を返され、質問をする人自身の生き方や考え方を問い直させるのです。
そればかりではなく、重荷を負うて労苦していた人に勇気と希望を与え、
その人を立ち上がらせるのです。
イエス様の言葉は、そんな不思議さに満ちています。
「心の貧しさ」、「悲しむこと」、これらはいずれもマイナスと思えます。
「あの人は心が貧しい」と言えば、それは最大級に人を蔑んでいることだと思います。
「あの人は悲しんでいる」というのは、蔑むことにはならないでしょうが、
憐れみの対象とでも言うべき言い方です。
けれども、これらのマイナスと思えることを、
主は「幸いだ」と言ってくださるのです。どうしてなのでしょうか。
よく大きな病気をされた方や、大きな怪我をされた方が、
「この体験がなければ人の痛みの分からない人間になっていたと思う」
と言われることがあります。
「病気というマイナスの体験をとおして、
少しではあっても他の人の痛みをおぼえることができるようになった、
それは有り難いことだ」と、そのように言われます。
これはとても大事なことです。
今の格差社会、競争社会では、他の人の痛みを分かるか分からないか、
人によってはそんなことはどうでもよいか、
あるいは二次的なことだと思うのではないでしょうか。
優先順位をつけるとすれば、まず、健康第一で、自分が大事で、
他の人の痛みを知るということはそれらよりずっと後にくることでしょう。
しかし、大きな病気や怪我をした人が、
この体験がなければ人の痛みの分からない人間になっていたと思うと言われる。
それは、人の痛みを知るということが、
実は人間にとってどれほど大切なことかを悟ったということです。
それは自分の健康をそれこそ損ねてでも知る価値のある、
大切なことなのかも知れません。
それは決して負け惜しみではなく、
そこに人間の本当の価値を見出した体験の言葉なのです。
司祭 マタイ金山昭夫
イラスト素材
Masaru's Matchbox ブログ
腰を下ろされると、弟子たちが近くに寄って来た。
5:2 そこで、イエスは口を開き、教えられた。
5:3 「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。
5:4 悲しむ人々は、幸いである、その人たちは慰められる。
5:5 柔和な人々は、幸いである、その人たちは地を受け継ぐ。
5:6 義に飢え渇く人々は、幸いである、その人たちは満たされる。
5:7 憐れみ深い人々は、幸いである、その人たちは憐れみを受ける。
5:8 心の清い人々は、幸いである、その人たちは神を見る。
5:9 平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる。
5:10 義のために迫害される人々は、幸いである、
天の国はその人たちのものである。
5:11 わたしのためにののしられ、迫害され、
身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、
あなたがたは幸いである。
5:12 喜びなさい。大いに喜びなさい。
天には大きな報いがある。
あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。」
[マタイによる福音書 5章1-12]
「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。」
この言葉から始まるこの「山上の垂訓」は、
おそらくキリスト教についてあまり良く知らない方であっても、
どこかで聞いたことのある有名なものだと思います。
「心の貧しい人々は幸いである。」「悲しむ人々は、幸いである。」
これらは、当たり前に考えれば、そんなことはありえない、
それは違うと誰もが思う言葉ではないでしょうか。
そもそも聖書に「いつも喜んでいなさい」と教えられているのに、
悲しむ人々が幸いとはどういうことだと、
反論をする人がいてもおかしくありません。
しかし、これらの言葉は、おかしいようでありながら、
どこか心に残る言葉ではないでしょうか。
すぐには承認できないけれども、
なんだか大切なことが言われているような気がする。
そんな、心の深いところに入ってくる言葉です。
イエス様の言葉は、逆説的な言い方が多いようです。
弟子たちや周囲の人々が質問をしても、
ストレートに答えられることは、あまりありません。
短い言葉を返され、質問をする人自身の生き方や考え方を問い直させるのです。
そればかりではなく、重荷を負うて労苦していた人に勇気と希望を与え、
その人を立ち上がらせるのです。
イエス様の言葉は、そんな不思議さに満ちています。
「心の貧しさ」、「悲しむこと」、これらはいずれもマイナスと思えます。
「あの人は心が貧しい」と言えば、それは最大級に人を蔑んでいることだと思います。
「あの人は悲しんでいる」というのは、蔑むことにはならないでしょうが、
憐れみの対象とでも言うべき言い方です。
けれども、これらのマイナスと思えることを、
主は「幸いだ」と言ってくださるのです。どうしてなのでしょうか。
よく大きな病気をされた方や、大きな怪我をされた方が、
「この体験がなければ人の痛みの分からない人間になっていたと思う」
と言われることがあります。
「病気というマイナスの体験をとおして、
少しではあっても他の人の痛みをおぼえることができるようになった、
それは有り難いことだ」と、そのように言われます。
これはとても大事なことです。
今の格差社会、競争社会では、他の人の痛みを分かるか分からないか、
人によってはそんなことはどうでもよいか、
あるいは二次的なことだと思うのではないでしょうか。
優先順位をつけるとすれば、まず、健康第一で、自分が大事で、
他の人の痛みを知るということはそれらよりずっと後にくることでしょう。
しかし、大きな病気や怪我をした人が、
この体験がなければ人の痛みの分からない人間になっていたと思うと言われる。
それは、人の痛みを知るということが、
実は人間にとってどれほど大切なことかを悟ったということです。
それは自分の健康をそれこそ損ねてでも知る価値のある、
大切なことなのかも知れません。
それは決して負け惜しみではなく、
そこに人間の本当の価値を見出した体験の言葉なのです。
司祭 マタイ金山昭夫
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