ルクノス ~ともし火~

日本聖公会 北関東教区 宇都宮聖ヨハネ教会のブログです。

聖公会バザー

2007年10月26日 | 宇都宮聖ヨハネ教会
聖公会バザー
~リードオルガン修復のため~

日時:2007年10月27日(土)雨天決行
午前10:00~午後2:00
会場:宇都宮聖ヨハネ教会&愛隣幼稚園

■各種コーナー
 ・食料品 生活雑貨 衣料(新品子ども用キャラクター洋品・グッズ多数用意!)など
 ・子供たちのためのコーナー(愛隣幼稚園)
 ・軽食:カレーライス やきそば コーヒー フランクフルト 手作りお菓子など
 ・その他:ポストカード 手作り品など(教会のお店)
 ・野菜、お菓子などの自然食品販売(サニーマート)
 ・手作り手芸品 ジャム にんじんジュース たまご クッキー パンなど(アジア学院)

■イベント
 ・チャペルコンサート
   午後2:00開演(午後1:30開場)チケット:1,000円
   ソプラノ:小高史子 ピアノ:柴本ゆかり 合唱:クワイヤーアイノス
 ・民話を聞く会(無料) 午前中予定 小礼拝堂

※ご来場の際は、公共の交通機関をご利用ください。

チャーチコンサート

2007年10月26日 | 宇都宮聖ヨハネ教会
日本聖公会 北関東教区 宇都宮聖ヨハネ教会
チャーチ コンサート
~オルガン修復のため~

2007年10月27日(土) 14:00開演(13:30開場)
チケット 1000円           



■演奏曲目
  ソプラノ独唱 : カッチーニ:アヴェ・マリア
          メンデルスゾーン:歌の翼に
          フロトー:夏の名残のバラ オペラ《マルタ》より



  合 唱 : エルガー:アヴェ・マリア / アヴェ・ヴェルム
       アルビノーニ:アダージョ 他



■出演
    ソプラノ/小高史子
    ピアノ/柴本ゆかり
    合唱:宇都宮聖ヨハネ教会 クワイヤーアイノス


■エステー社 リードオルガン
  私たちの教会(宇都宮聖ヨハネ教会)には、
  アメリカのエステー社で製造されたリードオルガンがあります。
  このエステー社のオルガンは、1917年に製造されたもので90年の歴史あるオルガンです。
  14ストップあり、豊かな音色を奏でます。
  
  このオルガンは、礼拝や結婚式・葬送式など、
  いろいろな場面で私たちの歌声と共に歩んできました。
  そして、たくさんの方々に弾き継がれてきました。
  私たちの宝物であるオルガンをこれからの世代にも引き継ぎたい、
  そして、すばらしい音色をこれからも聖堂に響かせたいと私たちは願っています。

  
↑聖堂にある エステー社 リードオルガンと製造番号

■同時開催
  聖公会バザー(10:00~14:00)
  会場:宇都宮聖ヨハネ教会・愛隣幼稚園

■宇都宮聖ヨハネ教会
  バス:JR宇都宮駅西口より
  関東バス【新川】【桜小学校入口】または【桜通十文字】下車 徒歩5分
  ※ご来場の際は、公共の交通機関をご利用ください。

主催:宇都宮聖ヨハネ教会
問い合わせ: 宇都宮聖ヨハネ教会

聖霊降臨後 第21主日

2007年10月21日 | ショートメッセージ
18:01イエスは、気を落とさずに絶えず祈らなければならないことを
教えるために、弟子たちにたとえを話された。

18:02「ある町に、神を畏れず人を人とも思わない裁判官がいた。
18:03ところが、その町に一人のやもめがいて、裁判官のところに来ては、
『相手を裁いて、わたしを守ってください』と言っていた。
18:04裁判官は、しばらくの間は取り合おうとしなかった。
しかし、その後に考えた。
『自分は神など畏れないし、人を人とも思わない。
18:05しかし、あのやもめは、うるさくてかなわないから、
彼女のために裁判をしてやろう。
さもないと、ひっきりなしにやって来て、
わたしをさんざんな目に遭わすにちがいない。』」

18:06それから、主は言われた。
「この不正な裁判官の言いぐさを聞きなさい。
18:07まして神は、昼も夜も叫び求めている選ばれた人たちのために
裁きを行わずに、彼らをいつまでもほうっておかれることがあろうか。
18:08言っておくが、神は速やかに裁いてくださる。
しかし、人の子が来るとき、果たして地上に信仰を見いだすだろうか。」
(ルカ による福音書 18章1—8a)



「ある町に神を恐れず、人を人も思わない裁判官がいました。」
これはおそらく、国家などのこの世の権力や権力者の事を言ったのだと思います。
その権力者のもとにかよわいやもめがやってきて、自らの正義を訴えたのです。

このやもめは、貧しく、なんらより頼むような身内もなく、
まったく無力で何の力も持っていなかったのでしょう。
しかし、彼女はただ、神のみをより頼んでいました。
そして、それは「祈り」となって彼女から訴え出ていたのです。

「祈り」
・・・しかし、この世で信仰を生きるということは簡単なことではありません。
現実の社会では、「信仰や正義」といった言葉などは
一笑に付されてしまうことも多いでしょう。
私たちキリスト者であっても、
ただ神との関わりだけで生きてゆくわけにはゆきません。
むしろ、その生活のほとんどを、この世で生きています。
いわば、今日の福音書にあるような「不正な裁判官」と
渡り合って生きているのです。

しかし、私たちが祈り続けるとき、この不正な裁判官にすらこう言わせうるのです。

「わたしは神を恐れない、人を人とも思わないが、
このやもめは、たえず煩わすので、正しい裁判を行おう」

この不正な裁判官ですら、ついにやもめの訴えを聞いて
正しい裁判をしたというのです。
といっても、この判官が、やもめの願いを聞いて、
悔い改めたとは書いてないことにも注意しなければなりません。
不正な裁判官を正義の裁判官に変えることは
私たちの祈りや訴えではできません。
なぜなら、それは人間のできることではないからです。
それでも、その悪い裁判官が、
結果として正義の裁判をするというところに
今日の福音のメッセージの深みがあります。

残念なことですが、権力は、
正義や公正というもので動いていないことはあきらかでしょう。
しかし、それにもかかわらず、祈り、訴え続けるこのやもめの「愚かさ」、
すなわち、パウロのいうように「信仰の愚かさ」を通して、
動かされることもあるのです。
それは私たちの不断の「祈り」によってです。
祈りとには本来こういう力を持ったものなのです。

「神の愚かさは人よりも賢い」(Ⅰコリント1:25)のです。
主はまたこうもおっしゃいます。
「だから、言っておく。祈り求めるものはすべて既に得られたと信じなさい。
そうすれば、そのとおりになる。」(マルコ11:24)

「祈り」の秘儀(Sacrament)とは、
実はこうした究極の「愚かさ」にあるのではないでしょうか。

司祭 マタイ金山昭夫

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聖霊降臨後 第20主日

2007年10月18日 | ショートメッセージ
17:11 イエスはエルサレムへ上る途中、サマリアとガリラヤの間を通られた。
17:12 ある村に入ると、らい病を患っている十人の人が出迎え、
遠くの方に立ち止まったまま、17:13 声を張り上げて、
「イエスさま、先生、どうか、わたしたちを憐れんでください」と言った。
17:14 イエスはらい病を患っている人たちを見て、
「祭司たちのところに行って、体を見せなさい」と言われた。
彼らは、そこへ行く途中で清くされた。
17:15 その中の一人は、自分がいやされたのを知って、
大声で神を賛美しながら戻って来た。
17:16 そして、イエスの足もとにひれ伏して感謝した。
この人はサマリア人だった。17:17 そこで、イエスは言われた。
「清くされたのは十人ではなかったか。ほかの九人はどこにいるのか。
17:18 この外国人のほかに、神を賛美するために戻って来た者はいないのか。」
17:19 それから、イエスはその人に言われた。
「立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」
《ルカ による福音書 17章11—19》



今日の福音にはイエス様の他にユダヤ人とサマリア人が登場します。
ところでこのユダヤ人とサマリア人とは、民族が違うだけでなく、宗教も違う、
さらにはその宗教がお互いに自分たちこそ正統であると信じている人たちでした。
当然いつも彼らは対立して時に戦ったりもする、いわば犬猿のなかです。

そんな、お互いに軽蔑しあい差別しあっているこの両者が
何とか偏見と差別を乗り越えていこうとすることは
とても難しいことであるということはすぐわかるはずです。
しかし、イエス様はこの難問を「まさにこれしかない」という方法を持って
乗り越えてゆかれました。

それは、まず相手の叫び声に耳を傾けるということ、
相手の「痛い」という声を聞くということです。
そこではじめて、すべての対立や偏見・差別というものを乗り越えることができるのです。

実際、この「重い皮膚病」という恐ろしい出来事においては
サマリアもユダヤもなかったでしょう。
彼らは、ひたすら「どうか私達を憐れんで下さい」と叫び声を上げるしかなかったのです。
そして、彼らの悲痛な叫び声に耳をとめられたイエス様・・・。
このことがあらゆる和解への道への出発点になるのです。

「憐れんで下さい」という、このぎりぎりの叫び声、
おそらく他の誰もが気にも留めない声に、イエス様は耳をとめられました。
おそらくイエス様がこの叫び声に共感して耳をとめた瞬間に、
もう全ては始まったと同時に、全ては完成してしまったということもできるでしょう。
神様はその「共感」に働く方であるからです。
だからこそ、奇跡は起こるのです。

このお話はイエス様が何か魔術や呪術のような力で病を治しましたという話ではないのです。
ですからイエス様は「あなたが助かったのは私の力によるのです」などとは言われないのです。
ただ、「あなたの信仰があなたを救った」、
いわば、勝手に治ってしまったとも取れる言い方をされます。
しかし、この奇跡を可能にしたのは、イエス様が彼らのひどく辛い思いを知って、
心の底から、共感し、憐れまれたということによるのです。

イエス様の他は誰も彼らの「辛さ、痛み」を知りませんでした。
「近づくのもけがらわしい」とばかりに、顔を背けて遠くを通り過ぎたでしょう。
ただ、イエス様だけがその叫び声を自分の事として受けとめてくださり、
彼らの叫びを聞かれたのです。

このことがあった時にはすでに奇跡も起こっていたのでしょう。
ユダヤ人であるイエス様とこのサマリア人が
人間という存在の根底から発せられるような「叫び」においてつながった時に、
すばらしく大きな神様の出来事が起こりサマリア人の病はいやされました。

あとは、「神を賛美し感謝」するだけです。
ここにおいて、神の国は実現したといえるのです。
病を癒されたという事実そのものより、弱さと痛みにおいて、
たとえ敵同志でも深い交わりを持てることの経験を通して、
神様のなされることを感謝し賛美するのです。
そして、このサマリア人だけがそのような神様の愛のわざを信じることができたから
「大声で賛美、ひれ伏して感謝」するのです。

イエス様が「あなたの信仰があなたを救った」とおっしゃったのは、
実はこのサマリア人のささげた「感謝と賛美」こそ、
神の国の実現であり、救いの成就だと知っておられたからだと思うのです。

私たちがいまこの社会において直面している、
差別や備見という壁を乗り越えるためには
他者の「憐れんで下さい」という叫び声に耳を傾けることが必要なのではないでしょうか。

司祭 マタイ金山昭夫

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聖霊降臨後第19主日

2007年10月13日 | ショートメッセージ
17:05 使徒たちが、
「わたしどもの信仰を増してください」と言ったとき、
17:06 主は言われた。
「もしあなたがたにからし種一粒ほどの信仰があれば、
この桑の木に、『抜け出して海に根を下ろせ』と言っても、
言うことを聞くであろう。
17:07 あなたがたのうちだれかに、
畑を耕すか羊を飼うかする僕がいる場合、
その僕が畑から帰って来たとき、
『すぐ来て食事の席に着きなさい』と言う者がいるだろうか。
17:08 むしろ、『夕食の用意をしてくれ。
腰に帯を締め、わたしが食事を済ますまで給仕してくれ。
お前はその後で食事をしなさい』と言うのではなかろうか。
17:09 命じられたことを果たしたからといって、主人は僕に感謝するだろうか。
17:10 あなたがたも同じことだ。
自分に命じられたことをみな果たしたら、
『わたしどもは取るに足りない僕です。
しなければならないことをしただけです』と言いなさい。」
《ルカ による福音書 17:5-10》




今日の福音書を読んで考えさせられるのは、はたして私たちは、
「自分は信仰がある」と胸をはって言えるでしょうかということです。
「私こそは信仰がある」と言いきれる人はあまりいないのではないでしょうか。
「からし種一粒ほどの信仰でも、本物の信仰であれば、奇跡さえ起こせる」。

今日のイエス様のこの御言葉を聞く時に
「ああ、神様、その本物の信仰を、
からし種一粒ほどでもいいから私たちにもください」
そう叫びたいような気持ちが心からわいてまいります。

私たちの人生や生活というのは本当に困難や不安に満ち溢れています。
そこでは日々悩むことが多く、特に病気や「しょうがい」を抱えてしまうとか、
本当に、辛く、やりきれない思いをすることが多いのです。
そんなこの世界で、もし、私たちに信仰がないのであれば、
どうして生きてゆくことができるでしょうか。

しかし、実は私は、ある意味で言えばですけれども、
人はからし種一粒ほどの信仰も持っていないのではないかと思っております。
どんなに信じようとしたところで、ちょっと病気になったり、
生活の困難に直面したら吹き飛んでしまうような信仰。
どんなに一生懸命祈ってきたとしても、ふっと迷いが生じれば、
すぐに恐れと疑いに飲み込まれてしまうような信仰。
私自身、まったくそのような者でしかあり得ないと思うのです。
皆さんはいかがでしょうか。
そのような時には、こんな嘆きをすることがありませんでしょうか。

「ああ、なんと自分は信仰をもてないのだろう。
信仰だと思っていたものが、なんとに偽物であったことか」

人は、すべてがうまく行っているような時には、
何かそれらしい信仰深そうな顔はできるかもしれません。
しかし、いざ試練となったら、本物の信仰を持つということは、
たとえ「からし種一粒」でも到底無理だという気がいたします。
皆さんも、そのように思われることはないでしょうか。 

本当に信仰薄い私たちです。
しかし、そんな私たちにさえ、
いえ、そんなわたしたちだからこそ与えられる恵みがあります。
実はここが、キリスト教の最もすばらしいところなのです。
そういう、「ダメな」私たちに神さまが直接触れて救ってくださるという
奇跡があるのです。
それこそが教会の持ち続けてきたサクラメントの喜びです。
そして、その中で、一番すばらしい恵みは、
今日皆さんが受ける聖餐の恵みです。
どうぞ、ご一緒にこの聖餐の恵みの内にあって、
本当に神様の救いに与るという素晴らしい経験を分かち合って行きましょう。

司祭 マタイ金山昭夫

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