ルクノス ~ともし火~

日本聖公会 北関東教区 宇都宮聖ヨハネ教会のブログです。

合同礼拝・イースター礼拝のご案内

2008年03月04日 | その他
☆主教巡錫 日光・宇都宮合同礼拝(於:宇都宮聖ヨハネ教会 礼拝堂)
3月9日(日)10:30~ 大斎節 第6主日 聖餐式

☆教区合同墓地礼拝 (於:小山祈りの家 礼拝堂)
3月15日(金)11:00~ 聖餐式

☆栃木伝道区合同礼拝(於:小山祈りの家 礼拝堂)
3月21日(金)聖金曜日 13:30~ 聖餐式

☆日光・宇都宮合同イースター礼拝・祝会(於:宇都宮聖ヨハネ教会 礼拝堂)
3月23日(日)復活日 10:30~ 聖餐式
礼拝後祝会(幼稚園ホール)持ち寄りパーティ:会費制:大人500円
☆教区信徒一致の日 合同礼拝(於:立教学院 聖パウロ礼拝堂)
4月29日(火・祝日)10:30~ 聖餐式

顕現後第2主日

2008年03月04日 | ショートメッセージ
その翌日、ヨハネは、自分の方へイエスが来られるのを見て言った。
「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ。
『わたしの後から一人の人が来られる。その方はわたしにまさる。
わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、
この方のことである。
わたしはこの方を知らなかった。
しかし、この方がイスラエルに現れるために、
わたしは、水で洗礼を授けに来た。」
そしてヨハネは証しした。
「わたしは、“霊”が鳩のように天から降って、
この方の上にとどまるのを見た。
わたしはこの方を知らなかった。
しかし、水で洗礼を授けるためにわたしをお遣わしになった方が、
『“霊”が降って、ある人にとどまるのを見たら、
その人が、聖霊によって洗礼を授ける人である』とわたしに言われた。
わたしはそれを見た。
だから、この方こそ神の子であると証ししたのである。」
その翌日、また、ヨハネは二人の弟子と一緒にいた。
そして、歩いておられるイエスを見つめて、
「見よ、神の小羊だ」と言った。
二人の弟子はそれを聞いて、イエスに従った。
イエスは振り返り、彼らが従って来るのを見て、
「何を求めているのか」と言われた。
彼らが、「ラビ――『先生』という意味――どこに泊まっておられるのですか」
と言うと、イエスは、「来なさい。そうすれば分かる」と言われた。
そこで、彼らはついて行って、どこにイエスが泊まっておられるかを見た。
そしてその日は、イエスのもとに泊まった。
午後四時ごろのことである。
ヨハネの言葉を聞いて、イエスに従った二人のうちの一人は、
シモン・ペトロの兄弟アンデレであった。
彼は、まず自分の兄弟シモンに会って、
「わたしたちはメシア――『油を注がれた者』という意味――に出会った」
と言った。
<ヨハネによる福音書1章29-41>

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本日の福音書にはまた、ヨハネが登場します。
ここで気付かされるイエス様とヨハネの根本的な違いは、
ヨハネのメッセージが「裁き」であったのに対し、
イエス様はあくまでも「喜び」のメッセージであったということです。
ここにイエス様の宣教の中心があります。

しかし、「喜びのメッセージ」はそんなに簡単に語れるものではありません。
本当に「喜び」を語るということには、
それに伴う大きな責任があります。
神様の前に罪深い人間はどのように立てるのか。
すなわち「罪の赦し」の問題です。
これを抜きにして「喜び」を語ることはできません。
イエス様が人々に「罪の赦し」を語り「愛の神」を語る以上、
神と人間とに対して自らが責任をとらねばならないのです。
ヨハネがイエス様に対して「見よ、神の小羊」と語ったのは、
まさにこのことを指していたのです。
自分自身を「犠牲の小羊」にする覚悟がなくては
「神の愛」を語ることはできないでしょう。
しかし、それは「神から遣わされた者」だけができることです。

ヨハネ自らが言うように
「天から与えられなければ、人は何も受けることができない。」
(ヨハネによる福音書3:27)のです。
そこにヨハネをはじめとする預言者の限界がありました。
しかしイエス様はその限界を打ち破り、
自らを「神の小羊」として奉げられる生き方を選ばれたのだと思います。

司祭 マタイ金山昭夫