ルクノス ~ともし火~

日本聖公会 北関東教区 宇都宮聖ヨハネ教会のブログです。

顕現後第4主日

2006年01月29日 | ショートメッセージ
今日の福音書(マルコによる福音書1:21-28)に出てくる、
カファルナウムの会堂とは、ある百人隊長が献堂したものでした。
また、イエスは公生涯のうちの三年間をここで過ごし、
この町で十二人の弟子たちを選んで召し出されたのです。
福音書に記されている説教、奇跡の多くが
この町のそこここを舞台として描かれています。
そして、イエス様ご自身もこの町を「自分の町」(マタイ9:1)と呼んで
とても愛しておられた町でした。

今日の福音書の伝える事件は、このイエス様のホームグラウンドで起きたのです。
それは、映画『エクソシスト』などでも良く知られている「悪魔式」=エクソシズムです。

一般に「悪魔祓い(師)」という言い方をされますが、
416年 法王イノケンディウスⅠ世の規定以来、
1500年続いている、司教の任命により実在する聖職者です。
最近でもこのエクソシストを養成するための聖職者向け講座が
2005年に、ローマバチカン教皇庁公認レジーナ・アポストロールム大学に開設され、
約100人の聖職者が出席したことがニュースになりました。

映画では、奇怪な描写ばかりが突出して紹介される『エクソシスト』ですが、
むしろ、本当に伝えようとしているメッセージは、
信仰による共同体成り立ちにくくなってしまった現代における
「信仰」の「回復」とは何か、を問う内容であります。
そのことは、現代最高のエクソシストであり、
列聖されたカトリックのピオ神父の相談相手であった
バンディド神父がこの映画について、
「誇張はあるが良い映画であり、真実に近い」と評していることからも
うかがい知ることが出来ます。

執事 マタイ金山昭夫 《2006.1.29 週報より》

顕現後第3主日

2006年01月22日 | ショートメッセージ
本日の福音書(マルコによる福音書1:14-20)の舞台である
カファルナウムという村は、ヘロデによってギリシャ化された
人工的な都市であるティベリアスから程近いところにありました。

しかし、そこに住んでいたのは、伝統的なユダヤ教を守る人々でしたから、
対岸のティベリアスを苦々しく眺めていたに違いありません。
そのような純粋なユダヤ人の会堂である安息日に
イエス様は教えを述べておられました。
残念ながら、そこでイエス様がどのような教えを述べたのかということには
マルコは触れていません。

マルコ福音書の特徴として、イエス様がどのような教えをなさったかというより、
そこでの教えがもたらす人々へ、今日の箇所で言えば、人々の「驚き」という点に
ポイントがあるのではないでしょうか。
なぜかといえば、イエス様がユダヤ教のラビ=教師や律法学者たちとは
全く違うということに気が付いたからなのです。
彼らは、イエスが権威ある者として教えたのです。

すなわち、イエス様は当時のユダヤ教の教師=ラビたちの教えとは、
自分たちの先達の教えを基にモーセの律法の解釈を解き明かす
という方法であったのです。
いわば、先祖伝来の口伝を基に聖書(旧約)の特に律法を解釈することでした。
「昔から、誰それによってこういわれている」式の
いわば人間の教えの引用に過ぎなかったのです。
しかし、イエス様の教えの特徴は、他の誰にも権威を求めることなく、
ご自身の権威において語っているというところにあります。
このような教え方は、当時のユダヤ人たちに
新鮮な驚きを与えたに違いありません。

また、教え方の方法や形式だけでなく、イエス自らが語る言葉に説得力があり、
そして、その言葉を聞いた者たち誰もが、
そのことを肌で感じたということなのではないでしょうか?

執事 マタイ金山昭夫 《2006.1.22 週報より》

顕現後第2主日

2006年01月15日 | ショートメッセージ
本日の旧約聖書はサムエルの召命物語(サムエル記上3:1-20)です。

少年サムエルは、夜中に自分を呼ぶ声で目覚めて司祭エリの所に走って行きます。
彼はまず、司祭に聞いたのです。そして、司祭エリの指示に従って
「主よ、お話ください。僕は聞いております。」という言葉に至るわけです。

この少年サムエルの「聞く姿勢」これは重要です。
それは、「聞く」ということがとても大切であり、
私達が聖書研究をするときも、み言葉に「聞く」ということが主眼であり、
同時にそれは「聞く訓練」でもあるということにもつながります。

また、祈りとは「願い求めること」であると、つい私達は考えがちです。
もちろん、願い求めて良いのです。
しかし、祈りの基本はむしろ「聞く」ことにあるということも言えるのです。

私達は、神様に向かって「主よ、主よ」と願い訴えます。
そして、その熱心な祈りの先にやっと、
全てを神様に委ねることができるのでしょう。
そして、「自分」というものが空になって初めて、
神様が語りかけてくださるような気がします。

それは、「私」という器に神様の恵みが盛られようとしている、
と言ったら良いでしょうか。
瓶の容量は人それぞれでしょう。
しかし、神様はその土の器に一杯に注ぎ込んでくださる。
必ず私達の必要に応じて満たして下さるのです。
そして、口いっぱいまで来たら、
おのずと主の恵みは溢れ出るのではないでしょうか。
それが「御業」なのです。

神に委ねることを忘れて自分の業や自我に固執している間は、
この恵みをしっかり受け止めることは出来ません。
ただ、すべてを神様にお委ねし、
私達は恵みを受け取る手を差し出すだけで良いのです。
そして、サムエルのように
『主よ、お話しください。僕は聞いております。』と、
神様のお声に耳を傾けたいと思います。

執事 マタイ金山昭夫 《2006.1.15 週報より》

顕現後第1主日・主イエス洗礼の日

2006年01月08日 | ショートメッセージ
今日の福音書(マルコによる福音書 1:7-11)で、
主なる神様はイエス様に、「あなたは、わたしの愛する子」と、おっしゃられます。
それは、イエス様に向けられた天の父なる神からの声でした。
しかし、御子であるイエス様によって、その声を私達ひとりひとりが皆、
自分自身にも向けられたものとして聴くことができるのです。

もちろん、私たちはとても自分自身が、
神様に愛される資格などないということに気づかされます。
自分の罪を思い返す時、自分の卑小さ、汚らわしさを思う時、
神様から「愛する子よ」と呼んでいただける資格など全くないように思う。
ルカ伝の「放蕩息子」のように
「お父さん。私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません。」というしかありません。

しかし、そのような私にも、御子イエスは
「あなたは、わたしの愛する子」と呼びかけてくださっているのです。
この奇跡に、新しい希望と生きる力を与えていただいているように思うのです。
そして、そのような私達にとって大切なことは、私達ひとりひとりが、
神様に愛されている喜びを兄弟姉妹と分かち合うことなのではないかと思います。
神様が、私達をこの上なく愛してくださっている、
この喜びこそがすべての前提なのです。

皆さんとご一緒に、この喜びに預かりながら、
新しく始まったこの一年を歩んでいけることができるようにお祈りいたします。
本年もよろしくお願い致します。

執事 マタイ金山昭夫 《2006.1.8週報より》

主イエス命名の日

2006年01月01日 | ショートメッセージ
新年おめでとうございます。

私たちの教会は、2005年をろうそくの光に照らされたキャンドルマスで締めくくり、
新しい年2006年を「マリアはこれらの出来事をすべて心に納めて思い巡らしていた」
(ルカ 2・19)という本日の福音書の言葉をもって始めました。

これは、毎日のひとつひとつの出来事(大きな出来事・小さな出来事、
理解できること・できないこと、納得いくこと・いかないこと)を
感情と理性を超えて心に持っていき、そこで神様が与えようとする意味を
見つけることを表しています。

私たちは、一年間この言葉の光に照らされて、
マリアのように日々の出来事の中で神と共に歩みクリスマスに向かっています。
この一年間、具体的な勧めを通して、
ルカの福音書の言葉を活かすきっかけが
与えられたような気が致します。

みなさんとご一緒に、この福音の御恵みに預かりながら、
今年も歩んでいけることが出来ることをお祈り致します。

本年もどうぞよろしくお願い致します。

執事 マタイ金山昭夫 《2006年1月1日 週報より》