ルクノス ~ともし火~

日本聖公会 北関東教区 宇都宮聖ヨハネ教会のブログです。

降臨節第2主日

2008年01月26日 | ショートメッセージ
そのころ、洗礼者ヨハネが現れて、ユダヤの荒れ野で宣べ伝え、
「悔い改めよ。天の国は近づいた」と言った。
これは預言者イザヤによってこう言われている人である。
「荒れ野で叫ぶ者の声がする。
『主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。』」
ヨハネは、らくだの毛衣を着、腰に革の帯を締め、
いなごと野蜜を食べ物としていた。
そこで、エルサレムとユダヤ全土から、
また、ヨルダン川沿いの地方一帯から、人々がヨハネのもとに来て、
罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けた。
ヨハネは、ファリサイ派やサドカイ派の人々が大勢、
洗礼を受けに来たのを見て、こう言った。
「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。
悔い改めにふさわしい実を結べ。
『我々の父はアブラハムだ』などと思ってもみるな。
言っておくが、神はこんな石からでも、
アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる。
斧は既に木の根元に置かれている。
良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。
わたしは、悔い改めに導くために、あなたたちに水で洗礼を授けているが、
わたしの後から来る方は、わたしよりも優れておられる。
わたしは、その履物をお脱がせする値打ちもない。
その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。
そして、手に箕を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、
麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる。」
<マタイによる福音書3章1-12>

+

「荒野で叫ぶ者の声がする。主の道を備えよ。その道筋をまっすぐにせよ。」
福音書の記者はバプテスマのヨハネをこの時代よりも700年以上も前に
イザヤが預言していた人物として描いています。
すなわち、このヨハネこそ、救い主であるイエス様に先立って、
主の道備えとして神様から使わされた旧約と新約を橋渡しをする預言者として
登場しています。

主の道を備え、その道筋をまっすぐにすること、
これがヨハネに託された役目であり、
彼の生涯は「福音の道備え」であるということができるでしょう。
そして、この「福音の道備え」とは、他ならない旧約聖書です。
すなわち、このヨハネは旧約聖書を象徴的に代表していると
みなすことができるでしょう。

これは、当時のファリサイ派が考えていたように
旧約の律法と預言書がそれ自体で重要なのではなく、
福音の道備えとして重要だということを示しています。
イエス様は、このバプテスマのヨハネについて
「女から生まれた者の中でヨハネより大いなる人物はいない」
とおっしゃっています。

実はその事は、この世界に存在したものの中で、
律法と預言者に勝るものは何一つ無いと言っているのです。
ヨハネへの評価とは、原始教会が、こうした旧約聖書をいかに評価し、
新約の世界へと結び付けていったかということを示しています。

例えばヨハネの中心的メッセージである
「悔い改めよ。天の国は近づいた」はマタイ4章17節の
イエス様の宣教活動開始の言葉と全く同じです。
イエス様も、バプテスマのヨハネも、そのメッセージの中心には、
「悔い改め」ということがありました。
この言葉はヨハネやイエス様が実際に語られたヘブライ語では
「シューブ」といい「帰る」ことを意味します。
また、新約聖書が書かれたギリシャ語では「メタノイア」では、
方向を180度転換するということす。
これらが示すのは、生き方を全く変えて、命の源である神に帰る、
つまり魂の原点に立ち返るということです。
すなわち、神のもとへ「帰る」あるいは「帰れ」ということです。
ここに私は神の深い愛に満ちた私たちへの呼びかけを感じます。
故郷の中の故郷であり、親の中の親である神のもとへ、
自分が生まれ出てきたその原初に「帰れ」と言われます。
それこそが、ヨハネのメッセージであり、
またイエス様のメッセージなのです。
これは旧約と新約を貫いている究極の神様の呼びかけです。

有名なルカの「放蕩息子の譬え話」も、同じことを伝えているのです。
この息子は、自分の思うままに父の下を離れ、異郷の地に出てゆき、
自分のしたいように生活しました。
思うままに生きました。
そして、放蕩に身を持ち崩し、
ついには豚の食べるイナゴ豆ででも腹を満たしたいとおもうまでに
落ちぶれました。
もはや、落ちるところまで落ちたのです。
そこでようやく「我に返り」ました。
「そうだ、父の下に帰ろう」。

高校生のころでしょうか、この話を読んで、
「ずいぶん子供を甘やかす親だ。そんなに無条件に受け入れていたら、
息子はまた同じ過ちを犯すに違いない。
許す前にもっと反省させなければ・・・」と鼻白んだことがあります。
その時のわたしにとっての「悔い改め」とは
「反省する」ということでしかなかったのです。

しかし、聖書が言う「悔い改め」とはこれは違います。
反省というのは、いわば、悪い部分、欠点を正し、矯正することです。
しかし、聖書は、わたしたち人間は、原罪のもとに縛り付けられており、
部分部分をどう矯正したところで、神の前で義とされえないと示しています。

私たちが神の前で義とされるには、
罪に死んで新しく生まれなおす必要があります。
そして新しく生まれるために必要なのは、
ただ、父である神の御許に帰り、無条件降伏をするしかないのです。

「悔い改め」とは、ただの反省などではありません。
生きる方向を180度変えて、真の親である神のもとへ帰ることです。
原点に返ってやり直すことです。

この「帰れ」、あるいは「悔い改め」ということは
旧・新約聖書を貫くメッセージなのです。
イエス様は、ご自身を示して私たちが帰ってゆく「道」であり、
「真理」であり、「命」であるとおっしゃっています。
すなわち、信仰生活とは、神のもとへと自らが帰り、
隣人を立ち返らせてゆくということなのです。
私たちはこの「帰る(シューブ)=悔い改め(メタノイア)」の一言を、
これまでの信仰生活において、どれほど深く、
どれほど豊かに味わってきたことでしょうか。
その御恵みに感謝しつつ、降臨節この時を過ごしつつ、
主のご降誕を待ち望みたいと思います。
司祭 マタイ金山昭夫

降臨節第1主日

2008年01月23日 | ショートメッセージ
人の子が来るのは、ノアの時と同じだからである。
洪水になる前は、ノアが箱舟に入るその日まで、人々は食べたり飲んだり、
めとったり嫁いだりしていた。
そして、洪水が襲って来て一人残らずさらうまで、何も気がつかなかった。
人の子が来る場合も、このようである。
そのとき、畑に二人の男がいれば、一人は連れて行かれ、もう一人は残される。
二人の女が臼をひいていれば、一人は連れて行かれ、もう一人は残される。
だから、目を覚ましていなさい。
いつの日、自分の主が帰って来られるのか、
あなたがたには分からないからである。
このことをわきまえていなさい。
家の主人は、泥棒が夜のいつごろやって来るかを知っていたら、
目を覚ましていて、みすみす自分の家に押し入らせはしないだろう。
だから、あなたがたも用意していなさい。
人の子は思いがけない時に来るからである。」
【マタイによる福音書24章37-44】



人生は予期せぬ出来事に充ち満ちています。
だから一般的に人は「平穏=幸せ」と考えてしまうのかもしれません。
しかし、本当のところは、神様の歴史、神様の時間とは、
もともとから予期せぬものなのです。
だから、今日のイエス様のおっしゃる
「目を覚ましていなさい」というメッセージが
わたしたちにとって意味のあるものとなるのです。

36節に「その日、その時は、だれも知らない。
天使たちも子も知らない。ただ父だけがご存じである」
まさに、神様の時間は、天使や、子であるイエスさまであっても知らないのです。
「神のみぞ知る」ということです。
こうした、神様のさだめた時間について、どんな時なのかということは、
時間を表す二通りギリシャ語「クロノス」と「カイロス」の使い分けが
大きなヒントを与えてくれます。

ここで、イエスさまが語る時間とは、後者の「カイロス」を意味しています。
前者のクロノスの時間とは、計ったり、数えたりすること、
いわば数量化できることのできる時間を指します。
同質化された時間ということもできるでしょう。
しかし、私たちが生きている時間には、
もう一つの時間、重みの違う時間、質的に異なる時間があるのです。
それがカイロスというギリシャ語の指している「時間」なのです。

しかし、本来カイロスであるはずの時間さえも、
計算されて、図られ、見積もられ、
同質化されているのが現代の競争社会であり、
私たちは時間におわれてストレスをため込んでしまうことになります。
仕事を意味するbusinessはbusyから来ています。
「仕事」とは「忙しいこと」という意味です。
日本語でも忙しいとは、「心が亡くなる」という意味でしょう。
しかし、本来神の時であるカイロスとは、
差異化・個性化された時間で生きる事です。
それぞれの賜物であり、自分自身に与えられた「固有の時」です。
自分にだけの大切な時を、自身の人生をもって産みだすような、
そういった時間のことです。

こうして、私たちが「カイロス」の時を生きると、
それは記憶に残る時、いとおしい時が生じます、
それが私たちの人生を形作っていくのです。
「今日も同じ一日」ではないのです。
年齢や場所、あるいは出会った人や物によって時に重みや深みがでるのです。
そして、このカイロスは本人の決断に左右されるものでもあります。

今日の福音書では、
神様は「その時」を「知ること」を大切だとは言っておりません。
むしろ「その時」は私たちにはわからないというのです。
そして、その代わりに「目を覚ましていなさい」というのです。
「目をさましていろ」とは、どういうことなのでしょうか。
単に起きているということではありません。
それは、覚醒していろということ。注意深く待つと言うことです。
何を待てばいいのでしょうか。
それは「人の子がくること」です。
注意深く、心の目を覚まして「救い主、キリストを待つこと」が大切なのです。

私たちは、ただ、クロノスの数えられる時間を過ごすだけでは、
本当の深い出会いや、感動はありません。
そこでは神様の導きは働かなくなってしまい、
自分の魂と出会ったり、他者と出会ったり、
キリストと出会うことを出来なくしてしまうのです。
私たちは「目覚めて」いるでしょうか。
どちらの時間を生きていると主の前で言えるでしょうか。
救い主が私たちの内に来て下さることを、
本当に待つことができているでしょうか。
神様の時であるカイロスを生き、神様の働きに、
希望を抱いて日々の信仰を持って歩んでいるでしょうか。

今年も降臨節に入りました。
神様の時に目覚め、神様と伴なるような時を過ごしましょう。
そこには平安と感謝と喜びがあります。
主なるキリストが私たちの内に来て、共にいて下さいます。
罪ある私たちの体に人生に、罪をあがなうキリストが戻ってきて、
それを埋めて下さるのです。贖い続けて下さるのです。
まさに、私の罪、私の愚かさ、私のいたらなさを、
キリスト自身が埋めて下さる。
私たちはそのままなのに、キリスト自身が贖って下さるのです。
だからこそ、キリストが私たちの内に生きて、
働いて下さっていることに、目覚めていたいと思うのです。
そして、それは私たちの命が生き生きと、神の時を刻むことであり、
そこに私たちの人生が「永遠の命」に与ることになるのです。

主の降臨を待ち望むこの季節を、
救い主であるキリストが私たちの内に生きて、
働いて下さっていることに、心をとめて、注意深く目覚めていたいと思います。

司祭 マタイ金山昭夫


降臨節前主日

2008年01月21日 | ショートメッセージ
民衆は立って見つめていた。議員たちも、あざ笑って言った。
「他人を救ったのだ。
もし神からのメシアで、選ばれた者なら、自分を救うがよい。」
兵士たちもイエスに近寄り、酸いぶどう酒を突きつけながら侮辱して言った。
「お前がユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ。」
イエスの頭の上には、「これはユダヤ人の王」と書いた札も掲げてあった。
十字架にかけられていた犯罪人の一人が、イエスをののしった。
「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ。」
すると、もう一人の方がたしなめた。
「お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。
我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから当然だ。
しかし、この方は何も悪いことをしていない。」
そして、「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、
わたしを思い出してください」と言った。
するとイエスは、
「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言われた。
【ルカによる福音書23章35-43】

+

今日は従来「王なるキリスト」の主日と呼ばれておりましたし、
諸外国では今でもそう呼ばれております。
日本聖公会では昨年の総会で「回復の主日」と呼ぶという決議がありました。
しかし、正直に言えば「王なるキリスト」が
なぜいけないのか良くわかりませんし、
その決議をめぐる議論には、
今日の福音書が教える「本当の王」とは何かということへの視点が
見失われたまま進んでしまったような気がして残念です。
そこで、今日はあえてこの「王なるキリスト」ということについて
お話をしたいと思います。

福音書が、ここでイエス様は王であると言っても、
それはこの世の王とは違う王なのだということが大前提なのです。
この世の王は上に立って支配する王ですが、
本当の王であるキリストは、
誰からも見捨てられたような世界のどん底に下って行かれて
すべての人をお支えになる王です。
今日の聖書では、そんなイエス様を議員は嘲笑い、兵士は侮辱し、
犯罪人はののしったとあります。
しかし、その自分を嘲笑い、侮辱し、ののしっている、
まさにその人たちを、イエス様はそのまた下に下られて支えておられるのです。
なぜなら、イエス様はこの人たちが、自分を嘲笑い、
侮辱し、ののしっているのは、
本当は彼らが、実はとても弱い存在だということがわかっておられるからです。
私たち人間は自分で自分を救うことなどとても出来ないような弱い存在なのです。
だからこそ救い主が必要なのに、彼らはそれを知らないで、
なんとか、自分で自分を救おうと必死になっている。
議員は権力を頼りにし、兵士は武力を頼りにしています。
そして、犯罪人は他人を傷つけたり、ものを盗んだり、壊したりする、
暴力で、自分を救おうとしているのです。
そして、これは、実は私たちの姿にほかなりません。
だれもが実は弱いから権力や武力や暴力にしがみついているのです。
そんな弱さに気がつかず、この世という泥沼で溺れている私たちを、
イエス様はどん底までへりくだって救って下さろうとします。
たとえ十字架にかけられても復讐することもありません。
ののしり返したり、相手を裁くこともありません。
そして、本当心の底の底から
「神さま、この人たちを救ってください」と祈るのです。
これこそが本当の王です。
私たちの信じているイエス様はそういう王様です。
この世の王にはありえない姿です。
もとより、旧約聖書の定める王は民を護ることが義務であったそうです。
しかし、その神様の戒めを守ることなく、
この世の王を目指している人たちは、
イエス様のような完全に無力な存在を嘲笑い、侮辱し、ののしるのです。
それは、無力を恐れている弱い姿です。
しかし、このイエス様の無力、
どん底で私たちを支えている「十字架」こそが
すべての人を救う王のしるしであるという福音を知ったならば、
この十字架をあがめずにはいられないはずです。
そして、この十字架こそ、私たちキリスト教会の礎なのです。
イエス様の十字架、そして、それに続くたくさんの信仰の先達の十字架が
あるのです。
イエス様や、信仰の先達の犠牲によって、
今日の私たちが新しい信仰の実りを創造してゆくのではないでしょうか。
この箇所は、そうした信仰の根幹にかかわるところなのです。
私たちはイエス様が私たちの弱さをすべて十字架の上で
背負ってくださっていることに感謝したいし、
それによって、本当に安心を与えていただけると信じる。
それが私たちの信仰です。
神さまは私たちを苦しませるためでなく、愛するために創造されました。
もちろん生きてゆく上で苦しみはあるでしょう。
しかし、その苦しみを喜びに変えるために、
王であるイエス様自らがへりくだって、どん底に行って十字架を背負われ、
私たちを支えているのです。
私たちの王とは、そんなへりくだる王なのです。
だから私たちも主にならって、へりくだりたいと思います。
また、すべてを神さまにお捧げして行きたいと思います。
そして、日々の信仰生活において、私たちがこの小さな十字架を背負うことで、
主への感謝の証をささやかであっても示すことができるのではないでしょうか。

司祭 マタイ金山昭夫

クリスマスシーズンのお知らせ

2008年01月06日 | その他
※2008年1月6日までは、この記事がトップになっています。



「本当のクリスマスをあなたにも」

今から2000年近く前、世界の片隅で人々を愛し関わり続けた末に
十字架にかけられて死んだイエスという男がいました。
彼の一生は無駄であったように見えながら、
この人を救い主と信じる人々によって少しずつ、
やがて大きく、世界は変わっていったのです。

他の人を愛して関わり続けることは無力なことのように見えますが、
その愛を受けた人は、本当の自分を取り戻して生きる意味と力を得るのです。
そして、愛され慰められることを求めることから、
他の人を愛し慰めと励ましを与える人へと生まれ変わっていくのです。

イエス・キリストの誕生を覚えて感謝し、
その喜びと平和を分かち合うのがクリスマス[Christ Mass]です。
教会においでになり、本当のクリスマスを共にお過ごしください。
どの礼拝も皆さまのために開かれています。
皆さまの上に主なる神様の祝福が豊かにありますように。

2006年12月2日 降臨節第1主日 
宇都宮聖ヨハネ教会・日光真光教会 司祭 ヨハネ小野寺達

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♪12月23日(日)
*AM10:30 宇都宮聖ヨハネ教会(宇都宮聖ヨハネ教会・日光真光教会合同)
降臨節第4主日 クリスマス礼拝・祝会 (礼拝後、持ち寄りパーティー)
「楽しいクリスマス・パーティーをご家族とご一緒に!」
(会費制:大人お一人500円となります。)
*PM6:00 日光真光教会 クリスマスキャロルを歌う集い 
・・・光の中でのクリスマス聖書朗読とクリスマスキャロル奉唱・・・

♪12月24日(月)
*PM7:00 宇都宮聖ヨハネ教会 降誕日前夕 降誕日前宵祭[キャンドルサービス]
・・・光の中でのクリスマス聖書朗読とクリスマスキャロル奉唱・・・
礼拝後、温かいお汁粉の用意がございますのでお召し上がりください。

*PM10:30宇都宮聖ヨハネ教会 降誕日深夜礼拝 聖餐式 
クリスマスの夜を静かな祈りとともに過ごします。

♪12月25日(火)
クリスマスをお祝いし、礼拝を捧げましょう。
*AM10:30 宇都宮聖ヨハネ教会(礼拝堂) 降誕日 聖餐式 

*AM10:30 日光真光教会(礼拝堂) 降誕日 み言葉の礼拝

♪1月1日(月)AM10:30 宇都宮聖ヨハネ教会(礼拝堂) 
(宇都宮聖ヨハネ教会・日光真光教会合同)
*主イエス命名の日 正餐式 (元旦礼拝) 
 一年の始まりを教会でともにお祝い致しましょう。

♪1月6日(日)
顕現日 主の顕現をお祝いいたします。
*AM10:30 宇都宮聖ヨハネ教会(礼拝堂)正餐式 司式:金山司祭
*PM2:30 日光真光教会(礼拝堂)執事による分餐式 司式:岸本執事