ルクノス ~ともし火~

日本聖公会 北関東教区 宇都宮聖ヨハネ教会のブログです。

顕現後第1主日・主イエス洗礼の日

2008年02月26日 | ショートメッセージ
イエスが、ガリラヤからヨルダン川にヨハネのところに来られた。
彼から洗礼を受けるためである。
ところが、ヨハネは、それを思いとどまらせようとして言った。
「わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに、
あなたが、わたしのところに来られたのですか。」
しかし、イエスは、お答えになった。
「今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、
我々にふさわしいことです。」
そこで、ヨハネはイエスの言われるとおりにした。
イエスは、洗礼を受けるとすぐ水の中から上がられた。
そのとき、天がイエスに向かって開いた。
イエスは、神の霊が鳩のようにご自分の上に降って来るのを御覧になった。
そのとき、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と言う声が、
天から聞こえた。
<マタイによる福音書3章13-17>

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本日の福音書のテキストを、
同様な主イエスの洗礼の出来事を記しているマルコの記事と比べてみると、
細かい違いはありますが、およそ同じことを語っているようです。
しかし、その中で決定的に違っている点としては、
マタイではマルコ福音書には見られない
イエス様と洗礼者ヨハネの間に交わされる会話が
挿入されていることを挙げられるでしょう。

「今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、
我々にふさわしいことです」は、
マタイ福音書においてイエス様の発言なさる最初の言葉であり、
この一言のうちに以後イエス様が生涯かけて貫き通す
その生き方が要約されています。

ここで「正しいこと」と訳されている原語は「ディカイオシュネー」で、
新共同訳以外の翻訳聖書ではたびたび「義」と訳されています。
イエス様の誕生についての記事のところで
「ヨセフは正しい人だったので」の「正しい」も
この名詞から派生した形容詞です。

この「義」とか「正しさ」と訳されている原語は、
聖書理解の鍵となるたいせつな用語です。
聖書で、ある人、あるいは行為が、義である、あるいは正しいというとき、
いったい何を意味するのでしょうか。
それに答えるには旧約聖書にさかのぼって
この「ディカイオシュネー」に対応する
ヘブライ語の「ツェダカー」との関係について説明する必要がありますが、
これを簡単に一言で言えば
「神とあるべき関係を保っている」ということになると思います。

あるべき関係とは言い換えれば
「ある人が神の意志を何にもましてたいせつにしている」ことが
すなわち「あることが神の意に則している」ことを意味することに
なるのだと思います。
つまり、わたしたちと神様との関係で大切なことは、
自分の生き方、生き様において
何を基準に行動し生きているかということなのです。

私たちは日々の生活の中で何を大切にして生きているでしょうか?
今日の福音書はそのことを私たちに問いかけているような気がいたします。

司祭 マタイ金山昭夫

顕現日

2008年02月20日 | ショートメッセージ
イエスは、ヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになった。
そのとき、占星術の学者たちが東の方からエルサレムに来て、言った。
「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。
わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。」
これを聞いて、ヘロデ王は不安を抱いた。
エルサレムの人々も皆、同様であった。
王は民の祭司長たちや律法学者たちを皆集めて、
メシアはどこに生まれることになっているのかと問いただした。
彼らは言った。
「ユダヤのベツレヘムです。預言者がこう書いています。
『ユダの地、ベツレヘムよ、/お前はユダの指導者たちの中で/
決していちばん小さいものではない。
お前から指導者が現れ、/わたしの民イスラエルの牧者となるからである。』」
そこで、ヘロデは占星術の学者たちをひそかに呼び寄せ、
星の現れた時期を確かめた。
そして、「行って、その子のことを詳しく調べ、見つかったら知らせてくれ。
わたしも行って拝もう」と言ってベツレヘムへ送り出した。
彼らが王の言葉を聞いて出かけると、東方で見た星が先立って進み、
ついに幼子のいる場所の上に止まった。
学者たちはその星を見て喜びにあふれた。
家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた。
彼らはひれ伏して幼子を拝み、
宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。
ところが、「ヘロデのところへ帰るな」と夢でお告げがあったので、
別の道を通って自分たちの国へ帰って行った。
<マタイによる福音書2章1-12>

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本日は教会の暦では、「顕現日」となります。
顕現日を英語では Epiphany と言いますが、
エピファニーとは本来はギリシャ語で「輝き渡る」という意味です。
すなわち、今日はキリストの栄光が顕現した日だということです。
そしてこれはイザヤ書に預言されていたことの成就でもあります。

さて、本日の福音書は、「東方の3人の博士」として有名な個所です。
東方から来た「占星術の博士」たちがイエス様のご誕生を祝って、
『黄金・乳香・没薬(モツヤク)』を贈り物としてささげた」と記されています。

『三人の博士たち』と言われていますが、
本当は聖書に『三人の博士たち』とは記されていません。
ちなみに愛隣幼稚園の今年の聖劇では人手不足もあって、
たった一人の博士が奮闘してくれました。
しかし、「『黄金・乳香・没薬(モツヤク)』を贈り物としてささげた」ありますので、
おそらく三人だったのだと思います。
伝承ではカスパル、メルキオル、バルサザルという名前まで与えられております。
また、フォン・ダイクの「もうひとりの博士」という物語では、
アルタバンという博士も、聖書に登場する博士と一緒に、
イエス様の誕生をお祝に行くこととなっていました。
しかし、彼は待ち合わせの場所へ行く途中で、人助けをしていたため、
待ち合わせの時間に遅れてしまい、アルタバン一人で行くこととなります。
彼は、イエス様の為に『サファイア・ルビー・真珠』を贈り物として用意していましたが、
『サファイア』は、らくだを買ってしまい、
『ルビー』は、旅の途中で赤ちゃんを殺そうとするヘロデの兵隊に渡したため、
イエス様へのプレゼントは『真珠』だけとなってしまいます。
そして、その真珠をイエス様にささげるために大切にして
エルサレムへ向かって行きました。
そして、故郷を旅立ってから、33年後、
年老いたアルタバンはゴルゴタの丘で十字架に架かられる方こそ
救い主のイエス様と知り、
その真珠と引き換えに命を救えるのではないかという希望を持って
必死にゴルゴダに向かって急ぎました。
すると、一人の少女が奴隷に売られていく所に遭遇したため、
アルタバンは、イエス様にささげるために大切に持っていた
最後の『真珠』までも奴隷商人に渡して、
少女を自由にして救いました。
やがて、アルタバンは息が絶える時、
「わたしの兄弟であるこの最も小さな者の一人にしたのは、
わたしにしてくれたことなのです。」というイエス様の声を耳にした
というお話です。

この物語を読んで思うことは、私たちの思いを超えて、
あるいは理解できないようなことを超えて
神様のみ心に敵わせてくださるという事がきっとあるのだということです。
そして、それはきっと私たちの最後の時に、
天のお父様の御許でやっと納得のいくこと、
腑に落ちることなのではないでしょうか?

司祭 マタイ金山昭夫

春の足音

2008年02月11日 | 宇都宮聖ヨハネ教会
          
          前日から雪が降りました。
          まだまだ、寒い日が続くなぁ・・・と思っていたら、
          花壇に小さなクロッカスが花を咲かせていました。
          春がすぐそこまで近づいているんですね。

降臨節第3主日

2008年02月01日 | ショートメッセージ
ヨハネは牢の中で、キリストのなさったことを聞いた。
そこで、自分の弟子たちを送って、尋ねさせた。
「来るべき方は、あなたでしょうか。
それとも、ほかの方を待たなければなりませんか。」
イエスはお答えになった。
「行って、見聞きしていることをヨハネに伝えなさい。
目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、
重い皮膚病を患っている人は清くなり、
耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、
貧しい人は福音を告げ知らされている。
わたしにつまずかない人は幸いである。」
ヨハネの弟子たちが帰ると、イエスは群衆にヨハネについて話し始められた。
「あなたがたは、何を見に荒れ野へ行ったのか。風にそよぐ葦か。
では、何を見に行ったのか。しなやかな服を着た人か。
しなやかな服を着た人なら王宮にいる。
では、何を見に行ったのか。預言者か。そうだ。言っておく。
預言者以上の者である。
『見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、
あなたの前に道を準備させよう』と書いてあるのは、
この人のことだ。はっきり言っておく。
およそ女から生まれた者のうち、洗礼者ヨハネより偉大な者は現れなかった。
しかし、天の国で最も小さな者でも、彼よりは偉大である。
【マタイによる福音書11章2-11】



福音書をよく読むと、実は洗礼者ヨハネとイエス様が
親戚関係にあったということに気が付きます。
しかも、半年違いの同い年であったようです。
そんなことを考えると、
お互いに幼少の事からよく知り合っていた幼なじみだったのかもしれません。

本日の福音書では、ヨハネが当時のパレスチナの一部を領有していた
ヘロデ・アンティパス王の王妃との婚姻関係の不正を訴え、
王の怒りをかい、投獄されていたときのことを記しています。
獄中のヨハネはここでイエス様に
「私たちの待ち望んでいた方はあなたなのですか?」
と弟子を通じて質問させました。
すると、それに対してのイエス様の答えは、
またしてもイザヤ書のメシア預言の業を自分の行動に重ねてお示しになりました。
いわく、「貧しいものによきしらせを、目の見えない人に視力の回復を・・・」。
こうして、メシアはこうして最も貧しい人たちと共にいるという、
逆説とも思える仕方で正義を示すお方であることが、
イザヤを通してすでに宣言されていること明らかにされたのです。

これは、ルカの福音書の描くクリスマス物語があらわしているものと
全く同じモティーフです。
すなわち、「救い主は、力、権力を持って世を支配されるようなお方ではない。
救い主は、平和、ゆるし、 慈しみによって、
虐げられている人々に喜びを告げる方である」といういことです。

実は、ここでヨハネがこのような質問をしたのは、
本当にイエス様が救い主であるかが判らなかったからではないのだと思います。
自分はすべて判ったうえで、ついに、待ちに待ったお方が現れたということを、
弟子たちに、あるいは弟子たちを通して
すべての人に告げ知らせたかったのかもしれません。
そういった意味では、この洗礼者ヨハネこそ、最初にイエス様を救主、
メシアと認め、確信した人に違いありません。
イエス様の弟子たちでさえ、イエス様の復活の栄光を見るまでは、
イエス様を本当の意味での救い主として認めることはできませんでした。
しかし、このヨハネ唯一人が、
誰よりも早く救い主であるイエス様に気がついていたのではないでしょうか。

司祭 マタイ金山昭夫