ルクノス ~ともし火~

日本聖公会 北関東教区 宇都宮聖ヨハネ教会のブログです。

聖霊降臨後18主日

2010年09月26日 | ショートメッセージ
<ルカによる福音書16:19-31>

「愛という言葉の反対語は無関心」ということを思い起こします。
金持ちは、家の前にいるラザロに危害を及ぼしたわけではありません。
また、ラザロは特別な善行を積んだわけでもありません。
でも、ラザロはアブラハムの懐に招かれ
一方で金持ちは黄泉に落とされます。
人は誰でも神に招かれみ国を約束されてものですが、
他者の苦難に無関心でいる者は神のみ前に相応しくないのです。
重荷を負い合い主の十字架を担えますように。

司祭 ヨハネ小野寺達
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聖霊降臨後第17主日

2010年09月19日 | ショートメッセージ
<ルカによる福音書16:1-13>

今日の福音書日課を理解する上で、「負債」について考えておきましょう。

この言葉は、元々商取引の言葉ですが、
主イエスは神に対して償いの出来ない人の「罪」を
「負債(借金)」に譬えました。
神に対して返せない多重の「負債」をかける私たちが
自分中心の我欲から抜け出し、
他の人々に仕えることが救いに与る物としての務めであることを
主イエスは教えています。
その根底には、全く負債のない主イエスが
私たちの「負債(罪)」を肩代わりしてくださった十字架があるのです。

司祭 ヨハネ小野寺達
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聖霊降臨後16主日

2010年09月12日 | ショートメッセージ
<ルカによる福音書15:1-10>

99匹を残して、いなくなった一匹の羊を探し出す羊飼いの譬えは、
当時のパレスチナの日常生活に密着したものでした。
羊が自分のもにである限り、
何処までも何時までも見つかるまで探すのは飼い主の務めです。
譬えの羊飼いは主なる神であり、迷い出た羊は私たちです。
神は私たちが御心に立ち返るように、
何時までも何処までも私たちに呼びかけて止まないのです。
神の熱い思いに触れるとき、
私たちは悔い改めて神の愛のうちに生きる喜びへと導かれるのです。

司祭 ヨハネ小野寺達
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聖霊降臨後第15主日

2010年09月05日 | ショートメッセージ
<ルカによる福音書14:25-33>

主イエスは家族や自分の命でも
「これを憎まないなら、誰であれ、わたしの弟子ではあり得ない」と言いました。
多くの人がこの言葉を理解できず信仰に向かうことを躊躇します。
しかし、この「憎む」は感情的に嫌ったり恨んだりする意味ではありません。
当時のヘブライの言語表現を直訳したために理解しにくい表現になっているのです。
本来の意味は「イエスを基盤としないでそれに無頓着であれば、
誰もイエスの弟子ではあり得ない」ということなのです。
私たちは家族や隣人を愛することとイエスに従うことの中心が一つになり
同じ基盤に立っているかどうかを問われているのです。

司祭 ヨハネ小野寺達
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