ルクノス ~ともし火~

日本聖公会 北関東教区 宇都宮聖ヨハネ教会のブログです。

大斎前主日

2006年02月26日 | ショートメッセージ
今日の福音書(マルコによる福音書9:2-9)では、
預言者を代表するエリヤが律法を代表するモーセと共に現れて
イエスと語り合っていたとありますが、
それは、旧約聖書において、すでに神の計画のうちに置かれていた「救い」が
イエス様において成就することを表しているといえます。

聖書においては「雲」は神の臨在、顕現を表すしるしです。
その雲の中から声がする。
「これはわたしの愛する子。これに聞け」と。
神様のゴーサインです。
しかもその声は、ここでイエス様の周りにいた弟子たちに向かって発せられている。
「これはわたしの愛する子。これに聞け」と。

この主の変容の出来事を解く鍵は、本日の日課の最後のイエス様の言葉です。
「人の子が死者の中から復活するまでは、
今、見たことをだれにも話してはいけない」と言って
イエス様は弟子たちに口止めをされました。
「人の子」とはイエス様ご自身のことです。
復活するまではこの変容の出来事は、秘密にされなければならなかったのです。
なぜならば、「栄光の姿」は、あの十字架の出来事が表しているような
悲惨や苦難の前に隠されねばならなかったのです。
すなわち、変容の出来事と十字架による死と復活に
むすばれているということが出来ます。
 
これは、今までのマルコ福音書の流れから言えば、
「盲人の癒し」、「ペトロのキリスト告白」、
「主の最初の受難予告」の後に記されています。
さらに、この後には、「汚れた霊にとりつかれた子供の癒し」、
そして、二度目の受難予告がなされてゆきます。

今週主要日の「灰の水曜日」から、いよいよ大斎節(レント)の季節を迎えて、
受難の出来事を想起する季節になります。
そこで、十字架と復活の出来事が私達にとって、
どのような意味を持つのかということをこの季節に深く覚えて、
主の変容という出来事におけるイエス様の白く輝く姿とは、
私たちにとってどのような意味を持っているのかということに
思いをめぐらせたいと思います。

執事 マタイ金山昭夫 《2006.2.29 週報より》

結婚式

2006年02月25日 | 日光真光教会

今日は、お天気にも恵まれ、穏やかな陽気の中、結婚式が行われました。
おふたりは、「お互いが成長しあえる家庭にしたい」
「人生の荒波に負けないで、協力しあう家庭にしたい。」と、おっしゃっていました。
これからのふたりの歩みが、神様と共にあることをお祈り致します。末永くお幸せに♪

父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。
わたしの愛にとどまりなさい。
わたしが父の掟を守り、その愛にとどまっているように、
あなたがたも、わたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまっていることになる。
これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、
あなたがたの喜びが満たされるためである。
わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛しあいなさい。
これがわたしの掟である。  《ヨハネによる福音書 15:9-12》


クワイヤーアイノス練習開始!

2006年02月21日 | クワイヤーアイノス

宇都宮聖ヨハネ教会のクワイヤーアイノスが、
イースター礼拝へ向けて、練習を開始しました。

今回は、イースター礼拝の他に、
6月には、宇都宮第九合唱団 のコンサートに友情出演などがあり、
練習曲も盛りだくさんです。

コンサートでは、コラールが元になっている聖歌を中心に歌います。

ただいま、男声大募集中 です。
詳細は、教会までお問い合わせください。

 


顕現後第7主日

2006年02月19日 | ショートメッセージ
「あなたの罪は赦される」

 イエス様のもとにひとりの中風の患者が運び込まれた時のことが
今日の福音書(マルコによる福音書1:40-45)には描かれています。

イエス様は「子よ、あなたの罪は赦される」と言いました。
するとそばにいた律法学者たちが、
神以外に罪を赦す事は出来ないはずだとして、
イエスのこの言葉は神を冒涜するものとして非難したことに対して、
イエスはこの言葉を発したとされています。

当時のユダヤ教では、重い皮膚病や
今日取り上げられている中風など、
治り難い病にかかった人は罪人とされていました。
イエス様は、その中風の患者に対して
「あなたの罪は赦される」と言ったのです。

しかし、この部分のギリシャ語を見てみますと、
むしろ「あなたの罪は赦されている」という方が正しいようです。
いずれにせよ、彼らは病を患った上に、
罪人として迫害や排除を受けて差別されていたのです。
そして、この物語が取り上げたような差別の問題は現代も
克服されていないのではないでしょうか?

例えば、最近の1996年まで、「らい予防法」(1953年制定)は存続していました。
そこでは、患者たちの悲痛な叫びは無視され、
強制隔離政策は継承されてきたのです。
その間、元患者や家族の名誉や、尊厳は傷つけられてきたのです。

「『あなたの罪が赦される』というのと、
『起きて床を担いで歩け』というのと、どちらがやさしいか」

現代ではハンセン病は完治する病気です。
それでも差別は残っています。

イエス様はここで、どちらが難しいかと質問され、
「あなたの罪が赦される」という方のが難しいのだと答えています。
即ち差別を克服する方のが難しいのです。
ハンセン病元患者に対する差別はまだ克服されていません。
まして、治癒が困難であったこの時代の彼らの切なる願い、
それはたとえ病が癒えずとも、一人の人間として受け入れられる事ではないでしょうか。

そんな彼らにイエス様は宣言されています。
「あなたの罪は赦される」と。

執事 マタイ金山昭夫 《2006.2.19 週報より》

顕現後第6主日

2006年02月12日 | ショートメッセージ
今日の福音書(マルコによる福音書1:40-45)で描かれているのは、
重い皮膚病のゆえにいわれなき差別に苦しんでいたある人とイエス様の物語です。

彼は、イエス様に「御心(みこころ)ならば、
わたしを清くすることがおできになります。」とお願いしました。
そこでは、「癒してください」とは言わずに「清めてください」と言うところに、
彼がこれまでの間、どれほど汚れたものとして差別され、迫害されてきたか、
その苦しみがどれほどのものであったでしょうか。

私は、神学生時代に訪れた沖縄の元ハンセン病患者の療養所で
入所者の方々が語ってくれた過酷な経験を思い出すと、
胸が締め付けられる思いが致します。
彼らは、この病気によって家も財産も市民権も、
そして、故郷も家族すら失いました。何もかも失ったのです。
そして、「汚れた者」というレッテルを貼られ
誰からも忌避されるものとなってしまったのです。

イエス様は、彼を一目見るなり、
「深く憐れんで手を差し伸べてその人に触れ、
『よろしい、清くなれ』」と、言われました。

「深く憐れんで」(=スプランクニゾマイ)とは、
直訳すると「内臓が痛んで」という意味です。
ユダヤ人は、人の痛みを感じるのは内臓であると信じていました。

イエス様はこの人を見て、まさに、はらわたがよじれるほどに、
深い同情を感じました。共苦といっても良いでしょう。

当時の律法によれば、このような人に触れることはタブーであり、
そのようにする者自身も汚れたものとされました。
しかし、イエス様はそのタブーを大胆に破って手を差し伸べ、
この人に触れて、「清くなれ」と言われたのです。

ここで言う「清くされる」とは、単に見かけが綺麗になるとか、
道徳的に正しいものとされるだけではなく、
「神のものとして受け入れられる」という意味を持っています。
彼はこの瞬間、主のものとされました。
この喜びは、いかばかりだったでしょうか。

今日の福音書の語る、その喜びに私達自身も思いをはせたいものです。

執事 マタイ金山昭夫 《2006.2.12 週報より》

顕現後第5主日

2006年02月05日 | ショートメッセージ
今日の福音書(マルコによる福音書1:29-39)で描かれている、
イエス様が生きていた世界について私達の想像をめぐらせてみたいと思います。

イエス様はどのような場に身を置いておられたのでしょうか?
今日の聖書箇所はそのことを象徴的に伝えているような気が致します。

マルコによれば、この物語は、シモンの家での出来事の直後のこととされています。
多くの病人や悪霊に取り付かれた人々を癒すという激しい、
そして、厳しいお働きを終えてのちのことです。
「朝早くまだ暗いうちに、イエスは起きて、人里離れた所へ出て行き、
そこで祈っておられた」のです。
活動後の休息と祈り。よくそのように解釈されます。

しかし、わたしたちはここでいわれている「人里離れた所」に注目したいと思います。
はたしてそれはイエス様にとって休息の場であったのでしょうか。
イエス様がただ単に休息のために「人里離れた所」に出て行ったのではないことは、次の箇所からもうかがえます。
「近くのほかの町や村へ行こう。そこでもわたしは宣教する。
そのためにわたしは出て来たのである。」
はじめからほかの町や村へ行くおつもりだったのでしょう。
おそらく、イエスの生き方が一都市に留まるようなものでは
なかったからだと思われます。
どこの町や村であったところで、およそ人々が生活している「場」においては、
どこにでも見捨てられ追いやられて
生きて行かねばならない人々とその生活があるのです。
そのためにもイエス様は決して一都市に留まるわけにはいかなかったのです。

「そこでも、わたしは宣教する。そのためにわたしは出て来たのである。」
イエス様の宣教への決意に、わたしたち自身が倣うように
うながされているのではないでしょうか?

執事 マタイ金山昭夫 《2006.2.5 週報より》