ルクノス ~ともし火~

日本聖公会 北関東教区 宇都宮聖ヨハネ教会のブログです。

復活節第6主日

2015年05月10日 | ショートメッセージ
<ヨハネによる福音書 15:9-17>

イエス様が示してくださった掟を守らなくてはいけない。
その掟とは、イエス様がわたしたちを愛してくださっているように、
わたしたちも互いに愛し合うことである。
イエス様は、わたしたちを友と呼び、
わたしたちのためならば自分の命を捨ててくださる方である。
これほど、大きな愛をもってわたしたちを愛してうださっている。
神様からの大きな愛を覚えつつ、
私たちは互いに愛し合わなくてはならない。


復活前主日

2015年03月29日 | ショートメッセージ
<マルコによる福音書15:1-39>

人は死を前にして誰に何を求めて委ねるのでしょうか。
イエスは最期の苦しみを神に叫びます。
神の存在を信じ神に見捨てられた経験を神に叫ぶところに
人となったイエスの信仰が見られるのです。
私たちも神に対する不信感を覚える時にも
その思いをそのまま主なる神にぶつけて委ねる者でありたいのです。

司祭 ヨハネ小野寺達
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大斎節第4主日

2015年03月15日 | ショートメッセージ
<ヨハネによる福音書6:4-15>

イエスが人々と共に食事をすることは、大勢の人に単なる満腹ではなく、
満足を与えたことでしょう。
僅かなパンと魚で大勢の人が養われてたこの物語は
どの福音書にも載っています。
この食事は、イエスの群衆に対する配慮と
少年が持参していた僅かなパンと魚が
差し出されたことによって成り立っています。
やがてこれが教会の働きの原型になっていくと言っても過言ではありません。
わたしたちの小さな力を誰かが差し出すことによって、
主イエスの配慮は大きな奇跡へと展開するのです。

司祭 ヨハネ小野寺達
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大斎節第3主日

2015年03月08日 | ショートメッセージ
<ヨハネによる福音書2:13-22>

主イエスはエルサレム神殿で両替商や生け贄の動物を売る者を追い出しましたが、
これは「宮清め」と呼ばれています。
旧約聖書ゼカリヤ書の最後の言葉との関連で言えば、
この「宮清め」は主イエスを通して
神の御心が実現している事を示す出来事であり、
イエスの言行の激しさにだけ注目すべき記事ではないのです。
旧約聖書に予言されていたことがイエスによってこのように成就し、
神の御心は当時のユダヤ教の体系を乗り越えて実現していることを
今日の福音書は伝えているのです。

司祭 ヨハネ小野寺達
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大斎節第2主日

2015年03月01日 | ショートメッセージ
<創世記22:1-14>

今日の旧約聖書日課は、「主の山に備えあり」という成句のある箇所です。
アブラハムがイサクを献げるように神から命じられ、
その言葉に従うアブラハムに生け贄の羊は用意されていました。
アブラハムの物語の始まりは、
行く先も告げられずにカルデアのウルから旅立つようにという神からの指示でした。
信仰とは人には予測できない未来を神の御手に委ねるほかありませんが、
そのように歩む者に神は祝福を約束してくださっています。

司祭 ヨハネ小野寺達
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大斎節第1主日

2015年02月22日 | ショートメッセージ
<マルコによる福音書1:9-13>

イエスは公生涯の始めに四十日間荒れ野で過ごし悪魔の誘惑を受けました。
マルコ福音書は、イエスは
「野獣と一緒におられたが、天使たちが仕えていた」言っています。
「野の獣と一緒」とは
イザヤ書等に記された天の国のイメージであるとも考えられます。
そうであれば、イエスの宣教の始まりに
既に天の国の到来が示唆されていることになります。
わたしたちが大斎節を過ごすこともただの修業としてではなく、
そこに主イエスが共におられ、復活の主に生かされる意味が明らかにされるための
導きとして過ごすことを心に留めたいと思います。

司祭 ヨハネ小野寺達
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大斎節前主日

2015年02月15日 | ショートメッセージ
<マルコによる福音書9:2-9>

大斎節前主日には、毎年イエスの変容貌の物語を読んでいます。
この出来事は、イエスがガリラヤからエルサレムの十字架へと向かう
転換点に位置づけられています。
多くの人はガリラヤで奇跡や癒しの働きを見て
教えを説くイエスを誤解して期待を寄せますが、
その多くの人々はエルサレムに向かうイエスから離れていきます。
わたしたちはイエスの何に、どこにイエスの「輝き」を見るのでしょう。
各自が「十字架を負う」という事の内実をしっかりと見つめましょう。

司祭 ヨハネ小野寺達
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顕現後第5主日

2015年02月08日 | ショートメッセージ
<マルコによる福音書1:29-35>

イエスは大勢の人々を癒し、
またその一方で人里離れたところで独りで祈っておられます。
この二つは信仰に生きる人に必要な車の両輪のことと言えます。
祈りのない人々の交わりは、その場の雰囲気や勢いで流されたり
表面的な出来事になりやすいものです。
神の深く対話すす者は他者の痛みについても深く理解する者となり、
他者との関わりもより深く豊かになることでしょう。
わたしたちも一人深く神と対話することと
人々との交わることの双方を大切にすることができますように。

司祭 ヨハネ小野寺達
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聖霊降臨後第4主日

2015年02月01日 | ショートメッセージ
<マルコによる福音書1:21-28>

「悪霊を追い出す」という言葉は現代人には
うさん臭く聞こえるかもしれません。
でもその当時の人々は、自分を超える大きな力が存在し
その力が人を悪へと引き込むと考え、
その悪の力を「悪霊」ち呼んだのです。
そう考えると、それはうさん臭い話ではなく
まさに私たちの問題であることに気づきます。
イエスは徹底した愛を示し、わたしたちをあらゆる囚われと
その恐れから解放してくださいました。

司祭 ヨハネ小野寺達
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聖霊降臨後第3主日

2015年01月25日 | ショートメッセージ
<マルコによる福音書1:14-20>

マルコによる福音書は、イエスが二組の漁師兄弟を弟子にした話を淡々と語ります。
本人や家族の心情などを語れば深い思いもあったことでしょう。
それでも、イエスが召し出し弟子になる者たちがそれに応じたという
大切な一点を外すことなく際立たせて福音記者はこの話をしるしているのです。
わたしたちの信仰の応答もそうです。
「イエスに招かれわたしたちはそれに従う」という
信仰の基本を今日の福音書から確認しましょう。

司祭 ヨハネ小野寺達
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