ルクノス ~ともし火~

日本聖公会 北関東教区 宇都宮聖ヨハネ教会のブログです。

復活節 第7・昇天後主日

2006年05月28日 | ショートメッセージ
今日のテキスト(ヨハネによる福音書 17:11C-19)は、
ヨハネによる福音書のイエスの決別説教と言われる部分の一節です。
共観福音書ではユダヤ教過越祭の金曜日に
イエスが十字架につけられて死に、
三日目の日曜日の朝早くに、復活、十字架から四十日後、天に昇られ、
それから十日後に聖霊降臨があって、
最初の教会が生まれた、という理解なのですが、
ヨハネにおいては、十字架、復活、昇天、聖霊降臨が同時になされた、
という理解に立っています。

たとえば、今日のテキストの少し前に17章4節には、
「わたしは、行うようにとあなたが与えてくださった業を成し遂げて、
地上であなたの栄光を現しました。」とあるのですが、
この「行うようにとあなたが与えてくださった」というのは、
日本語としてとても、分かりにくいと思います。

他の訳をみてみると、柳生直行先生の私訳では、
「わたしは、あなたに命じられた任務を果たすことによって、
地上にあなたの栄光を輝かせました。」とあります。
この訳のほうがわかりやすいと思います。

さらに、釜々崎で日雇い労働者の方々と働き、
「共生」とでも言うべき生活の中から聖書を訳された本田哲郎神父の訳は、
もっとわかりやすく書かれています。
「わたしはこの地上で、あなたがわたしに任ねた生き方を行きぬいて、
あなたを輝かし出しました。」

これは、ヨハネによる福音書の文脈では、
イエスが十字架にかけられる前になっていますが、
内容的には、イエスが神の民の本来の使命である
「世界の祝福の源」として、差別されている人々の側に立ち、
愛は何かをその生き方によって明らかにされ、
十字架で死ぬことによって、
神の栄光を輝かし出したということを意味しています。
すなわち、ヨハネによる福音書のテーマは、
イエスが、人となられた神ご自身である、
ということを強調することにあると言えます。

執事 マタイ金山昭夫 《2006.5.28週報より》

結婚式

2006年05月27日 | 宇都宮聖ヨハネ教会

わたしはあなたを妻とします。
今から後、幸いなときも災いのときも、
豊かなときも貧しいときも、
健康なときも病気のときも、
あなたを愛し、あなたを敬い、あなたに仕え、
あなたとともに生涯を送ります。
今、これを約束します。
<日本聖公会 結婚式 式文より>


宇都宮聖ヨハネ教会で結婚式がありました。
新婦は、教会に付属する愛隣幼稚園の卒園生です。

金山執事は、
「愛は、無償である。
『あなたという存在が大切である』という気持ちを忘れないでください。」
と、ふたりに語られました。

末永くお幸せに♪


献堂式

2006年05月23日 | クワイヤーアイノス

アイノスのO先生が指導されている佐野の合唱団の方との縁で、
5月20日、佐野にある教会の献堂式で歌わせていただくことが出来ました。
この喜ばしい記念する日に歌わせていただくことが出来て嬉しかったです。

復活節 第6主日

2006年05月22日 | ショートメッセージ
本日は、W兄の洗礼式を迎えることができましたことを感謝します。

本日の福音書(ヨハネによる福音書 15:9-17)は、
結婚式・聖婚式で読まれることの多い箇所で、
私たちに「互いに愛し合いなさい」というイエス様の教えが記されています。

ここで、イエス様がおっしゃっている「愛」とは、
アガペーであって、男女の「愛」エロースと異なりますが、
たとえ、男女の間の「愛」であっても、
ただ楽しい、心地よいだけの甘いものではないことは、当然のことと思います。

たとえば、インドのネール首相が「愛は平和ではない、戦いである」と
娘への手紙に書いているように、
「愛」するということは、生やさしいものではありません。
まして、神が人を愛するように、人間の間で愛すること、
関係の「愛」であるアガペーをお互いに生きることは、
なおのこと難しいと思います。

翻って、洗礼を神様との関係に入るためのものとみるならば、
私たちは、まさにこの厳しい「愛」を「互いのうちに生きなさい」
と言われているような気がいたします。
そして、今日、W兄とそれをお迎え入れる私たちすべてが、
主から「互いに愛し合う」ことを求められておられることをおぼえたいと思います。
執事 マタイ金山昭夫 《2006.5.21週報より》

チャリティーコンサート

2006年05月16日 | クワイヤーアイノス
宇都宮聖ヨハネ教会にて、
宇都宮第九合唱団によるチャリティーコンサートが行われます。

このコンサートの収益金は、フランシスコ会海外宣教事務局を通して
貧困とエイズに苦しむ南アフリカの人々のために寄付されます。
また、友情出演で『クワイヤーアイノス』も参加します。
みなさまのご支援とご協力をよろしくお願いします。

宇都宮第九合唱団 チャリティーコンサート
~貧困とエイズに苦しむ南アフリカの人々のために~
《ハーモニーコンサート Vol.5》

2006年6月3日(土)18:30開演(18:00開場)
会場 : 日本聖公会 宇都宮聖ヨハネ教会
チケット : 1,000円(全席自由) 

♪演奏曲目
W.A モーツァルト
キリエ/グローリア/クレド 「戴冠ミサ」より
サンクタマリア・マーテルデイ 他

♪演奏
弦楽:アンサンブル・シュタイン・キルヒェ
合唱:宇都宮聖ヨハネ教会 クワイヤーアイノス
   宇都宮第九合唱団 他

主催 宇都宮第九合唱団
協賛 宇都宮聖ヨハネ教会
問い合わせ 宇都宮第九合唱団事務局 028-639-3883

チャリティーコンサートについて

2006年05月16日 | クワイヤーアイノス
*根本昭雄神父と貧困とエイズに苦しむ南アフリカの人々

2006年4月24日、東京・六本木にあるカトリック・フランシスコ修道会にて、
今回のコンサートのチャリティー先でもある
南アフリカのエイズホスピスでお働きになっていた
根本昭雄神父にお会いすることが出来ました。 
南アフリカのエイズ(患者)のことや新しい赴任先であるロシアの現状など、
写真を交えてたくさんのお話しをしてくださいました。

根本昭雄神父は、宇都宮市出身です。
群馬県草津のハンセン病病院で6年間勤めた後のお別れ会の時、
「神父さんは私たちと一緒に1回もお風呂に入らなかった」と言われた言葉に
「自分だけが打ち解けたつもりだった」ことに気付かされました。
また、この言葉が根本神父をエイズのための働きへと向かわせる
きっかけとなりました。
「自分にとってそれは大変痛い言葉でしたが『その言葉』に気付かされました。
それを言ってくださった方にほんとうに感謝し、その言葉を大切にしています。」
と、根本神父はおっしゃっていました。

根本神父はその後、アフリカに渡りエイズの人々の
貧しさと苦しみの中へ歩み出されます。
病床70ほどの施設に毎日400人ほどのエイズ患者が運ばれ、
薬を与えても注射をしても助からずに、次々と亡くなっていきます。
そのなかには母子感染の子どもたちもたくさんいます。
今は、国が薬を何とか無料で配布する努力を続けていますが、
爆発的な患者の数に、いつまで無料配布か続けられるか
関係者は頭を抱えています。

また、国が認定しているHIV患者以外にもたくさん救いを求めている人がいます。
物質的供給(薬、施設、人)は、追いつかず、
薬は援助を受けても受けても足りず、
貧困の中での教育の遅れは、ますます病気を広げていきます。

このような絶望的な状況の中で、
根本神父は「なぜ、こんなに心のきれいな人々が
こんな目に遭わなくてはいけないのだろうか。
神さまは何をお望みなのだろうか。
わたしたちはこの人たちに何を与えられるのだろうか。」
と、問いかけ、祈り続けたそうです。

そんな時、米国で同じ病気の人同士が
E-メールを通じてやりとりしているところを見掛け、
根本神父は、「これだ!」と、思ったそうです。
治らない病気の人にとって必要なこと、
薬よりも『心』に対してのケアが必要だということを。

同じ病気(HIV感染者)の人同士が励ましあい、
HIVのキャリアのスタッフがHIVの患者の世話をする。
同じ痛みや苦しみを担うものどうしが、
彼らにしかわからない痛みや苦しみをともに分かち合い励まし合う・・・。
「同じエイズに苦しむ人々との心と心の触れ合い、
そこから生まれる連帯と慰め、それが今、何より必要なのではないか」と。

本当にエイズの苦しみを理解できるのは
同じエイズの苦しみを負っている人々です。
患者同士が、触れ合って、支えあい、励ましあい、人々がつながっていく。
そして、またエイズキャリアの人々の中からも
医師やスタッフが育つことを根本神父は望んでいます。
エイズの痛みを最もよくわかっているスタッフが存在すれば、
患者にとって大きな慰めになるのではないかと考えているからです。

また、それと同時に大切なことは、子供や若い人々に
「いのちの教育」を行っていくことです。
それが成されなければ、エイズはものすごい勢いで増え続けてしまう一方です。

また、このような悲惨な状況を生んだ背景・・・大国による植民地支配、
現地の部族間の闘争、アパルトヘイトによる差別、
それによる貧富の差、貧困層の教育の遅れなどの歴史など、
アフリカにエイズが蔓延した数々の原因にも
私たちは目を向けなければならないと根本神父はおっしゃいます。

今、根本神父はさらにアフリカと深く関わるためにアフリカを離れロシアに渡り、
その活動を国や地域を超えて広げていこうとなさっています。
たくさんの苦しみや悲しみの現実のなかでいのちを見つめながら、
根本神父は光のように美しい言葉を語ってくださいました。

「さまざまな困難な状況の中で、危険と隣り合わせの時、
逃げ出したいという気持ちも起こります。
もう絶対にだめだということも何回も起こりました。
でも不思議な力があたえられる、道が開かれるといったことがあるのです。
私たちは夢を持つべきだし、夢を貫くべきです。
正しい道であれば、神さまは必ずそのドアを開いてくださるのです。」

厳しい凛とした表情のその瞳の奥に、少年のような輝きを放ちながら、
いきいきと夢を語る根本神父を目の前にして、私たちは心が熱くなりました。

私たちは、根本神父のようには働けない小さな者です。
でも、なにか自分に出来ることを見つけて、どんなに小さなことでも、
すぐ隣りの「あなた」と手を取り合って、
「あなた」がまた「あなた」とつながって、
小さな働きが「わたし」と「あなた」が
鎖のように、ひとつひとつ、つながっていけたらいいなと思います。

最後に根本神父は、私たちのチャリティーコンサートのために、
そしてその活動が神さまに用いられますように、とお祈りくださいました。
私たち『宇都宮第九合唱団』と『クワイヤーアイノス』の
小さな「わたし」と「あなた」の1歩。
それは、6月のチャリティーコンサートです。
エイズ撲滅の活動と、患者さんたちのために募金を行います。
私たちは歌うことで、南アフリカだけでなく、
全世界に同じように苦しんでいる兄弟姉妹がいることを
たくさんの方に伝えることが出来たら良いな・・・と、思います。
                        【文責:Yoko.O Tomoko.S】


■募金をしてくださる方は■
詳細は、フランシスコ会海外宣教事務局(TEL03-3403-8088)。
支援先は、郵便振替00100-2-109446「フランシスコ会海外宣教事務局」まで。
通信欄に「南アフリカ援助(根本神父)」と明記のこと。

新緑の季節

2006年05月16日 | 日光真光教会
日光真光教会のまわりの新緑が美しい季節となりました。



教会の入り口の敷石のまわりには、ヘビイチゴの黄色の可愛い花が咲いていました。
そして、西側の花壇にはスズランが咲き揃い、近寄るとスズランのやさしい香りがします。もうすぐ、つつじも満開です。


復活節 第5主日

2006年05月14日 | ショートメッセージ
本日の聖書箇所(ヨハネによる福音書 14:15-21)で
聖霊は弁護者だと言われています。
弁護者はギリシャ語では『パラクレート』といい、
元来は法廷での弁護人を表す言葉であったとされています。
そして、16節には『父は別の弁護者を遣わして』と書かれています。
『別の弁護者』という言い方をしていますから、
イエス様ご自身も、ひとりの弁護者であるような表現となっています。
すなわち、イエス様は弟子たちにとって、まさに弁護者であったのです。

福音書を読み続けて来ると気が付くように、
弟子たちは何か困った事がある度に、イエス様に助けを求めています。
そのようにイエス様を頼りきって、弟子たちにイエス様は、
『わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない。』(18節)と
言われました。
『みなしごにはしない』ではなく、
『しておかない』といわれたことに注目してみたいと思います。
つまり、弟子たちが一旦はみなしごのような状態になるということを言いながら、
そのままにはしておかないといっておられます。
実際、イエス様は二度弟子たちの前から去って行かれました。
それは、十字架の死と昇天の時です。
昇天の時には、去られる前に、弟子たちに
『あなたながたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。』
〈使途言行録1:8〉と言われています。

また、本日の箇所には
『弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、
あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことを
ことごとく思い起こさせてくださる。』
〈ヨハネによる福音書 14:26〉と言っておられます。

そのような、悲しみの時、まるでみなしごのようにされたかのような時に、
神様は聖霊を遣わして私達を導き護ってくださるのです。

執事 マタイ金山昭夫 《2006.5.14週報より》

復活節 第4主日

2006年05月07日 | ショートメッセージ
本日の福音書(ヨハネによる福音書10:11-16)の
「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。」という言葉は
イエス様がご自身についてのべられておられるとても有名な箇所です。
ここでは、イエス様は五字分を「羊飼い」にたとえておられますが、
この「羊」という動物や「羊飼い」という存在は日本人にとっては
あまり馴染みがないものです。

動物学者によれば、羊という動物は自分自身に敵に対する武器を、
いわゆる攻撃だけでなく、防御をするための堅い体やにげるためのスピードを含めて、
何ひとつそれらしい能力を持っていないのだそうです。
そこで、そのような弱いものがお互いに助け合うためには、
群れを作って羊飼いの守ってもらうしかないので、
そうした習性があるのだそうです。
ですから、羊の群れにとって「良い羊飼い」という存在は
生きていく上で必要不可欠なものなのです。
だからこそ、羊は羊飼いの声を聞き分けることが出来るし、
羊飼いの方も多く羊がいても、
その一匹一匹にそれぞれ名前をつけて区別が出来るのです。

イエス様はそのような「羊」に私たちの譬(たと)え、
また、「羊飼い」にご自身を譬えられました。
また、聖書によれば、生きていく上で確かな希望を見失ってさまよう人々を
「飼う者のいない羊」のようだと表しています。
そうした「羊」のような私達に向かって、イエス様が「私は良い羊飼い」と言われ、
「良い羊飼いは羊のために命を捨てる」と、までおっしゃってくださったのです。
だからこそ、イエス・キリストのあの十字架が
「飼う者のいない羊」のような私達を救いの道に至らせ、
永遠の命に生かすための御業(みわざ)だったということが
できるのではないでしょうか。

執事 マタイ金山 昭夫 《2006.5.7週報より》