ルクノス ~ともし火~

日本聖公会 北関東教区 宇都宮聖ヨハネ教会のブログです。

春の教会

2006年03月27日 | 宇都宮聖ヨハネ教会
今日は、《講壇交換》と言って、いつも他教会で奉仕されている司祭様がいらっしゃって司式してくださいました。
今年は、水戸ステパノ教会の斎藤英樹司祭がいっらっしゃいました。
午前中は、宇都宮の聖ヨハネ教会で、午後は、日光真光教会です。



この季節、春を待ちわびていた花々が、一斉に咲き始める季節です。
教会の前の公園にも、ふっくらとした白木蓮が満開です。
教会の花壇には、パンジーが咲いていました。

大斎節 第4主日

2006年03月26日 | ショートメッセージ
本日の福音書(ヨハネによる福音書 6:4-23)は、
ひとりの少年が奉げたわずかなパンと魚をイエス様が感謝して多くの人に分け与え、
そのわずかな糧が5,000人を満たして余りがあったという、
いわゆる5,000人の給食という全ての福音書に描かれている奇跡の物語です。

「この人たちに食べさせるには、どこでパンを買えば良いだろうか」
というイエス様の問いかけに、
弟子の一人であるフィリポは、
「めいめいが少しずつ食べるためにも、
200デナリオン分のパンでは足りないでしょう」と答えました。
同じように別の弟子であるアンデレは、
「ここに大麦のパン5つと魚2匹とを持っている少年がいます。
けれどもこんなに大勢の人では、何の役にも立たないでしょう。」
と、言っています。

この二人の弟子の答えは、いずれにしても
「こんなに多くの人を食べさせるのは無理です。」という
否定的な意味を表していると言えます。
しかし、イエス様は、今、ここに与えられたわずかなものによって
大勢の人々を養われ、なお多くの余りが出ました。
これらの食物は、一人の少年が奉げたものです。
二人の弟子たちが「無理です。」と言ったのに対し、
少年は、自分がもっているわずかな食物をすべての人と分かち合うために差し出し、
それをイエス様は、受け入れられ祝福されたのです。

私たち一人一人にも、それぞれ差し出すべき賜物が神様から与えられています。
イエス様が少年を通して食物を分け与えられたように、
神様は私たちをもお使いになるのではないでしょうか。
誇るべきものなどを持たない小さい私たちであっても、
それぞれの賜物を自分自身の中に見出してお奉げする。
これこそが、私たち自身が神様のお働きに参与するということなのだと思います。

執事 マタイ金山昭夫 《2006.3.26 週報より》

大斎節 第2主日

2006年03月12日 | ショートメッセージ
大斎節はイエス様の受難と十字架を黙想する季節です。

本日の福音書(マルコによる福音書8:31-38)では、
イエス様に従いたいものは自分の十字架を背負ってくることが求められています。
ここで言う、イエス様に従うということはどのようなことなのでしょうか。

先主日の福音書ではイエスの荒れ野の誘惑が語られてました。
マタイやルカを見ると誘惑の内容が細かに記されていますが、
マルコではそっけないくらい簡潔に
「サタンから誘惑を受けられた」と書かれているだけです。 
そこで、マルコが言いたかったことは、サタンの誘惑は荒野だけでなく
イエスの生涯のいたるところでイエスを待ち構えていたということではないでしょうか。

イエスが苦しみと死、そして復活について語り始めると、
ペトロはイエスを制してそれをいさめています。
そこでイエス様は彼を叱り付け、「サタン引き下がれ」といわれました。
このペトロの行動もそうしたサタンの誘惑のひとつとして描かれています。

ここで注目したいことは、ペトロは弟子たちの思いを代表して行動したのであり、
しかもイエス様のこの言葉は「弟子たちのほうを見ながら」語られているという点です。
イエス様がペトロだけでなく弟子全体にこの言葉を投げかけていることがわかります。
すなわち、私達はサタンの誘惑を受けているだけではなく、
自分自身が人を惑わすサタンになりかねないということを
表しているのではないでしょうか。

執事 マタイ金山昭夫 《2006.3.12 週報より》

大斎節 第1主日

2006年03月05日 | ショートメッセージ
「あなた方は世の光である。山の上にある町は、隠れることが出来ない。」
(マタイによる福音書5:14)

来週、M兄の堅信式を迎えます。
そこで、大斎節を迎えて、私達も今一度、
クリスチャンとしての「召し」ということの意味について考えてみたいと思います。

かつての英国教会において、大きな神学的指標を与えた論文集の名前が
ラテン語で「ルックス ムンディ=世の光」という題名でありました。
そして、その名には聖公会の目指す進学が求めるキリスト者の在り様の一端が
表されているように思われます。

私達クリスチャンは、神との関係においては神の子です。
だから、祈る時は、神様を「天の父」と呼びます。
神様は私達を神の子として取り扱ってくださいます。
そして、私達クリスチャンをこの世との関係では、世の光、地の塩です。
この世の人にとって、私達は「地の塩、世の光」」に見えるはずなのです。
「地の塩、世の光になれ」との命令ではなく、
「地の塩、世の光になる」という約束でもなく、
「あなた方は地の塩である。世の光である」という事実を
イエス様は私たちにお語りになりました。
私達が地の塩、世の光であること、これは驚くべきことであると同時に、信ずべき事でもあります。
そして神様は、私達が地の塩、世の光であることを信じて、
地の塩として、世の光として、生きていくことを望んでおられるのではないでしょうか。
そして、洗礼・堅信という神様からの召しに与るということは、
私達が「地の塩、世の光」であるということの証に他なりません。

大斎節のはじめにあたり、私達自身の「召命」を証しするために、
日々の信仰生活を送るべきであることを覚えたいと思います。

執事 マタイ金山昭夫 《2006.3.5 週報より》