ルクノス ~ともし火~

日本聖公会 北関東教区 宇都宮聖ヨハネ教会のブログです。

復活節第6主日

2008年04月27日 | ショートメッセージ
<ヨハネによる福音書 15:1-8>

主イエスはご自身をブドウの木にたとえ、
「わたしは真のブドウの木、あなたがたはその枝である。」と言いました。
イエスの死の後、半世紀が過ぎると、
キリスト者はユダヤ教の諸教会から追放され、ローマからの弾圧も加わりました。

今日の福音書は、多くの苦難の中でも、
いや、苦難の中でこそ、イエスを救い主と仰ぎ、
そのお方としっかりつながって信仰の実を結ぶように促しています。

司祭 ヨハネ小野寺達

大斎節第3主日

2008年04月21日 | ショートメッセージ
それで、ヤコブがその子ヨセフに与えた土地の近くにある、
シカルというサマリアの町に来られた。
そこにはヤコブの井戸があった。
イエスは旅に疲れて、そのまま井戸のそばに座っておられた。
正午ごろのことである。サマリアの女が水をくみに来た。
イエスは、「水を飲ませてください」と言われた。
弟子たちは食べ物を買うために町に行っていた。
すると、サマリアの女は、
「ユダヤ人のあなたがサマリアの女のわたしに、
どうして水を飲ませてほしいと頼むのですか」と言った。
ユダヤ人はサマリア人とは交際しないからである。
イエスは答えて言われた。
「もしあなたが、神の賜物を知っており、
また、『水を飲ませてください』と言ったのがだれであるか知っていたならば、
あなたの方からその人に頼み、
その人はあなたに生きた水を与えたことであろう。」
女は言った。
「主よ、あなたはくむ物をお持ちでないし、井戸は深いのです。
どこからその生きた水を手にお入れになるのですか。
あなたは、わたしたちの父ヤコブよりも偉いのですか。
ヤコブがこの井戸をわたしたちに与え、彼自身も、その子供や家畜も、
この井戸から水を飲んだのです。」
イエスは答えて言われた。
「この水を飲む者はだれでもまた渇く。
しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。
わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」
女は言った。
「主よ、渇くことがないように、また、ここにくみに来なくてもいいように、
その水をください。」
イエスが、「行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい」と言われると、
女は答えて、「わたしには夫はいません」と言った。
イエスは言われた。
「『夫はいません』とは、まさにそのとおりだ。
あなたには五人の夫がいたが、今連れ添っているのは夫ではない。
あなたは、ありのままを言ったわけだ。」
女は言った。
「主よ、あなたは預言者だとお見受けします。
わたしどもの先祖はこの山で礼拝しましたが、
あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムにあると言っています。」
イエスは言われた。
「婦人よ、わたしを信じなさい。
あなたがたが、この山でもエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る。
あなたがたは知らないものを礼拝しているが、
わたしたちは知っているものを礼拝している。
救いはユダヤ人から来るからだ。
しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。
今がその時である。
なぜなら、父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ。
神は霊である。
だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない。」
女が言った。
「わたしは、キリストと呼ばれるメシアが来られることは知っています。
その方が来られるとき、わたしたちに一切のことを知らせてくださいます。」
イエスは言われた。「それは、あなたと話をしているこのわたしである。」

さて、その町の多くのサマリア人は、
「この方が、わたしの行ったことをすべて言い当てました」
と証言した女の言葉によって、イエスを信じた。
そこで、このサマリア人たちはイエスのもとにやって来て、
自分たちのところにとどまるようにと頼んだ。
イエスは、二日間そこに滞在された。
そして、更に多くの人々が、イエスの言葉を聞いて信じた。
彼らは女に言った。
「わたしたちが信じるのは、もうあなたが話してくれたからではない。
わたしたちは自分で聞いて、
この方が本当に世の救い主であると分かったからです。」
(ヨハネによる福音書4:5-26、39-42)

*

今日の福音書では、「神の声を聴くように」と、
イエス様は、私たちに呼びかけています。イエス様の旅は、無一物でした。
イスラエルの夏は、「喉は激しく渇き、乾燥は厳しく、水に乏しい。」
そんな中、イエス様は歩き疲れ、やっとたどり着いた井戸の壁にもたれて、
渇いた喉を潤す水を飲もうとしましたが、深くて水を汲むことができません。
彼は、ため息をついたことでしょう。
そこへ、サマリアの女が水を汲みにやって来ました。
彼は、すがるように水を飲ませてくれと女に頼みました。
女は、「何故、あなた方ユダヤ人が忌み嫌うサマリヤ人の私に頼むのか」
と訝りました。
しかし、その時、イエス様の周りには、
彼女しか水をくれるように頼む人はいなかったのです。

もし、イエス様が人種、民族、宗教、性差、階級を超えて
関わって行けたひとつの理由は、
イエス様ご自身も貧しさのうちにあったからだということもあるのだと思います。
無論、イエス様には、神様がすべてを備えてくださるという
全き信頼がそうさせたのです。
他方、ユダヤ人たちは、頼るもの、律法や神殿、律法学者や祭司などの名誉など、
多くのものを持ちすぎて、むしろ、それを守るためにサマリヤ人、
そして、羊飼いや「地の民」と呼ばれる律法を守れない人々をも
差別していたのです。
翻ってみれば、私たちも人との関わりにおいて、自己に頼りすぎて、
他者を差別化し、優位に立とうとしているのではないでしょうか。
時に、名誉を含む所有物は、私たちを保守的・閉鎖的にするのかもしれません。
この大斎の季節に、私たちは、多くの人と関われるよう、
あえて所有することをやめて、「貧しく、小さい者」となりたいと思います。
司祭 マタイ金山昭夫

大斎節第2主日

2008年04月21日 | ショートメッセージ
さて、ファリサイ派に属する、ニコデモという人がいた。
ユダヤ人たちの議員であった。
ある夜、イエスのもとに来て言った。
「ラビ、わたしどもは、
あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。
神が共におられるのでなければ、あなたのなさるようなしるしを、
だれも行うことはできないからです。」
イエスは答えて言われた。
「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、
神の国を見ることはできない。」
ニコデモは言った。
「年をとった者が、どうして生まれることができましょう。
もう一度母親の胎内に入って生まれることができるでしょうか。」
イエスはお答えになった。
「はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ、
神の国に入ることはできない。
肉から生まれたものは肉である。霊から生まれたものは霊である。
『あなたがたは新たに生まれねばならない』とあなたに言ったことに、
驚いてはならない。
風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、
それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。
霊から生まれた者も皆そのとおりである。」
するとニコデモは、「どうして、そんなことがありえましょうか」と言った。
イエスは答えて言われた。
「あなたはイスラエルの教師でありながら、こんなことが分からないのか。
はっきり言っておく。わたしたちは知っていることを語り、
見たことを証ししているのに、
あなたがたはわたしたちの証しを受け入れない。
わたしが地上のことを話しても信じないとすれば、
天上のことを話したところで、どうして信じるだろう。
天から降って来た者、すなわち人の子のほかには、天に上った者はだれもいない。
そして、モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。
それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである。
神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。
独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。
神が御子を世に遣わされたおは、世を裁くためではなく、
御子によって世が救われるためである。
(ヨハネによる福音書3:1-17)

*

今日の福音書の中心的テーマは、
「どうしたら永遠の命を得ることができるか」という
ニコデモの質問にイエス様が答えられた箇所です。

彼は、イエス様に「新しく生まれる」、
つまり、もう一度新しくやり直さなければ、
あなたは天国には入れないと言われてしまい混乱し、途方に暮れています。
これは、最初にニコデモの期待した答えとはまったく違っていたでしょう。
彼が求めていたのは、今の自分に足りない「教え」であり、
今の自分のキャリアが何かプラス・アルファーするものを望んでいたのです。
そんな今の自分の延長での救いを考えていたニコデモは、
「今のあなたでは、全く駄目だ、もう一度、やり直す必要がある。」と、
言われてしまいます。
これは、ニコデモにすれば大変なことです。
これまで彼は、一所懸命に努力して、熱心に律法を守ってきたのです。ところが、これまでの律法への努力も信仰の熱心も、みな無意味だ、
救いには訳に立たないと、あっさり切り捨てられてしまったのです。
それは、律法と信仰への忠実さだけでなく、
彼がこれまで築いてきた「ファリサイ派で議員」という地位と名誉をも
否定することでした。
これまで、ニコデモはどれほど努力し、苦労したことでしょうか。
やっとつかみ取ったのが、今の地位であり名誉でした。
しかし、主は、彼に、もう一度やり直さなければ駄目だといいます。
「あなたが今持っているものでは、あなたを救うことはできない、
それが、あなたを天国に入れるわけではない。」と。

これは、ニコデモにとっては、まさに自分の生き方の全否定でありました。
また、当時の常識を覆すものでもあったでしょう。
ここでは、彼は、イエス様のことを理解できずに途方に暮れます。
しかし、決して理解したくないわけではなかった。
だからこそ、夜目を忍んで、危険を冒してまで、イエス様に会いに来たのです。
そして、主もその真剣さに応えて、真理を説かれたのです。
だから、後にニコデモは、
その意味を理解するようになったのではないでしょうか。
それが、十字架の出来事の後の彼の行き方に
はっきりと表れているのだと思います。
司祭 マタイ 金山昭夫

大斎節第1主日

2008年04月21日 | ショートメッセージ
さて、イエスは悪魔から誘惑を受けるため、
“霊”に導かれて荒れ野に行かれた。
そして四十日間、昼も夜も断食した後、空腹を覚えられた。
すると、誘惑する者が来て、イエスに言った。
「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ。」
イエスはお答えになった。
「『人はパンだけで生きるものではない。
神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』と書いてある。」
次に、悪魔はイエスを聖なる都に連れて行き、
神殿の屋根の端に立たせて、言った。
「神の子なら、飛び降りたらどうだ。
『神があなたのために天使たちに命じると、
あなたの足が石に打ち当たることのないように、
天使たちは手であなたを支える』と書いてある。」
イエスは、「『あなたの神である主を試してはならない』とも書いてある」
と言われた。
更に、悪魔はイエスを非常に高い山に連れて行き、
世のすべての国々とその繁栄ぶりを見せて、
「もし、ひれ伏してわたしを拝むなら、これをみんな与えよう」と言った。
すると、イエスは言われた。
「退け、サタン。
『あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ』と書いてある。」
そこで、悪魔は離れ去った。
すると、天使たちが来てイエスに仕えた。
(マタイによる福音書 4:1-11)

*

イエス様は、荒れ野で40日間断食をし、
激しい飢えの中で悪魔の試みを受けられた、と福音書は語っています。
研究者によれば、この荒れ野とは、「死海」のほとりで、
あの死海文書で有名なクムランの近辺だったと言われています。
その場所は、今でも緑がほとんどなく、
ごろごろとした岩や砂漠が広がる荒涼とした土地が広がっています。
イエス様は、ここで40日間もの間、昼間は灼熱の太陽に焼かれた、
ひからびた大地に座り、瞑想し、夜は、狼の遠吠えが聞こえる、
冷え切った大地に身を横たえおられました。
長期間の断食により体力は衰え、過酷にまで、厳しい大地の上で、
生死の境をさまよいながら、
自己の無力感や小ささや弱さに打ちひしがれていたことでしょう。
そして、大地に横たわりながら、この大地と自分、
つまり、神の創造と土から造られた、ご自身の「身」(創世記2:7)のことを
思っておられたのではないでしょうか。

すなわち、人間は自分ひとりで生きている、などとおもいあがっていても、
食物を断たれ、水もなければ数日しか生きられない存在であるということです。
土から造られ、土から生え出てくるものを食している人間とは、
いったい何者なのでしょうか。

私たちは、毎日の生活の中で、
本当は、ほんの世界の一部でしかない自分の世界や
人間の世界をすべてだと錯覚して生きています。
そこでは、人間以外の世界に目を向けることはないでしょう。
しかし、ふとしたきっかけで、本来の自分に戻るとき、
自分もこの大きな大自然の一部であることに気づかされます。
とくに、日常生活から離れて、“何様でもない、ただの自分”
一個の素直な自分に戻ったとき、それを感じることがあります。
そんな自分の無力さを感じるとき、自分に絶望する人もいるでしょう。

しかし、そのようなときこそ、
自分を支えてくれる大きな力である「超越者=神」に
気づく大切な機会(とき)でもあります。
人間の存在の限界や、自らの無力さを感じるとき、
それは、単なる虚無(ニヒル)に陥ることではありません。
むしろ、「超越者である神との出会い」という、私たちに与えられた、
「神の恵みの時」でもあるのだと思います。
司祭 マタイ金山昭夫


大斎節前主日

2008年04月21日 | ショートメッセージ
六日の後、イエスは、ペトロ、それにヤコブとその兄弟ヨハネだけを連れて、
高い山に登られた。
イエスの姿が彼らの目の前で変わり、顔は太陽のように輝き、
服は光のように白くなった。
見ると、モーセとエリヤが現れ、イエスと語り合っていた。
ペトロが口をはさんでイエスに言った。
「主よ、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。
お望みでしたら、わたしがここに仮小屋を三つ建てましょう。
一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」
ペトロがこう話しているうちに、光り輝く雲が彼らを覆った。
すると、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け」
という声が雲の中から聞こえた。
弟子たちはこれを聞いてひれ伏し、非常に恐れた。
イエスは近づき、彼らに手を触れて言われた。
「起きなさい。恐れることはない。」
彼らが顔を上げて見ると、イエスのほかにはだれもいなかった。
一同が山を下りるとき、イエスは、
「人の子が死者の中から復活するまで、今見たことをだれにも話してはならない」
と弟子たちに命じられた。(マタイによる福音書 17:1-9)

*

今週の水曜日には、「大斎始日」(灰の水曜日)がやってきます。
そして、今年も大斎節を迎えます。
イエス様の十字架のご受難を偲んで、その辿られた道に従い、
私たちも、主の御苦しみの一部を担うつもりで、
この大斎節前主日には、いわゆる「山上の変容貌」の箇所が読まれます。

今日は、マタイによる福音書第17章1-9節の有名な
主イエスの「山上の変容貌」の記事が読まれました。
冒頭で「六日の後」と記されていますが、
何の後かといえば、この「変容貌」の出来事の六日前には、
イエス様が弟子達に、ご自身の十字架と復活の予告をされています。
すなわち、この「変容貌」の出来事は、
イエス様にとっては、すでに、十字架でのご受難が差し迫っていた時の
出来事だったということができるでしょう。

さて、この「変容貌」の出来事は、何を意味し、
どのような出来事だったのでしょうか。
そして、弟子たちにとっては、どういう体験だったのでしょうか。

大斎において、教会は、ともすると、復活のいのちに至るまでの
壮絶な苦しみという面を強調していました。
しかし、その苦難は、神の栄光を表す輝かしい姿という面もあってこそ
成り立っているのではないでしょうか。

私たちには、生きてゆく上で、大きな苦しみを耐えねばならないことがあります。
そのとき、私たちは、苦しみに打ちひしがれた、
惨めな姿をさらすだけではありません。
その時の私たちの姿は、他人から見れば、
惨めでなさけない姿に移るかもしれませんが、
私たちが、その苦しみをすべて神様に委ねるとき、
私たちもきっと神様の栄光に輝く、
まばゆい光に包まれて行くことができるのではないでしょうか。

主の変容の出来事は、苦難の先、
そして、その十字架の先にある「栄光の先取り」を
私たちに示しているということもできるのだと思います。

この大斎を通して、私たちは、イエス様のご生涯とご受難を辿りながら、
この「主の変容」の出来事の持っている意味について、思いを巡らせる時を持ちたいと思います。
司祭 マタイ金山昭夫

顕現後第3主日

2008年04月21日 | ショートメッセージ
イエスは、ヨハネが捕らえられたと聞き、ガリラヤに退かれた。
そして、ナザレを離れ、ゼブルンとナフタリの地方にある湖畔の町
カファルナウムに来て住まわれた。
それは、預言者イザヤを通して言われていたことが実現するためであった。
「ゼブルンの地とナフタリの地、湖沿いの道、ヨルダン川のかなたの地、
異邦人のガリラヤ、暗闇に住む民は大きな光を見、
死の陰の地に住む者に光が射し込んだ。」
そのときから、イエスは、「悔い改めよ。天の国は近づいた」と言って、
宣べ伝え始められた。
イエスは、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、
二人の兄弟、ペトロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレが、
湖で網を打っているのを御覧になった。
彼らは漁師だった。
イエスは、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われた。
二人はすぐに網を捨てて従った。
そこから進んで、別の二人の兄弟、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが、
父親のゼベダイと一緒に、舟の中で網の手入れをしているのを御覧になると、
彼らをお呼びになった。
この二人もすぐに、舟と父親とを残してイエスに従った。
イエスはガリラヤ中を回って、諸会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、
また、民衆のありとあらゆる病気や患いをいやされた。
(マタイによる福音書 4章12-23)

*

福音書には「神の国は近づいた。悔い改めよ。」という
イエス様の言葉が度々記されています。
この言葉は今でも、強い、厳しい響きをもって人々の心に迫ってくる言葉です。
しかし、それが行き過ぎてクリスチャンとなるためには、
自分で罪を悔い改め、自己改善することを
救いの必要不可欠の条件として教えることになり、
悔い改めが徹底しているかどうかということを問題にして
求道者の信仰を測ってしまうことが多くあると聞いたことがあります。

しかし、ここで「悔い改め」と訳されているギリシャ語である
メタノイア(動詞はメタノエオー)は、本来悪いことをしていると罪に気づき、
すまないと思い、悲しみ、もう決してしないという
意志の決定をあらわす単語なのではないのです。
メタという言葉は、「~の後で」という意味の語です。
そして「ノイア」という部分は「ヌース」から派生した語で英語のマインド、
つまり「考え、思い」を表す言葉です。
従って、メタノイアの純粋な意味は、
「考えを変える、思い直す」という意味です。
ですから、パウロの場合も改心ではなく、回心なのです。

例えば、ギリシャ語の文法的には悪い方向に考えを変えるときにも
メタノイア、メタノエオを使用しても良いこともあるのです。
もちろん後悔、反省し、道徳的に悪を退け、
これからは善をするという決断をなす場合にも
メタノエオを使用することはできますが、
その正反対の場合にも使用できるのです。
そして、その意味は文脈が決定するのです。

また、もう一つ、意外なことなのですが、
ギリシャ語の新約聖書の中には、「メタノエオ」という単語が、
「罪をメタノエオする」という形で表現されている聖句が
一つもないということです。

ですから、イエス様がここでおっしゃりたいことは、
今までの考えである「世の中」を向いていた心を180度回転させて、
神の方に向き直って、神と和解すること、すなわち神に立ち帰ることです。
神と和解するとは、自己中心の生き方を神中心の生き方に変えることであり、
それは愛を生きるということです。
自我や自分の欲望のままに生きるのではなく、
毎日の具体的な場で愛に生きる人になり、
自分を大切にし、隣人も自分と同じように大切にしていくこと、
そして自然を愛し、自然と共に生きる道を探していくことが
私達に求められているのではないでしょうか。

司祭 マタイ金山昭夫


復活節第5主日

2008年04月20日 | ショートメッセージ
<ヨハネによる福音書 14:1-14>

人は自分の生きる力を超えた「聖なる存在」と出会ったとき、
より本当の自分になって生きるように歩み始めます。
言葉を換えれば、人は真理によって生かされ、
その道を探求して命を得るのです。
福音書を記したヨハネにとってイエスはそのような「聖なる存在」であり、
ヨハネは、イエスの言葉として
「わたしは道であり、真理であり、命である」と記しています。
それは福音記者としての信仰告白でもあります。
イエスの聖なる存在と力は、死んだラザロさえ無にならないのです。

司祭 ヨハネ小野寺達

復活節第4主日

2008年04月13日 | ショートメッセージ
<ヨハネによる福音書 10:1-10>

主イエスは当時の人々には身近な「羊飼いと羊」のたとえを用いて、
私たちは何に導かれながらどのように歩んでいくべきかをお示しになりました。

羊は群をつくり、飼い主に導かれることで生きていくことができます。
夜には野原の囲いの中で他の飼い主の羊たちと雑居するようなときにも、
朝になって先頭に立つ自分の羊飼いの声を聞き分けて従っていくのです。

私たちも羊と同じです。
「良き羊飼い」の御声を正しく聞き分け、従っていけるようになりたいものです。

司祭 ヨハネ小野寺達