(マルコによる福音書 6:30-44)
私たちは日々の生活の中で、ともすると、現実のことに追われ、休みなく働き、
何が本当に大切かが分からなくなっていないでしょうか。
何のために今の活動、仕事をしているのかすら分からなくなってしまい
「誰も自分の立場をわかってくれない。誰にもこの苦しさは分からない。」と、
追い詰められ、疲れ、人から愛されることを求めているとはいえないでしょうか。
そういう人たち、とりわけ世話をする立場にある親に、教育者に、指導者に、
そして、教会の羊飼いに、修道者に対してイエス様はおっしゃいます。
「私は分かっている。だから、あなたは人里離れたところへ行って、
しばらく休むがよい」。
イエス様は、迷っている私たちを飼い主のいない羊という譬えであらわし、
それをご自身こととして苦しみ、憐れんでこのように言われるのです。
現実の社会では、休む時間すらも奪われてしまいます。
そして、祈りの時はもっとも最初に削られていく時間かもしれません。
そして、祈ることも、神の言葉をじっくり考える
といいうことも出来なくされていきます。
しかし、それでは、魂の抜け殻のような体を抱えて、
ただ惰性で生きているようなものになってしまいます。
イエス様は、このような有様を見て、怒り、悲しみ、そして深く憐れまれ、
私たちに「人里離れたところへ行って、しばらく休むがよい」と、言われるのです。
私たちにとっての「最初の休息」のとき。
それは、イエス様と時を過ごす時です。
忙しければ忙しいほど、イエス様と時を過ごすことが必要です。
きっと、その時こそ、イエス様は教え、心の平安を取り戻させてこれるはずです。
そのような時間を全く生み出す余裕がないのであれば、
時間の使い方、今の生き方に何か問題があるのかもしれません。
どうか、忙しい日々の中でも、「祈ること」を忘れずに
神様の下での「休息の時」を持つことを忘れずにいてください。
執事 マタイ金山昭夫 《2006.7.23 週報より》
私たちは日々の生活の中で、ともすると、現実のことに追われ、休みなく働き、
何が本当に大切かが分からなくなっていないでしょうか。
何のために今の活動、仕事をしているのかすら分からなくなってしまい
「誰も自分の立場をわかってくれない。誰にもこの苦しさは分からない。」と、
追い詰められ、疲れ、人から愛されることを求めているとはいえないでしょうか。
そういう人たち、とりわけ世話をする立場にある親に、教育者に、指導者に、
そして、教会の羊飼いに、修道者に対してイエス様はおっしゃいます。
「私は分かっている。だから、あなたは人里離れたところへ行って、
しばらく休むがよい」。
イエス様は、迷っている私たちを飼い主のいない羊という譬えであらわし、
それをご自身こととして苦しみ、憐れんでこのように言われるのです。
現実の社会では、休む時間すらも奪われてしまいます。
そして、祈りの時はもっとも最初に削られていく時間かもしれません。
そして、祈ることも、神の言葉をじっくり考える
といいうことも出来なくされていきます。
しかし、それでは、魂の抜け殻のような体を抱えて、
ただ惰性で生きているようなものになってしまいます。
イエス様は、このような有様を見て、怒り、悲しみ、そして深く憐れまれ、
私たちに「人里離れたところへ行って、しばらく休むがよい」と、言われるのです。
私たちにとっての「最初の休息」のとき。
それは、イエス様と時を過ごす時です。
忙しければ忙しいほど、イエス様と時を過ごすことが必要です。
きっと、その時こそ、イエス様は教え、心の平安を取り戻させてこれるはずです。
そのような時間を全く生み出す余裕がないのであれば、
時間の使い方、今の生き方に何か問題があるのかもしれません。
どうか、忙しい日々の中でも、「祈ること」を忘れずに
神様の下での「休息の時」を持つことを忘れずにいてください。
執事 マタイ金山昭夫 《2006.7.23 週報より》