ルクノス ~ともし火~

日本聖公会 北関東教区 宇都宮聖ヨハネ教会のブログです。

聖霊降臨後 第24主日

2007年12月03日 | ショートメッセージ
復活があることを否定するサドカイ派の人々が何人か近寄って来て、
イエスに尋ねた。
「先生、モーセはわたしたちのために書いています。
『ある人の兄が妻をめとり、子がなくて死んだ場合、
その弟は兄嫁と結婚して、兄の跡継ぎをもうけねばならない』と。
ところで、七人の兄弟がいました。長男が妻を迎えましたが、
子がないままに死にました。
次男、三男と次々にこの女を妻にしましたが、
七人とも同じように子供を残さないで死にました。
最後にその女も死にました。
すると復活の時、その女はだれの妻になるのでしょうか。
七人ともその女を妻にしたのです。」イエスは言われた。
「この世の子らはめとったり嫁いだりするが、
次の世に入って死者の中から復活するのにふさわしいとされた人々は、
めとることも嫁ぐこともない。
この人たちは、もはや死ぬことがない。
天使に等しい者であり、復活にあずかる者として、神の子だからである。
死者が復活することは、モーセも『柴』の箇所で、
主をアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神と呼んで、示している。
神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。
すべての人は、神によって生きているからである。」
[ルカ による福音書 20章27,(28-33)34-38]



今日の福音書は、イエス様とユダヤ教の有力な宗派であった
サドカイ派との論争のお話です。

彼らサドカイ派は祭司を中心として、神殿祭儀の中心を担っていましたが、
現実的、政治的で復活信仰を受け入れませんでした。
そこでイエス様に彼らは、一人の女性が何度も亭主に死に別れ、
再婚し、また死に別れた末に亡くなったら、
復活があるとすれば、誰がこの女性の夫となるのかという、
意地悪な質問をなげかけました。

それに対してイエスは次のように答えます。
まず、この世と復活後の世界とは次元が違うということです。
「この世の子らはめとったり嫁いだりするが、
次の世に入って死者の中から復活するのにふさわしいとされた人々は、
めとることも嫁ぐこともない。」サドカイ派のようにこの世の延長線上で、
復活という、いわば、究極の真理を説明することはできないという宣言です。
つまり、この世の私たちの限りある知恵や思慮ですべての物事を
考えることはできないということです。

このことは、私たちが心してかからねばならないことです。
私たちは、たとえキリスト者であっても、
時にこの世の物差しでしか、物事を見れなくなってしまうことがあります。

今年も、また、定期教区会が行われる時期となってまいりました。
私たちがこの世で活動して行く上で、
この世とかかわることをやめるわけにはいきませんから、
さまざまなことをこの世との関わりの中で決めてゆかねばなりません。
しかし、そこにはこの世の知恵や思慮ではなく、
神様からのそれを求めて行くことが常に求められます。
どうか、皆さんの祈りで、集められた聖職信徒代議員の思いが
清められるようにお祈りをいただきたいと思います。

そして、イエス様はもう一つの大切な事実を宣言されます。
それは、「復活は事実である」ということです。
そこでは、出エジプト記3章4節以下を引用して、
自ら名乗れる神を示してくださいました。
「わたしはあなたの父の神である。
アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。」
すなわち、神様は、死んで滅びてしまった人間を
引き合いに出して語るのではありません。
父祖アブラハムはじめ、イサク、ヤコブ、
皆復活の命を与えられたのだとおっしゃるのです。
そして、彼らは神様のお側近くで生きている。
つまり復活は事実として現にここになるのだと高らかに宣言されます。

私たちの信仰は、主イエスの復活という事実を抜きは成り立ちません。
それがあるからこそ、イエス様を信じ、
自分自身もその復活を約束されたものとして信じることができるのです。
しかし、時には自分の愛する者たちに
信仰を理解してもらえないこともあります。
「自分は信じて救われたけれど、夫や子供は大丈夫でしょうか。」
そんな、質問を受けることがあります。
これにも主は明確に答えられています。
「すべての人は、神によって生きているからである。」(38節)
例外なくすべての人がキリストによって生かされるのです。
「誰が救われ。誰が救われないか」と心配することありません。
イエス様は、神様が私たちを愛し生かしておられること、
死後、主が復活の命を与えてくださることを約束されます。
そして、私たちはこの福音を信頼して生きて行きたいと思います。

司祭 マタイ金山昭夫

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