今日の福音書(マルコによる福音書 1:7-11)で、
主なる神様はイエス様に、「あなたは、わたしの愛する子」と、おっしゃられます。
それは、イエス様に向けられた天の父なる神からの声でした。
しかし、御子であるイエス様によって、その声を私達ひとりひとりが皆、
自分自身にも向けられたものとして聴くことができるのです。
もちろん、私たちはとても自分自身が、
神様に愛される資格などないということに気づかされます。
自分の罪を思い返す時、自分の卑小さ、汚らわしさを思う時、
神様から「愛する子よ」と呼んでいただける資格など全くないように思う。
ルカ伝の「放蕩息子」のように
「お父さん。私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません。」というしかありません。
しかし、そのような私にも、御子イエスは
「あなたは、わたしの愛する子」と呼びかけてくださっているのです。
この奇跡に、新しい希望と生きる力を与えていただいているように思うのです。
そして、そのような私達にとって大切なことは、私達ひとりひとりが、
神様に愛されている喜びを兄弟姉妹と分かち合うことなのではないかと思います。
神様が、私達をこの上なく愛してくださっている、
この喜びこそがすべての前提なのです。
皆さんとご一緒に、この喜びに預かりながら、
新しく始まったこの一年を歩んでいけることができるようにお祈りいたします。
本年もよろしくお願い致します。
執事 マタイ金山昭夫 《2006.1.8週報より》
主なる神様はイエス様に、「あなたは、わたしの愛する子」と、おっしゃられます。
それは、イエス様に向けられた天の父なる神からの声でした。
しかし、御子であるイエス様によって、その声を私達ひとりひとりが皆、
自分自身にも向けられたものとして聴くことができるのです。
もちろん、私たちはとても自分自身が、
神様に愛される資格などないということに気づかされます。
自分の罪を思い返す時、自分の卑小さ、汚らわしさを思う時、
神様から「愛する子よ」と呼んでいただける資格など全くないように思う。
ルカ伝の「放蕩息子」のように
「お父さん。私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません。」というしかありません。
しかし、そのような私にも、御子イエスは
「あなたは、わたしの愛する子」と呼びかけてくださっているのです。
この奇跡に、新しい希望と生きる力を与えていただいているように思うのです。
そして、そのような私達にとって大切なことは、私達ひとりひとりが、
神様に愛されている喜びを兄弟姉妹と分かち合うことなのではないかと思います。
神様が、私達をこの上なく愛してくださっている、
この喜びこそがすべての前提なのです。
皆さんとご一緒に、この喜びに預かりながら、
新しく始まったこの一年を歩んでいけることができるようにお祈りいたします。
本年もよろしくお願い致します。
執事 マタイ金山昭夫 《2006.1.8週報より》