ルクノス ~ともし火~

日本聖公会 北関東教区 宇都宮聖ヨハネ教会のブログです。

聖霊降臨後 第22主日

2007年11月01日 | ショートメッセージ
18:09 自分は正しい人間だとうぬぼれて、
他人を見下している人々に対しても、イエスは次のたとえを話された。
18:10 「二人の人が祈るために神殿に上った。
一人はファリサイ派の人で、もう一人は徴税人だった。
18:11 ファリサイ派の人は立って、心の中でこのように祈った。
『神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、
姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。
18:12 わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。』
18:13 ところが、徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、
胸を打ちながら言った。
『神様、罪人のわたしを憐れんでください。』
18:14 言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、
あのファリサイ派の人ではない。
だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」
【ルカ による福音書 18章9-24】



今日の福音書は、神殿で祈る二人の人の姿を通して、
神様が私たちをどのようにご覧になっているかということが示されているように思います。
こうした見方は、今日の福音書の記者であるルカにおいては
特に強調される点でもあります。
それはひとことでいえば、「謙遜」(ケノーシス)を良しとされる神だということです。
すなわち、高ぶるものは、引き下ろされ、自らへりくだるものが上げられるという、
あの「マリアの賛歌」に見られるような、ルカに特徴的な信仰告白でもあります。
しかし、これは福音書の説く逆説的な真理をもっとも良く言い表している部分だとも言えるのです。

例えば、福音書の描くイエス様は、救い主として民衆から期待されていたような、
ローマの圧制から解放と勝利をもたらす「栄光の王」といったことを
いつでも裏切るような行動にでられます。
なぜならば、民衆の期待は、イエス様の本当の姿を見誤っているのです。
主が来られたのは、貧しい人、や病人そして、罪人のために来られたという、
民衆の常識では「ありえない」逆説=パラドックスによって
救い主として来られたのです。

また、ここでいう罪人とは、いわゆる、悪人ではありません。
私たち人間は誰一人も例外でなく罪人なのです。
実際に私たちの日常生活は、いわば目に見えない「悪」に満ちており、
わたしたちはそこに知らず知らずに加担してしまってはいないでしょうか?
そうでなくても、私たちは、このファリサイ人のような
義を成せるかということすら難しいでしょう。
時には人を傷つけ、自分だけが良ければ良いというような行動を
とってしまうこともまれではないのです。

たとえ時に誰かのためにということを成し得たとしても、
実のところは自分自身の名誉や、
自己満足のためである場合もあるかもしれません。
こんな私たちですから、
誰一人「自分は悪とは無縁です、罪などおかしておりません」などと、
どうして涼しい顔でいえるのでしょうか。
もし、それが、できるのであればよっぽど厚顔無恥化か、
まったく本当の自己理解に欠けているとしか言いようがありません。

自らを省みるとき、そこに、私たちは不完全で
どうしようもない自分を見出さざるをえません。
そして、福音書はそんな私たちの現実を鋭くとらえながら、
同時に、罪人であればこそ、そんな自分に気づくことができるのであれば、
その人は本当に神の国にはいれるのだとも言っております。
自分が貧しいものであるということを神の前にさらけ出せる人こそが、
本当の自分に向き合うことができ、神様に顔を向けて祈ることができるのです。

今日の福音書でイエス様が嫌われたのは、
ユダヤ教(社会)で中心的な存在であったファリサイ派の自己肯定の姿勢です。
それは、「自分は罪人」ではないと思い込んで、
他人を裁いては、見下ろすような態度をしてしまうような
高慢さともいえるでしょう。

しかし、このようなファリサイ派的な態度は、
実は私たちと無縁なのものではありません。
それは私たちの心の中のどこかにいつもある誘惑です。
「あの人よりは私の方がまだましだ。」という自分への慰めは、
本来福音の精神と相いれないはずのものです。

何様でもない自分に気がつき、
本当の救いはそれをなされる神により頼む信仰を、
イエスさまは良しとされたのです。
そして、この徴税人を通して、救いへの道を求めるなら、
自らをより頼まずただ謙遜であれ、私たちに教えておられるのだと思います。

司祭 マタイ金山昭夫


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