1893(明治26)年の今日(11月7日)、 日本郵船が開設した初の遠洋航路「神戸~ボンベイ」の第一便が出港 した。
日本郵船株式会社は、日本を代表する大手3大海運会社の一つであり、三菱商事と共に三菱財閥(現在の三菱グループ)の源流企業である。
国内・海外を合わせて350以上の都市の港へ800隻余りの運航船舶が乗り入れており、運航船舶数規模及び直結売上高では日本では1位、世界でも2位の海運会社で日本海運の帝王とも呼ばれる。しかし、過去に遡ってみると、日本が鎖国していた2世紀余りの間に、英国では産業革命が起こり、世界は劇的に変化していた。いざ開国してみると、彼我の技術力には天と地ほどの差があり、すでに太平洋や大西洋に定期航路を持つ外国汽船会社がいつの間にか外航航路を独占。たとえば、上海ー横浜の定期航路についてみると、1864(元治元)年にイギリスのピー・オー(P&O=Penninsula & Oriental Steam Navigation)汽船会社が航路を開いたのを始め、翌年にフランスの帝国郵船会社が定期航路を就航させている。このように、貿易航路はおろか日本沿岸の海上輸送ルートにまで手をのばし、なかでも太平洋の覇者といわれた米国のPM社(Pacific Mail Steamship)は、日本沿岸輸送を含めた航路の完全独占を企てていた。このような外国商船に依存する日本側の海運体制は、居留地貿易の体質に拘束されていたからであろう。
だが、それは、1874(明治7)年4月の台湾出兵のさいに変更を余儀なくされた。列強の中立宣言で、日本政府は外国商船を雇傭できなくなってしまったからである。そこで、政府は、外国汽船を購入し、岩崎弥太郎の三菱商会をして、その軍事輸送に従わせた。いわば「官船」の三菱委託であった。外国商船依存から、「自国傭船」に転換したのである。以後、殖産興業政策の課題のひとつとして海運業の育成が進められた。ただし、通信事業が政府専掌(官営)で行われたのに対し、海運奨励は民間資本の保護・育成の方針をとった。つまり、日本政府は、民間会社を保護育成して国際競争力を付けさせ、日本沿岸と外航から外国海運資本を排除する方針をも決定したのである。民間資本、その筆頭は三菱であった。1875年 国有会社である日本国郵便蒸気船会社の経営を任された三菱商会は、これを期に、郵便汽船三菱会社と改称した。政府は1875(明治8)年1月三菱商会に、上海航路の開設を命じた。綿花の輸入を主目的とした横浜-上海定期航路の開設である。上海は欧米列強の東洋の拠点で、日本にとってそれは世界に通じる最重要ルートでもあった。2月3日、その第1便が横浜を出航した。日本で初めての海外定期航路である。
ここに立ちはだかったのが、先のPM社と英国の名門船会社P&O社である。三菱会社がダンピング運賃で対抗した。このとき、政府は、積極策をうち、官船委託さきの三菱商会にたいして、9月に、官船13隻の無償下付、年25万円の助成金給与という”民間汽船会社育成政策”を決めた。三菱会社は、三菱商会は激しい競争に凌ぎをけづることになるが、このような政府のバックアップや三菱銅山の好況を背景に、これに打ち勝ち、米英の両社とも上海航路から撤退することになる。こうして、日本は外国商船を日本の市場から遠ざける事に成功した。政府は、このように、三菱会社を”特化”したことで、日本は外国商船を日本市場から遠ざける事に成功した。
このような政府の保護により、国内最大の海運会社となった郵便汽船三菱会社は、西南の役では政府貸下金で船舶を購入して、軍事輸送を担当し、巨利を得た。又、三菱会社は全国的な沿岸航路を開設して独占的な利益を取得し、高島炭鉱経営や、政府貸下げの長崎造船所経営にも進出し、三井に匹敵する大政商にのし上がった。その後、三井系国策会社である「共同運輸会社」とさらなる値下げ競争を行ったことで、海運業の衰退を危惧した政府の仲介で、1885(明治18)年、両社が合併し、日本郵船株式会社となる。
この頃明治政府の殖産興業政策により紡績産業の目覚しい発展があり、紡績業の綿糸の国内生産は輸入高を上回る勢いに達していた。そして、その原料である綿花を廉価な海外綿花に求めたていたが、それが、良質な長繊維のインド綿であった。
日本は、やっと、日本近海の航路は固めたものの、まだ、遠洋航路には手も足も出ず、以下参考の「日本船舶・外航海運会社」によると、日本の貿易貨物積載率は、1893(明治26)年の段階で日本船8%、英国船57%、仏船13%、独逸船14%、米国船6%で、船会社の指定権は外国商館にあり、日本船が割り込むのは厳しかったようだ。
そこで、国家の基幹産業である紡績産業の発展とインド産綿花の輸入急増を受けて、ここでもまた、日本郵船が大きな役割を果たすことになる。それが、ボンベイ航路の開設である。これに対して、欧州船会社の妨害は凄まじいものだったようだ。英墺伊の船会社が組織する海運同盟で最も強硬だったのは英国であったのは当然だろう。英国のP&O社を中心にした海運同盟は、綿花1tにつき17ルピーという高額な運賃カルテルを形成していた。この日本郵船のボンベイ航路開設は、日本の産業育成のために、この独占支配を打ち破ろうとする挑戦であった。
そして、1893(明治26)年11月7日、広島丸が日本初の遠洋定期航路の第1船として、ボンベイへ向けて神戸港を出帆した。それから、、2年半にわたる激しい競争が始まった。同盟側は相次ぐ値下げ攻勢を行ったが、日本の繊維業界と日本郵船は団結してこれに耐え、結局、1896(明治29)年、日本郵船は同盟への加盟を認められ、4社間で1t12ルピーと定めた協定が成立。 こうして日本初の遠洋航路が確立され、安い輸入綿花が供給されるようになった。
日清戦争後の海運振興論の高まりの中で制定された航海奨励法・造船奨励法(明治29年公布)は、外航海運の発展を一層活気付けた。航海奨励法は、総トン数1000トン以上の鋼鉄船による外国航路に対し奨励金を交付するもの。造船奨励法は、700トン以上の船舶建造に対しトン当たり12-20円を交付、機関も製造すれば1馬力につき5円奨励金を交付するというものであった。この結果、海運各社の所有船舶は激増。1898(明治31)年から10年間にわが国登簿汽船は2,4倍にふくれ上り、世界6位の海運国になったという。民間造船技術もそのころには、世界水準に到達していた。又、政府は特定航路について助成制度を設けた。そして、日清・日露戦争を経て日本の海運業は飛躍的に発展を遂げていくことになる。
このときから、日本は近代国家として世界と肩を並べていくようになるのであるが、それにしても、当時の日本の政府の要人は頼もしいね~。今の日本の政府にはこの当時のような気概のある人物はいそうにないものね~。経済界は頑張っているが、政治家には大物がいなくなったね~。
(画像は、三菱商事と共に三菱財閥(現在の三菱グループ)の源流企業となる日本郵船を創業。三菱財閥の創業者である岩崎弥太郎肖像。フリー百科事典Wikipediaより)
参考:
日本郵船ーWikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E9%83%B5%E8%88%B9
日本船舶・外航海運会社
http://members.at.infoseek.co.jp/funadamasii/gaikou.htm
日本郵船の孟買航路就航船舶
http://homepage3.nifty.com/jpnships/meiji01/meiji01_indo_nyk.htm
日本郵船株式会社創業者 岩崎弥太郎 先駆者たちの大地 IRマガジン NET-IR
http://www.net-ir.ne.jp/ir_magagine/pioneer/vol050_9101.html
造船奨励法 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%80%A0%E8%88%B9%E5%A5%A8%E5%8A%B1%E6%B3%95
日本商船 デジタル博物館 三輪祐児
http://www.aa.cyberhome.ne.jp/~museum/2560indexH.htm
長崎文化ジャンクション 長崎文化百選・・・高島炭鉱
http://www.pref.nagasaki.jp/bunka/hyakusen/kotohajime/043.html
三菱史記行シリーズmitubisi.or.jp
http://www.mitsubishi.or.jp/jp/series/kikou/index.html
新聞記事文庫 切抜帳一覧
http://www.lib.kobe-u.ac.jp/sinbun/vlist/vlist.html#kotsu
台湾出兵 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%B0%E6%B9%BE%E5%87%BA%E5%85%B5
日本郵船株式会社は、日本を代表する大手3大海運会社の一つであり、三菱商事と共に三菱財閥(現在の三菱グループ)の源流企業である。
国内・海外を合わせて350以上の都市の港へ800隻余りの運航船舶が乗り入れており、運航船舶数規模及び直結売上高では日本では1位、世界でも2位の海運会社で日本海運の帝王とも呼ばれる。しかし、過去に遡ってみると、日本が鎖国していた2世紀余りの間に、英国では産業革命が起こり、世界は劇的に変化していた。いざ開国してみると、彼我の技術力には天と地ほどの差があり、すでに太平洋や大西洋に定期航路を持つ外国汽船会社がいつの間にか外航航路を独占。たとえば、上海ー横浜の定期航路についてみると、1864(元治元)年にイギリスのピー・オー(P&O=Penninsula & Oriental Steam Navigation)汽船会社が航路を開いたのを始め、翌年にフランスの帝国郵船会社が定期航路を就航させている。このように、貿易航路はおろか日本沿岸の海上輸送ルートにまで手をのばし、なかでも太平洋の覇者といわれた米国のPM社(Pacific Mail Steamship)は、日本沿岸輸送を含めた航路の完全独占を企てていた。このような外国商船に依存する日本側の海運体制は、居留地貿易の体質に拘束されていたからであろう。
だが、それは、1874(明治7)年4月の台湾出兵のさいに変更を余儀なくされた。列強の中立宣言で、日本政府は外国商船を雇傭できなくなってしまったからである。そこで、政府は、外国汽船を購入し、岩崎弥太郎の三菱商会をして、その軍事輸送に従わせた。いわば「官船」の三菱委託であった。外国商船依存から、「自国傭船」に転換したのである。以後、殖産興業政策の課題のひとつとして海運業の育成が進められた。ただし、通信事業が政府専掌(官営)で行われたのに対し、海運奨励は民間資本の保護・育成の方針をとった。つまり、日本政府は、民間会社を保護育成して国際競争力を付けさせ、日本沿岸と外航から外国海運資本を排除する方針をも決定したのである。民間資本、その筆頭は三菱であった。1875年 国有会社である日本国郵便蒸気船会社の経営を任された三菱商会は、これを期に、郵便汽船三菱会社と改称した。政府は1875(明治8)年1月三菱商会に、上海航路の開設を命じた。綿花の輸入を主目的とした横浜-上海定期航路の開設である。上海は欧米列強の東洋の拠点で、日本にとってそれは世界に通じる最重要ルートでもあった。2月3日、その第1便が横浜を出航した。日本で初めての海外定期航路である。
ここに立ちはだかったのが、先のPM社と英国の名門船会社P&O社である。三菱会社がダンピング運賃で対抗した。このとき、政府は、積極策をうち、官船委託さきの三菱商会にたいして、9月に、官船13隻の無償下付、年25万円の助成金給与という”民間汽船会社育成政策”を決めた。三菱会社は、三菱商会は激しい競争に凌ぎをけづることになるが、このような政府のバックアップや三菱銅山の好況を背景に、これに打ち勝ち、米英の両社とも上海航路から撤退することになる。こうして、日本は外国商船を日本の市場から遠ざける事に成功した。政府は、このように、三菱会社を”特化”したことで、日本は外国商船を日本市場から遠ざける事に成功した。
このような政府の保護により、国内最大の海運会社となった郵便汽船三菱会社は、西南の役では政府貸下金で船舶を購入して、軍事輸送を担当し、巨利を得た。又、三菱会社は全国的な沿岸航路を開設して独占的な利益を取得し、高島炭鉱経営や、政府貸下げの長崎造船所経営にも進出し、三井に匹敵する大政商にのし上がった。その後、三井系国策会社である「共同運輸会社」とさらなる値下げ競争を行ったことで、海運業の衰退を危惧した政府の仲介で、1885(明治18)年、両社が合併し、日本郵船株式会社となる。
この頃明治政府の殖産興業政策により紡績産業の目覚しい発展があり、紡績業の綿糸の国内生産は輸入高を上回る勢いに達していた。そして、その原料である綿花を廉価な海外綿花に求めたていたが、それが、良質な長繊維のインド綿であった。
日本は、やっと、日本近海の航路は固めたものの、まだ、遠洋航路には手も足も出ず、以下参考の「日本船舶・外航海運会社」によると、日本の貿易貨物積載率は、1893(明治26)年の段階で日本船8%、英国船57%、仏船13%、独逸船14%、米国船6%で、船会社の指定権は外国商館にあり、日本船が割り込むのは厳しかったようだ。
そこで、国家の基幹産業である紡績産業の発展とインド産綿花の輸入急増を受けて、ここでもまた、日本郵船が大きな役割を果たすことになる。それが、ボンベイ航路の開設である。これに対して、欧州船会社の妨害は凄まじいものだったようだ。英墺伊の船会社が組織する海運同盟で最も強硬だったのは英国であったのは当然だろう。英国のP&O社を中心にした海運同盟は、綿花1tにつき17ルピーという高額な運賃カルテルを形成していた。この日本郵船のボンベイ航路開設は、日本の産業育成のために、この独占支配を打ち破ろうとする挑戦であった。
そして、1893(明治26)年11月7日、広島丸が日本初の遠洋定期航路の第1船として、ボンベイへ向けて神戸港を出帆した。それから、、2年半にわたる激しい競争が始まった。同盟側は相次ぐ値下げ攻勢を行ったが、日本の繊維業界と日本郵船は団結してこれに耐え、結局、1896(明治29)年、日本郵船は同盟への加盟を認められ、4社間で1t12ルピーと定めた協定が成立。 こうして日本初の遠洋航路が確立され、安い輸入綿花が供給されるようになった。
日清戦争後の海運振興論の高まりの中で制定された航海奨励法・造船奨励法(明治29年公布)は、外航海運の発展を一層活気付けた。航海奨励法は、総トン数1000トン以上の鋼鉄船による外国航路に対し奨励金を交付するもの。造船奨励法は、700トン以上の船舶建造に対しトン当たり12-20円を交付、機関も製造すれば1馬力につき5円奨励金を交付するというものであった。この結果、海運各社の所有船舶は激増。1898(明治31)年から10年間にわが国登簿汽船は2,4倍にふくれ上り、世界6位の海運国になったという。民間造船技術もそのころには、世界水準に到達していた。又、政府は特定航路について助成制度を設けた。そして、日清・日露戦争を経て日本の海運業は飛躍的に発展を遂げていくことになる。
このときから、日本は近代国家として世界と肩を並べていくようになるのであるが、それにしても、当時の日本の政府の要人は頼もしいね~。今の日本の政府にはこの当時のような気概のある人物はいそうにないものね~。経済界は頑張っているが、政治家には大物がいなくなったね~。
(画像は、三菱商事と共に三菱財閥(現在の三菱グループ)の源流企業となる日本郵船を創業。三菱財閥の創業者である岩崎弥太郎肖像。フリー百科事典Wikipediaより)
参考:
日本郵船ーWikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E9%83%B5%E8%88%B9
日本船舶・外航海運会社
http://members.at.infoseek.co.jp/funadamasii/gaikou.htm
日本郵船の孟買航路就航船舶
http://homepage3.nifty.com/jpnships/meiji01/meiji01_indo_nyk.htm
日本郵船株式会社創業者 岩崎弥太郎 先駆者たちの大地 IRマガジン NET-IR
http://www.net-ir.ne.jp/ir_magagine/pioneer/vol050_9101.html
造船奨励法 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%80%A0%E8%88%B9%E5%A5%A8%E5%8A%B1%E6%B3%95
日本商船 デジタル博物館 三輪祐児
http://www.aa.cyberhome.ne.jp/~museum/2560indexH.htm
長崎文化ジャンクション 長崎文化百選・・・高島炭鉱
http://www.pref.nagasaki.jp/bunka/hyakusen/kotohajime/043.html
三菱史記行シリーズmitubisi.or.jp
http://www.mitsubishi.or.jp/jp/series/kikou/index.html
新聞記事文庫 切抜帳一覧
http://www.lib.kobe-u.ac.jp/sinbun/vlist/vlist.html#kotsu
台湾出兵 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%B0%E6%B9%BE%E5%87%BA%E5%85%B5