今日のことあれこれと・・・

記念日や行事・歴史・人物など気の向くままに書いているだけですので、内容についての批難、中傷だけはご容赦ください。

うるしの日

2006-11-13 | 記念日
今日(11月13日)は「うるしの日」
昔からこの日は漆関係者の祭日となっていたが、日本漆工芸協会が1985(昭和60)年に制定したものだそうだ。
平安時代のこの日に、文徳天皇(もんとくてんのう。827-858)の第一皇子・惟喬(これたか)親王が、京都・嵐山の法輪寺に参詣した時に漆の製法を菩薩から伝授されて製法を完成し、日本国中に広めたとされる伝説からとか。(以下参考の「虚空蔵 法輪寺」参照)。漆工職人のあいだではこの菩醍をまつる虚空蔵講が営まれている。漆器の下地の木屎(コクソ)に由来を求めているが、この「コクソ」は虚空蔵が訛ったものだといわれており、この信仰の伝播には秦氏が関係しているようだ。
漆愛用月間 11月1日~11月30日 (「うるしの日」を含む一箇月間)。
漆(うるし)とは、ウルシ科ウルシノキ(漆の木)やブラックツリーから採取される樹液。漆塗などに利用される。ヤマウルシでもうるし成分は採れるが、量が少なく使われない。
ウルシは主に日本、中国、ベトナム、ミャンマー、台湾、韓国などで採れる。日本の漆は、主成分であるウルシオール(urushiol。漆塗膜を形成する主要素となる)の含有率が高く、質の高い漆が産出されるそうだが、今は、日本で使われている漆の90%以上は中国などからの輸入に頼っているのが現状だそうである。ウルシは10数年で高さ10メートル、直径10センチ程になり、6月頃黄緑色の花をつけ、秋になると葉は真っ赤に紅葉し綺麗だが、生の漆が肌につくとかぶれる。これはこのウルシオールによるアレルギー反応だとか。
うるしの語源は「麗し(うるわし)」とも「潤し(うるおし)」ともいわれているように、大変美しい塗料である。
漆を塗られた道具を、漆器と言う。黒く輝く漆塗りは伝統工芸としてその美しさを評価され、高級家具や食器などに用いられる。漆塗りの食器は、輪島塗が特によく知られている。漆には腐敗防止、防虫の効果もある。この日本の漆の歴史は古く、石器時代から接着剤として活用され、縄文時代には弓、櫛、器などの漆工品を見ることができる。法隆寺に残る最古の伝世品である玉虫厨子、わが国の考案とされる蒔絵を施した正倉院の唐太刀、貝を使って風になびく松葉を見事に表現した時雨螺鈿の鞍、秋草を巧みにデザイン化した高台寺蒔絵、などいずれもわが国の代表的文化財である、漆はまさに日本を代表する素材とも言えるだろう。
この日本の漆塗の起源については、「以呂波字類抄(いろはじるいしょう)」の「本朝事始(ほんちょうことはじめ)」に、倭武皇子(やまとたけるのみこ)が、宇陀(うた)の阿貴(あき)山に猟に行った時、漆の木を見出し、漆の官を任じたという伝えを記(の)せており、漆の木が自生している宇陀郡奥、曽爾の郷に「漆部造(ぬりべのみやつこ)」を置いたとあるそうで、これが日本の漆塗についての最初の記録のようである。(以下参考の「そにネット・ぬるべの郷・奈良県曽爾(そに)村」の塗部(ぬるべ)郷の起源参照)
戦国時代から近世の前期にかけ、治水や溜池用水路の開削技術の著しい発達によって、河川敷や海岸部の大規模な耕作化が可能になり、幕府や諸藩も新田開発を積極的にすすめたため、全国の耕地は飛躍的に広がった。土地生産性の高い、多毛作が普及し、労働集約的農法にあった農具が考案されたり、新しい栽培技術や農業知識を説くすぐれた農書が数多くあらわされるようになった。江戸時代に入ると、農村の商品作物としては穀物(五穀)以外に、幕府や諸藩が栽培を奨励したものとして、「四木三草(しぼくさんそう)」の名で重要視された作物があった。四木三草とは『地方凡例録』(大石久敬著)では、桑、楮(こうぞ)、漆、茶を四木、麻、(藍(あい)、紅花(べにばな)を三草としている。
四木の桑は、葉が蚕のえさとなるもので、その栽培は、養蚕の前提となるものである。楮は、紙の原料であり、漆は、樹液が工芸原料に、実は蝋の原料にもなった。茶は葉を飲料とした。紙も漆もその製品化にはある程度の工業化を必要とした。これらの高度な技法を広めたのは、やはり、渡来人であったろう。
以下余談を一つ。
三草の藍の産地としては阿波国(あわのくに=現在の徳島県にあたる)が有名である。この徳島県徳島市二軒屋町にある徳島県のシンボルとも言われる眉山南東中腹に忌部神社がある。忌部神社は、阿波忌部の祖神天日鷲命を主祭神とすることで知られている。 阿波忌部とは、古代の宮中祭祀を担当した忌部氏に従属した集団である。以下参考の「忌部サミットと麻」によると、忌部氏の活躍を著した「古語拾遺」大同二年(807年)によると「天富命をして天日鷲命(あまのひわしのみこと 阿波忌部の祖先)の孫を率いて阿波国に移り、穀、麻を植えさせた。その所を麻植郡(おえぐん)といい、その一族がいまも阿波に住んでおり、大嘗祭に木綿・麻布など種々の物を献上する。それ故、郡の名を麻植という」と書かれているという。
「忌部」とは「穢れを忌み嫌い、神聖な仕事に従事する集団」との意味をもつ。そして、”大和朝廷成立のためにこの阿波忌部は大きな役割を果たしている。徳島県の吉野川流域から大和(奈良県)に進出し、大和国造(国造:自治体のトップ)や伊勢国造になるとともに全国各地に開拓事業を行った。この時期に讃岐、石見、出雲、伯備、隠岐、丹後、大和、伊勢、三河、遠江、伊豆、武蔵、安房、上総、下総、下野、上野に進出したと考えれられている。各地に残される伝承や神社の社伝を見れば、阿波忌部とは、麻、穀、栗、蚕、和紙、農業、織物などの殖産興業に関わる技術集団としての、海洋民であったと考えれる。古墳時代後期(5世紀から7世紀)になると阿波忌部の勢力は全国各地に散らばり、大和政権が確立された。”・・・と言うのである。壮大な話であるが、以下、[天日鷲命] goo ウェブ検索結果には「天日鷲命」に関連する面白い話しが沢山あるので、興味のある人はどうぞ。
[天日鷲命] goo ウェブ検索結果↓
http://search.goo.ne.jp/web.jsp?IE=utf-8&from=blog-edit&PT=blog-edit&MT=%E5%A4%A9%E6%97%A5%E9%B7%B2%E5%91%BD
(画像は、コレクションの和島塗りの独楽盆)
参考:
漆 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BC%86
ヤマウルシ
http://had0.big.ous.ac.jp/plantsdic/angiospermae/dicotyledoneae/choripetalae/anacardiaceae/yamaurusi/yamaurusi.htm漆の歴史と意匠
http://web.kyoto-inet.or.jp/people/urushi/nuri/history/history-INDEX.html
惟喬親王伝説、ろくろと木地師
http://www.ten-f.com/koretaka-rokuro.htm
虚空蔵 法輪寺
http://www2.ocn.ne.jp/~horinji/
仏教用語辞典・虚空蔵 (こくうぞう)
http://miya1999.hp.infoseek.co.jp/bukkyouyougo.htm
秦氏 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A7%A6%E6%B0%8F
秦氏について
http://www.asahi-net.or.jp/~rg1h-smed/hata
秦氏と渡来文化-農耕文化と稲荷信仰、そして八幡神社  
http://kodai-musashigaku.m.mepage.jp/newpage28.htm
漆の基礎
http://www.geocities.jp/robaichiro/urushi.htm
天然漆とは
http://urushi.client.jp/kagaku/senmon/senmon.html
そにネット・ぬるべの郷・奈良県曽爾(そに)村
http://www.vill.soni.nara.jp/index.shtml
村明細帳 ( むらめいさいちょう
http://extsrv.e-obs.com/heo/heodata/n721.htm
阿波国 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%98%BF%E6%B3%A2%E5%9B%BD
忌部サミットと麻
http://www.hemp-revo.net/report/0506.htm
忌部神社はなぜ徳島市にあるのか
http://72.14.235.104/search?q=cache:ngeQq17LZG8J:www.museum.tokushima-ec.ed.jp/hasegawa/manyu/imbejinja.htm+%E5%BF%8C%E9%83%A8%E7%A5%9E%E7%A4%BE+(%E5%BE%B3%E5%B3%B6%E5%B8%82)&hl=ja&gl=jp&ct=clnk&cd=2
阿波和紙
http://www.awagami.or.jp/awawashi/index.html
古語拾遺 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%A4%E8%AA%9E%E6%8B%BE%E9%81%BA