今日(12月11日)は臨済宗の僧「澤庵宗彭(たくあん そうほう)」1645年の忌日。
澤庵宗彭は、江戸時代の臨済宗の僧。大徳寺住持・・・と言っても、ピント来ない人も、吉川英治のあの有名な小説『宮本武蔵』の中で、武蔵の師匠として描かれている沢庵和尚と言えばわかるだろう。
私も正直言って、沢庵和尚に関しては、吉川英治の小説『宮本武蔵』の中に出てくる沢庵和尚のイメージしか沸いてこないが、宮本武蔵とは交渉があったわけではない。
ただ武蔵の生地はいろいろといわれているが、概ね美作国と播磨国の二説が主流であり、そうすると、沢庵の生地・但馬の出石とは、 山ひとつの背中合せの場所である。年齢も沢庵のほうがわずか10~11歳の年長者であり、武者修行者と禅門との関係が密であったことを考えれば、沢庵を武蔵と知己の間柄として小説上に登場させてもそう不合理を感じないと思ったのだろう。同、小説の中で、澤庵和尚は武蔵が武芸者として成長していくための師匠としてなくてはならない存在感を示している。
実際の澤庵宗彭のことはよく知らないので、以下参考のフリー百科事典Wikipediaのものをそのまま引用する。澤庵宗彭は、1573年12月24日(天正元年12月1日)に秋庭能登守綱典の次男として但馬国出石(現兵庫県豊岡市)に生まれる。父秋庭綱典は但馬国出石城主山名祐豊の重臣であった。8歳のとき山名家は羽柴秀吉に攻められて滅亡し、父は浪人した。沢庵は10歳で出石の唱念寺で出家し、春翁の法名を得た。14歳で同じく出石の宗鏡寺(すきょうじ)に入り、希先西堂に師事。秀喜と改名。1591年(天正19年)希先西堂が没すると、この間、出石城主となっていた前野長康は、大徳寺から春屋宗園(しゅんおくそうえん)の弟子、薫甫宗忠(とうほそうちゅう)を宗鏡寺の住職に招いた。沢庵も宗忠に師事する事になり、このときから、沢庵と大徳寺との関係が生まれた。
1594(文禄3)年宗忠が大徳寺住持となり上京したため、沢庵もこれに従い大徳寺に入り、大徳寺では三玄院の春屋宗園に師事し、宗彭と改名した。宗忠の死後、和泉国堺に出た。堺では南宗寺陽春院の一凍紹滴に師事し、1604年(慶長9年)沢庵の法号を得た。1607(慶長12)年沢庵は大徳寺首座となり、大徳寺徳禅寺に住むとともに南宗寺にも住持した。1609(慶長14)年、37歳で大徳寺の第154世住持に出世したが、名利を求めない沢庵は、野僧たるべくたったの3日で大徳寺を去り、堺へ戻った。1620(元和6)年には、郷里出石に帰り、藩主小出吉英が再興した宗鏡寺の裏に庵を結び、投淵軒と付けた。「投淵軒」という名は、中国の憂国の詩人・屈原がべき羅の淵汨羅江(べきらこう)に身を投げた故事によっているという。
1627(寛永4)年、紫衣事件が起こった。幕府は、後水尾天皇が幕府に諮ることなく行った紫衣着用の勅許について、法度違反とみなして、勅許状を無効とし、京都所司代に紫衣の取り上げを命じた。これに反対した沢庵は、急ぎ京へ上り、前住職の宗珀(そうはく)と大徳寺の僧をまとめ、妙心寺の単伝(たんでん)・東源(とうげん)らとともに、反対運動を行った。1629(寛永6)年、幕府は、沢庵を出羽国・上山に、また宗珀を陸奥国棚倉、単伝は陸奥国由利、東源は津軽へ各々流罪とした。1632年、将軍徳川秀忠の死により大赦令が出され、天海や柳生宗矩の尽力により、紫衣事件に連座した者たちは許された。沢庵が柳生宗矩に与えた書簡を集めた『不動智神妙録』(以下参考の「不動智神妙録」参照)は、「剣禅一味」を説いたものとして著名である。沢庵はいったん江戸に出て、神田広徳寺に入った。しかし京に帰ることはすぐには許されず、沢庵は同年冬駒込の堀直寄の別宅に身を寄せ、1634年(寛永11年)夏までここに留まった。宗珀とともに大徳寺に戻ったのち、家光が上洛し、天海や柳生宗矩、堀直寄の強い勧めがあり、沢庵は将軍徳川家光に謁見した。この頃より家光は深く沢庵に帰依するようになった。
同年郷里出石に戻ったが、翌年家光に懇願されて再び江戸に下った。沢庵は江戸に留まることを望まなかったが、家光の強い要望があり、帰郷することは出来なかった。家光は品川に萬松山東海寺を建て、沢庵を住持とした。家光は政事に関する相談もたびたび行ったという。書画・詩文に通じ、茶の湯(茶道)にも親しみ、また多くの墨跡を残している。
大根の糠(ぬか)漬けは一般的に「たくあん」と呼ばれているが、江戸時代の俳諧師・吾山の書物「物類称呼」には「たくあん漬けの名は、武州品川、東海寺開山の澤庵禅師、初めて製し給う、に依ってたくあん漬けと称する」書かれているという。
又、古今の書籍を引いて、本邦歴代の制度文物、及び社会百般の事項を類聚している、「古事類苑」には、香物と題して、澤庵の以下の句が掲載されているという。
「大かうの物とはきけどぬかみそに 打つけられてしほしほとなる」(後撰夷曲集 九雑 澤庵和尚)
一般には沢庵漬けの考案者が沢庵と言われているが、確たる証拠はなく異説もあるようだ。発案者でなくても広くひろめることには係っていた可能性は大きいだろうね。
以下参考の「雨の降る日は天氣が惡い」序、青空文庫に以下のような伊達政宗と澤庵和尚の問答が書かれていた。
”或日、澤庵和尚は千代田城に赴いた折、名うての荒武者伊達政宗に會つた。政宗が「雨の降る日は天氣が惡うござるが、どうしたものでござるな」
澤庵和尚はヂツと政宗を見た、政宗は瑞嚴寺の和尚に參じて禪も出來た武士である。
「左樣、雨の降る日は天氣が惡う御座るな」と同じやうなことを澤庵も繰返した。
* *
”ある日鷹狩の歸りに一天俄かに掻き曇り、雨は篠を突くやうにザア/\降つて來た。政宗も家來も濡れ鼠のやうに、眼もあてられない。すると今まで野良かせぎをしてゐたらしい百姓が「雨の降る日にや天氣が惡い‥‥」と大聲で唄つて行つた。
その時、政宗は百姓の聲を聞いて「ははあ、こゝだな」と、初めて澤庵禪師の言葉の意味が分つた。その時の彼の心持は家來共が雨に濡れて困つてゐる樣子を見て氣の毒に思ふ憐みの情以外の何物でも無かつた。つまり我を捨てたのである、我を捨ててこそ會得が可能なのである。‥‥と。”
あなたは、分かりましたか?
1646年1月27日(正保2年12月11日)、沢庵は江戸で没した。墓は東海寺にある。
澤庵は、死ぬ前に残す言葉を弟子が求めると自分で筆を取り、「夢」の一字を書いて筆を投げ捨てるようにして息を引き取ったという。
そして、「自分の葬式はするな。香典は一切もらうな。死骸は夜密かに担ぎ出し後山に埋めて二度と参るな。墓をつくるな。朝廷から禅師号を受けるな。位牌をつくるな。法事をするな。年譜を誌すな」と遺言を残したそうだ。
小説『宮本武蔵」を書いた吉川英治は、武蔵と澤庵が交接した核心はないが澤庵を登場させた。しかし、澤庵は、柳生但馬守に剣禅一如の奥義を伝えたほどの禅僧である。武蔵が澤庵の元で修行していたとしても不思議はない。
美濃国 八百津にある「宮本武蔵ゆかりの寺 大仙寺( だいせんじ ) 」は、宮本武蔵が禅修行をしたお寺 だそうだ。同寺によれば、京の都で沢庵和尚のもと剣の道を極めんと禅の修業に励んでいたが、沢庵和尚は「禅の道は愚堂に学べ」と言い残し、この世を去った。愚堂とは、美大仙寺八代目住職「愚堂国師」 のことで、宮本武蔵は、この美濃国 八百津 を訪れ、愚堂国師に禅の教えをこい、大仙寺二の門にある石の上で座禅を組み、寺に近い五宝の滝や昼なお暗い渓谷で厳しい剣術の修業を積んだと言い伝えられているという。
(画像は「沢庵和尚心にしみる88話」牛込覚心/編著)
参考:
沢庵宗彭 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B2%A2%E5%BA%B5%E5%AE%97%E5%BD%AD
江戸幕府 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%9F%E6%88%B8%E5%B9%95%E5%BA%9C
屈原 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%88%E5%8E%9F
不動智神妙録
http://www11.ocn.ne.jp/~namoshi/fudoutisinnmyouroku.htm
風の本棚13
http://www.bekkoame.ne.jp/~topos/book/book13.html#■沢庵「不動智神妙録」・水上勉「沢庵」
「古事類苑」飲食に関わる短歌
http://www2u.biglobe.ne.jp/~gln/55/5550/555005a.htm
「雨の降る日は天氣が惡い」序・土井晩翠(青空文庫)
http://www.aozora.gr.jp/cards/001081/files/43107_23644.html
宮本武蔵ゆかりの寺 大仙寺( だいせんじ )
http://www.windsnet.ne.jp/swing/shousai-tenpo.php?id=352
東海寺
http://www.asahi-net.or.jp/~DZ3Y-TYD/tera/toukaiji/toukaiji.html
漬け物まめ知識/歴史上の人物と漬け物との関わり
http://www.shin-shin.co.jp/mam03.html
澤庵宗彭は、江戸時代の臨済宗の僧。大徳寺住持・・・と言っても、ピント来ない人も、吉川英治のあの有名な小説『宮本武蔵』の中で、武蔵の師匠として描かれている沢庵和尚と言えばわかるだろう。
私も正直言って、沢庵和尚に関しては、吉川英治の小説『宮本武蔵』の中に出てくる沢庵和尚のイメージしか沸いてこないが、宮本武蔵とは交渉があったわけではない。
ただ武蔵の生地はいろいろといわれているが、概ね美作国と播磨国の二説が主流であり、そうすると、沢庵の生地・但馬の出石とは、 山ひとつの背中合せの場所である。年齢も沢庵のほうがわずか10~11歳の年長者であり、武者修行者と禅門との関係が密であったことを考えれば、沢庵を武蔵と知己の間柄として小説上に登場させてもそう不合理を感じないと思ったのだろう。同、小説の中で、澤庵和尚は武蔵が武芸者として成長していくための師匠としてなくてはならない存在感を示している。
実際の澤庵宗彭のことはよく知らないので、以下参考のフリー百科事典Wikipediaのものをそのまま引用する。澤庵宗彭は、1573年12月24日(天正元年12月1日)に秋庭能登守綱典の次男として但馬国出石(現兵庫県豊岡市)に生まれる。父秋庭綱典は但馬国出石城主山名祐豊の重臣であった。8歳のとき山名家は羽柴秀吉に攻められて滅亡し、父は浪人した。沢庵は10歳で出石の唱念寺で出家し、春翁の法名を得た。14歳で同じく出石の宗鏡寺(すきょうじ)に入り、希先西堂に師事。秀喜と改名。1591年(天正19年)希先西堂が没すると、この間、出石城主となっていた前野長康は、大徳寺から春屋宗園(しゅんおくそうえん)の弟子、薫甫宗忠(とうほそうちゅう)を宗鏡寺の住職に招いた。沢庵も宗忠に師事する事になり、このときから、沢庵と大徳寺との関係が生まれた。
1594(文禄3)年宗忠が大徳寺住持となり上京したため、沢庵もこれに従い大徳寺に入り、大徳寺では三玄院の春屋宗園に師事し、宗彭と改名した。宗忠の死後、和泉国堺に出た。堺では南宗寺陽春院の一凍紹滴に師事し、1604年(慶長9年)沢庵の法号を得た。1607(慶長12)年沢庵は大徳寺首座となり、大徳寺徳禅寺に住むとともに南宗寺にも住持した。1609(慶長14)年、37歳で大徳寺の第154世住持に出世したが、名利を求めない沢庵は、野僧たるべくたったの3日で大徳寺を去り、堺へ戻った。1620(元和6)年には、郷里出石に帰り、藩主小出吉英が再興した宗鏡寺の裏に庵を結び、投淵軒と付けた。「投淵軒」という名は、中国の憂国の詩人・屈原がべき羅の淵汨羅江(べきらこう)に身を投げた故事によっているという。
1627(寛永4)年、紫衣事件が起こった。幕府は、後水尾天皇が幕府に諮ることなく行った紫衣着用の勅許について、法度違反とみなして、勅許状を無効とし、京都所司代に紫衣の取り上げを命じた。これに反対した沢庵は、急ぎ京へ上り、前住職の宗珀(そうはく)と大徳寺の僧をまとめ、妙心寺の単伝(たんでん)・東源(とうげん)らとともに、反対運動を行った。1629(寛永6)年、幕府は、沢庵を出羽国・上山に、また宗珀を陸奥国棚倉、単伝は陸奥国由利、東源は津軽へ各々流罪とした。1632年、将軍徳川秀忠の死により大赦令が出され、天海や柳生宗矩の尽力により、紫衣事件に連座した者たちは許された。沢庵が柳生宗矩に与えた書簡を集めた『不動智神妙録』(以下参考の「不動智神妙録」参照)は、「剣禅一味」を説いたものとして著名である。沢庵はいったん江戸に出て、神田広徳寺に入った。しかし京に帰ることはすぐには許されず、沢庵は同年冬駒込の堀直寄の別宅に身を寄せ、1634年(寛永11年)夏までここに留まった。宗珀とともに大徳寺に戻ったのち、家光が上洛し、天海や柳生宗矩、堀直寄の強い勧めがあり、沢庵は将軍徳川家光に謁見した。この頃より家光は深く沢庵に帰依するようになった。
同年郷里出石に戻ったが、翌年家光に懇願されて再び江戸に下った。沢庵は江戸に留まることを望まなかったが、家光の強い要望があり、帰郷することは出来なかった。家光は品川に萬松山東海寺を建て、沢庵を住持とした。家光は政事に関する相談もたびたび行ったという。書画・詩文に通じ、茶の湯(茶道)にも親しみ、また多くの墨跡を残している。
大根の糠(ぬか)漬けは一般的に「たくあん」と呼ばれているが、江戸時代の俳諧師・吾山の書物「物類称呼」には「たくあん漬けの名は、武州品川、東海寺開山の澤庵禅師、初めて製し給う、に依ってたくあん漬けと称する」書かれているという。
又、古今の書籍を引いて、本邦歴代の制度文物、及び社会百般の事項を類聚している、「古事類苑」には、香物と題して、澤庵の以下の句が掲載されているという。
「大かうの物とはきけどぬかみそに 打つけられてしほしほとなる」(後撰夷曲集 九雑 澤庵和尚)
一般には沢庵漬けの考案者が沢庵と言われているが、確たる証拠はなく異説もあるようだ。発案者でなくても広くひろめることには係っていた可能性は大きいだろうね。
以下参考の「雨の降る日は天氣が惡い」序、青空文庫に以下のような伊達政宗と澤庵和尚の問答が書かれていた。
”或日、澤庵和尚は千代田城に赴いた折、名うての荒武者伊達政宗に會つた。政宗が「雨の降る日は天氣が惡うござるが、どうしたものでござるな」
澤庵和尚はヂツと政宗を見た、政宗は瑞嚴寺の和尚に參じて禪も出來た武士である。
「左樣、雨の降る日は天氣が惡う御座るな」と同じやうなことを澤庵も繰返した。
* *
”ある日鷹狩の歸りに一天俄かに掻き曇り、雨は篠を突くやうにザア/\降つて來た。政宗も家來も濡れ鼠のやうに、眼もあてられない。すると今まで野良かせぎをしてゐたらしい百姓が「雨の降る日にや天氣が惡い‥‥」と大聲で唄つて行つた。
その時、政宗は百姓の聲を聞いて「ははあ、こゝだな」と、初めて澤庵禪師の言葉の意味が分つた。その時の彼の心持は家來共が雨に濡れて困つてゐる樣子を見て氣の毒に思ふ憐みの情以外の何物でも無かつた。つまり我を捨てたのである、我を捨ててこそ會得が可能なのである。‥‥と。”
あなたは、分かりましたか?
1646年1月27日(正保2年12月11日)、沢庵は江戸で没した。墓は東海寺にある。
澤庵は、死ぬ前に残す言葉を弟子が求めると自分で筆を取り、「夢」の一字を書いて筆を投げ捨てるようにして息を引き取ったという。
そして、「自分の葬式はするな。香典は一切もらうな。死骸は夜密かに担ぎ出し後山に埋めて二度と参るな。墓をつくるな。朝廷から禅師号を受けるな。位牌をつくるな。法事をするな。年譜を誌すな」と遺言を残したそうだ。
小説『宮本武蔵」を書いた吉川英治は、武蔵と澤庵が交接した核心はないが澤庵を登場させた。しかし、澤庵は、柳生但馬守に剣禅一如の奥義を伝えたほどの禅僧である。武蔵が澤庵の元で修行していたとしても不思議はない。
美濃国 八百津にある「宮本武蔵ゆかりの寺 大仙寺( だいせんじ ) 」は、宮本武蔵が禅修行をしたお寺 だそうだ。同寺によれば、京の都で沢庵和尚のもと剣の道を極めんと禅の修業に励んでいたが、沢庵和尚は「禅の道は愚堂に学べ」と言い残し、この世を去った。愚堂とは、美大仙寺八代目住職「愚堂国師」 のことで、宮本武蔵は、この美濃国 八百津 を訪れ、愚堂国師に禅の教えをこい、大仙寺二の門にある石の上で座禅を組み、寺に近い五宝の滝や昼なお暗い渓谷で厳しい剣術の修業を積んだと言い伝えられているという。
(画像は「沢庵和尚心にしみる88話」牛込覚心/編著)
参考:
沢庵宗彭 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B2%A2%E5%BA%B5%E5%AE%97%E5%BD%AD
江戸幕府 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%9F%E6%88%B8%E5%B9%95%E5%BA%9C
屈原 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%88%E5%8E%9F
不動智神妙録
http://www11.ocn.ne.jp/~namoshi/fudoutisinnmyouroku.htm
風の本棚13
http://www.bekkoame.ne.jp/~topos/book/book13.html#■沢庵「不動智神妙録」・水上勉「沢庵」
「古事類苑」飲食に関わる短歌
http://www2u.biglobe.ne.jp/~gln/55/5550/555005a.htm
「雨の降る日は天氣が惡い」序・土井晩翠(青空文庫)
http://www.aozora.gr.jp/cards/001081/files/43107_23644.html
宮本武蔵ゆかりの寺 大仙寺( だいせんじ )
http://www.windsnet.ne.jp/swing/shousai-tenpo.php?id=352
東海寺
http://www.asahi-net.or.jp/~DZ3Y-TYD/tera/toukaiji/toukaiji.html
漬け物まめ知識/歴史上の人物と漬け物との関わり
http://www.shin-shin.co.jp/mam03.html