今日のことあれこれと・・・

記念日や行事・歴史・人物など気の向くままに書いているだけですので、内容についての批難、中傷だけはご容赦ください。

日本ダービー記念日

2006-04-24 | 記念日
今日(4月24日)は、「日本ダービー記念日」
1932(昭和11)年4月24日、目黒競馬場で「日本初のダービー」が開催された。
ダービーは元々、第12代ダービー卿が始めた、ロンドン郊外で開催されるサラブレット3歳馬ナンバーワンを決めるレースの事で、イギリス競馬界最高の行事だった。
ダービー伯爵(Earl of Derby)というのは、イギリス貴族の爵名で、1485年トーマス・スタンリー(Thomas Stanley,1435年-1504年)が、薔薇戦争の功績で受爵して以来、現在の19代目まで、スタンリー家が保持しているという。初代は、イングランドのランカシャーに広大な荘園を領し、スタンリー家自体は、この初代から更に数百年先祖を辿ることが出来、1406年から1765年まではマン島も領有していたそうだ。5代伯から10代伯までは王位継承権も有していたが、10代伯の死で家系が断絶し11代目は2代伯の叔父から繋がる家系に移ったという。
この第12代目ダービー卿つまり、エドワード・スミス・スタンリー(Edward Smith Stanley ,1752年-1834年)が、自らの名を冠した競馬 オークス・ダービーを創設した。 イギリスの首相チャーチルは「ダービー馬のオーナーになることは一国の宰相になることより難しい」という名言を残したと伝えられているが、これ自体は作り話であり、ダービーに勝つことの難しさと、その名誉を物語っているものだ。その後、この「ダービー」は格式の高いレースとして世界中に広まり、現在では30を超える国々で「ダービー」の名を冠したレースが行われているようだ。
日本初の「ダービー」も、このイギリスのダービーステークスに傚って企画されたもので、1932(昭和11)年、距離2400mで行われ、出走馬は19頭、優勝したのは1番人気のワカタカだった。この日本ダービーの正式なレース名称は、第1回(1932年)~第6回(1937年) までは、「 東京優駿大競走」、第7回(1938年)~第14回(1947年) までは、「東京優駿競走」、第15回(1948年)~第16回(1949年) は「優駿競走」、第17回(1950年)以降 「東京優駿 」である。また、第1回・第2回は、目黒競馬場(現在は廃止)で行われたが、第3回(1934年)以降、東京競馬場 で、クラシック3冠レースの一つとして、1932年から始まって以来、戦争で2回中断した以外は、競走条件を一切変えずに施行されている。
皐月(さつき)賞は最もスピードのある馬、菊花賞は最強馬、日本ダービーは最も幸運な馬が勝つと言われるようだが、毎年大きな注目を浴びているが、兎に角、競馬を知らない人でも「競馬」というと「ダービー」を思い浮かべるくらいだろうが、私も、特に競馬ファンというものではないが、このダービーだけは見ている。その中で、ディープインパクト (牡3 歳、 騎手:武豊)の出馬した昨年(第72回 2005年5月29日)の 日本ダービーには感動した。
このレース、日本中央競馬会(JRA)によると無敗馬ディープインパクトの登場で盛り上がり、当日の入場者数は前年比14.8%増だったが、日本ダービーの売り上げは前年比1.5%の減となった。この日、ダービー単勝1番人気で、優勝したディープインパクトの単勝支持率は73.4%。これは日本ダービー史上最高人気だそうである。ディープインパクトの優勝タイムは、この前年、キングカメカメハが記録したレコードタイム2分23秒3と同タイムで、ディープインパクトもレコードホルダーとなった。
ディープインパクトは、2005(平成17)年にデビュー以来、無敗で皐月賞、東京優駿(日本ダービー)、菊花賞に勝利し、1994年のナリタブライアン以来11年ぶり史上6頭目、21世紀に入ってからは初めての牡馬クラシック三冠を達成した馬であるが、小さな馬なのに本当に早かった。まるで、飛んでいるといった感じだった。普通の競馬では感じることの出来ない感動を与えてもらった。このときの感動は、先日、日本の王野球がWBCで優勝したとき、又、トリノオリンピックでのフィギュアスケートで荒川 静香選手が金メダルを獲得した時の演技を見たときと同じ感動であった。
(画像は「ディープインパクト」。フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より)
参考:
ダービー(Wikipedia)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%80%E3%83%BC%E3%83%93%E3%83%BC_%28%E7%AB%B6%E9%A6%AC%29
東京優駿(日本ダービー)
http://csx.jp/~ahonoora/nderby.html
MSN スポーツ
http://inews.sports.msn.co.jp/columns/HORSE_1147.html

アースデー(地球の日)

2006-04-22 | 記念日
今日(4月22日)は「アースデー(地球の日)」
アースデー世界協議会等が主催。1970(昭和45)年、アメリカの市民運動指導者で、当時大学生だったデニス・ヘイズが提唱。
地球全体の環境をまもる為、ひとりひとりが行動を起こす日。
皆さんは、アースデイって何か知ってますか?私はよく知らなかったので、ネットで調べたところ、今では、Yahoo!ボランティア のトップに毎年アースデイ特集が掲載されている。
Yahoo!ボランティア - アースデイ特集2006
http://volunteer.yahoo.co.jp/feature/earthday2006/
1960年代終わりごろ、農薬や殺虫剤などの化学物質の過剰な使用が自然の生態系を破壊することを論証したレイチェル・カーソン著の「沈黙の春」がじわじわと浸透し、ようやく環境問題に人々の関心が集まり始めたものの、環境問題や、その保護のために力を注ぐ政治家はまだ少ない時代。その内の一人だったアメリカ・ウィスコンシン州選出のG・ネルソン上院議員は、学生運動・市民運動が盛んなこの時代に、環境のかかえる問題に対しても人々に関心を持ってもらおうと考えた。そこでベトナム反戦運動で盛り上がった「ティーチ・イン」(討論集会)を環境問題に応用できないかと、当時スタンフォード大学学生で全米学生自治会長をしていたデニス・ヘイズ氏に伝えた。このアイデアを受けて、1970年デニスは全米中にアースデイを呼びかけ、コーディネートし、4月22日をアースデイであると宣言したのが始まりという。
1970年から続くアースデイには、大人から子どもまで、国境・民族・信条・政党・宗派を越えて多くの市民が参加し、今では、世界184の国と地域、約5000か所で行われている、世界最大の環境フェスティバルとなっているそうだ。そして、1970(昭和45)年から1990(平成2)年までは10年に1度実施されていたが、1991(平成3)年からは毎年開催されているという。日本のアースデイは1990年のアースデイを出発点とし、『'90年代を国際環境の10年にしよう』と言う呼びかけに賛同した人びとが日本連絡所(連絡責任者 須田春海氏)」を結成したことから始まり日本全国の市民団体、環境団体に呼びかけ、日本でのアースデイを行い、その後10年間、各地アースデイの世話役を務めてきたそうだが、2000年に「国際環境の10年」を総括した『地球環境よくなった?』という書籍の出版を最後に日本連絡所は解散したそうだ。
そして、新たなる飛躍を目指して、2001年4月20~22日、東京では新たに実行委員長にC.W.ニコル氏を迎え、代々木公園と明治神宮、新宿パークタワーを会場に、坂本龍一氏のフリーライブをはじめ、さまざまなイベントが催され、また全国の会場とつなぎ、初めてインターネット中継されたそうだ。その後も東京でのアースデイは、毎年代々木公園をメイン会場に開催され、参加団体数、内容、来場者数も年を重ねるごとに多くなっており、国内最大の市民ボランティアによる環境フェアとして、すっかり定着しているという。
日本で最初の歩行者天国が銀座に誕生したのも、このアースデイがきっかけだそうだ。
ネット上には、日本語による、日本のアースデイ公式サイトも出来ており、「アースデー」についてよくわからない人は一度、覗いて見ては・・・。→ARETHDAY.JP
同HPでも言っているように、”環境問題は、ある意味では人とそれ以外の生物、人と地球、人と人のコミュニケーション問題ともいえる。”人は、この地球とのかかわりなしには、生きてゆけない。今では、アースデイ(地球の日)と名乗らなくても、地球環境を考える多彩な催しが様々な人びとによって日本各地で行われている。そのような中で、私たち一人ひとりにとって、今一番大切なことは、日常の身の周りの地球環境問題に責任を持つってかかわっていくことだろう。
今日の「アースデイ」に「私に何ができるのか?」・・・を考えてみるのも良いのではないか。あなたの身近なところでの活動は、アースデイ2006 各地の情報 を見ればわかるよ。手軽に出来ることからはじめてみるといいよね。
(画像は「地球環境カラーイラスト百科」。サブタイトル:森林・海・大気・河川・都市環境の基礎知識。Rosa Costa‐Pau (著)。出版社: 産調出版 )
参考:
ARETHDAY.JP(日本のアースデイ公式サイト )
http://earthday.jp/
Yahoo!ボランティア - アースデイ特集2006
http://volunteer.yahoo.co.jp/feature/earthday2006/


「マーク・トウェイン (米:小説家『トムソーヤの冒険』)の忌日。

2006-04-21 | 人物
今日(4月21日)は「マーク・トウェイン (米:小説家『トムソーヤの冒険』)の1910年の忌日。 <74歳>
マーク・トウェインの名は知らなくても、『トムソーヤの冒険』」や『ハックルベリー・フィンの冒険』の作家と言えば、知らない人はいないだろう。
マーク・トウェイン(Mark Twain)は、アメリカの小説家。本名はサミュエル・ラングホーン・クレメンズ(Samuel Langhorne Clemens)。1835年11月30日、ミズーリ州フロリダに生まれる。彼が4歳の時に一家は、出生地から50km程離れたミズーリ州ハンニバルの川沿いの町に転居。ここは当時舟運で栄え、ニューオーリンズとセントルイスから、人が日夜途絶えることがなかったという。そして、この町と住人達が、『トムソーヤの冒険』」や『ハックルベリー・フィンの冒険』などに現れる人物と場所のモデルとなっている。
幼くして父親を亡くし経済的にめぐまれなかったトウェインは、学校を中退し、小さい頃から新聞社で植字工見習として働き、そこで文章を書くことを覚える。やがて、子どもの頃からの夢である「アマゾン探検」を果たそうと、22歳のとき、蒸気船でアマゾンに向かったが、資金不足のため、そのまま蒸気船の水先案内人として働いている。その後、27歳でヴァージニア・シティの「テリトリアル・エンタプライズ」紙の記者になり、同紙に短い戯文を掲載した時、はじめて「マーク・トウェイン」という筆名を用いていたそうだ。これは、水先案内人時代の用語で、浅瀬の多いミシシッピ河を航行する蒸気船が、水深を測りながら運行する時の安全水域「水深ニ尋」の意味だそうだ。
『トムソーヤの冒険』」は、トウェインが港町ハンニバルで過ごした少年時代の思い出を題材にした伝記的小説であり、大人から見た子供の世界がユーモアを交えて描かれている。なお、タイトルの「冒険」(Adventure)の意味は「型破りの、痛快な、向こう見ずの行動又反抗」といったような意味のようである。『ハックルベリー・フィンの冒険』は『トムソーヤの冒険』の続編として書かれたが、前編以上の傑作とも言われている。以下参考の「松岡正剛の千夜千冊『ハックルベリイ・フィンの冒険』」にも書かれているように、『トム・ソーヤーの冒険』では、トムは学校や教会の束縛から脱出したい仲間を徒党に仕立て、有名なフェンスのペンキ塗りに始まり、教師のからかい、幼なじみの少女への思慕、深夜の墓地での殺人事件の目撃、はては洞窟での恐怖の三昼夜のあげくに大金を発見するという、それなりの少年としての型破りな波瀾万丈の冒険をやってのけているが、どこか通りいっぺんで、丸く収まっている。そのことに不満をもったのか、続編としての『ハックルベリイ・フィンの冒険』では、ハックにもっと本格的な「冒険」をさせている。ミシシッピ河のほとりの小さな村で飲んだくれの父親にみすてられ、浮浪児として生きたハックルベリーフィンはある上品な未亡人にひきとられ社会人としての教育をうけるが、天性の自由の子である彼にはそれが窮屈でたまらない。そこへ父親が現れ、彼をさらって川岸の小屋で一緒に住むようになるが、残虐な父に殺されそうになったハックは、命からがら脱走する。そして、社会が、「文明化」されることを嫌う少年ハックは、そのような社会を捨て、ニューオリンズに来て、そこからミシシッピの奥に向かわせる。 トウェインにとってはミシシッピーは自分の故郷であって夢の「世界」そのものである。そこには「大人の世界」より大きい「少年の世界」があるはずであった。しかし、ミシシッピーも忌まわしい文明に犯されていた。また、そこで、宿命的に出会った逃亡奴隷のジムが哀しそうに語る南部奥地に売られそうだという話を通して、ミシシッピーのような辺境な社会においてすら「迫害」の構造があることを知り、ジムとともにミシシッピ川を筏 で下る。その間に、大暴風雨やら奴隷探索隊の追及やら、川沿いの町での殺人事件やら南部の名家のいがみあいやらまざまな事件に遭遇するが、これらを乗り切っていくうちに、冒険だけでは得られない感動に心を動されるようになる。 それは黒人奴隷のジムが見せた深い人間味だった。この小説は、「ミシシッピ川の国民的叙事詩」と呼ばれている。トウェインは、型破りな辺境の少年ハックの目を通して、アメリカ社会の“病んだ真実”を喝破し、人間社会の矛盾を独特のユーモアで皮肉っており、国民から「アメリカ文学のリンカーン」として尊敬されているそうだ。
「我々は虹を見ても、未開人が抱くような敬虔な気持ちを持つことがない。
なぜならば、虹がどうしてできるのかを知っているからだ。
我々はそうしたものを詮索することによって獲得したのと、同じだけのものを失っている。」
これは、以下参考の「マーク・トウェイン格言集」に載っている言葉だ。この『・・・の冒険』の本は、主に少年・少女のために書かれたものであるが、大人たちにも、自分が少年少女時代にどんなことを感じ、考え、どんなことに夢中になったか・・・、そういったことを思い出してながら読むには良い本ではないか。
(画像:「 トム・ソーヤの冒険」マーク・トウェイン著 、亀山 龍樹 翻訳)
参考:
マーク・トウェイン - Wikipedia
a.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%83%BC%E3%82%AF%E3%83%BB%E3%83%88%E3%82%A6%E3%82%A7%E3%82%A4%E3%83%B3
マーク・トウェイン格言集
http://kuroneko22.cool.ne.jp/Twain.htm
マークトウェインの作品研究:「ハックルベリーフィンの冒険」を中心に
http://www.kgef.ac.jp/ksjc/ronbun/880450y.htm
松岡正剛の千夜千冊『ハックルベリイ・フィンの冒険』マーク・トウェイン
ww.isis.ne.jp/mnn/senya/senya0611.html

青年海外協力隊の日

2006-04-20 | 記念日
今日(4月20日)は、「青年海外協力隊の日」
1965(昭和40)年4月20日、外務省所轄の政府事業として青年海外協力隊(JOCV)が発足した。初代隊員はラオス、カンボジア、マレーシア、フィリピンに派遣された。
青年海外協力隊(Japan Overseas Cooperation Volunteers 通称:JOCV)とは、自分の持っている技術・知識や経験を開発途上国の人々のために活かしたいと望む青年を、派遣する独立行政法人国際協力機構(JICA)が行う海外ボランティア派遣制度のことで、派遣期間は原則として2年間。青年海外協力隊の協力分野は、農林水産、加工、保守操作、土木建築、保健衛生、教育文化、スポーツの7部門、約120職種と多岐にわたっている。応募資格は20歳から39歳までの日本国籍を持つ人。募集は毎年2回、春と秋に行っているようである。
今、日本からは、善意の多くの人たちが、海外でボランティア活動を行っており、今内戦状態のイラクなどでも活躍している人たちがいる。このような人たちの中には今まで、誘拐された上に殺された人たちもいる。日本政府はイラクのような危険な地域に入国しないよう呼びかけており、そのような政府が入国をしないよう呼びかけている地域へ入国して、もし危険な状態に陥っても、基本的には、それは自己責任で解決するものとしており、概ね、日本の国民はそれを当然としている。それでも、それを承知で、その地域の人たちの為に、活躍している人たちがいることについては、いろいろな見方があるが、少なくとも私には真似の出来ないことであり頭の下がる思いがする。
そのようなことから、今では、海外支援というと、すぐに、自衛隊のPKO活動やイラク復興支援活動を思い浮かべるが、この青年海外協力隊の派遣される地域はそれほど危険の無い比較的安全な国・地域に限定されており、治安の状態が悪い国については一時帰国などの措置を講じ、隊員の安全の確保を図っているようである。
世界にはまだ150を超える発展途上国があり、それらの国は、「紛争」「貧困」「環境悪化」「人口増加」「食糧不足」「教育格差」「ジェンダー(社会的性差)」など、さまざまな問題を抱えている。ODA(政府開発援助:Official Development Assistance)は、そうした国々に対して技術協力や特に資金援助を行っており、日本の出資額は世界一である。JICAは、そのODAのなかでも「技術協力」を担う中核的実施機関と位置付けられている。日本が途上国の問題に直接タッチするのではなく、途上国の人々の手で問題解決を図れるよう、人材育成などを行うことによって途上国の社会・経済が自立的・持続的に発展できるようになることを目的として活動している。 単にお金を出すだけではなく、このような地道な人的支援活があってこそ、日本の国が世界の国から高く評価されようになるのであろう。政府はこれらに従事する人たちの身の安全に万全を尽くすとともに、支援者の養成と帰国後の就職等の問題などフォローを十分にしてもらいたいものである。
(画像は、『転機の海外援助』 JICA理事長 緒方貞子 編.NHK出版)
参考:
国際協力機構(JICA)
http://www.jica.go.jp/
JICA-ボランティア 青年海外協力隊
http://www.jica.go.jp/activities/jocv/
独立行政法人国際協力機構法
http://law.e-gov.go.jp/htmldata/H14/H14HO136.html
開発途上国 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%96%8B%E7%99%BA%E9%80%94%E4%B8%8A%E5%9B%BD
開発途上国
http://www.eic.or.jp/ecoterm/?act=view&ecoword=%B3%AB%C8%AF%C5%D3%BE%E5%B9%F1


ダーウィン(英国。自然科学者、進化論を提唱『種の起源』) の忌日

2006-04-19 | 人物
1882年 の今日(4月19日)は、ダーウィン (英:自然科学者、進化論を提唱『種の起源』) の忌日。<73歳>
チャールズ・ダーウィン(Charles Robert Darwin)は、1809年2月12日 生まれ。英国の自然科学者。1831年、ケンブリッジ大学で、神学と自然科学を学ぶ。『進化論』を提唱した人としてしられている。
ダーウィンの進化論は、生物の種が時間とともに変化するものであり、現在見られる様々な生物は、その変化の中で生まれてきたものであるという学説。ダーウィンはガラパゴス諸島で島ごとにフィンチやゾウガメが少しずつ異なっていることを知る。後に、このガラパゴス諸島での観察から着想を得て「自然淘汰」による進化論を『種と起源』によって発表したのは1859年のことであった。このなかで、自然選択(自然淘汰)、生存競争、適者生存などの要因によって、常に環境に適応するように種が分岐し、多様な種が生じると説明した。しかし、このときには、まだ、動物の進化について記しただけで、人間の進化の問題にはほとんど触れてはいない。又、この本のタイトルは『種と起源』となっているが、この中では「進化」を論じているだけで、「起源」は論じられていない。ただ、ダーウィンは、種の起源」を発刊したとき、ヒトもサルの一種から進化したであろうことは知っていただろうが、聖書の天地創造説を信じて疑わない人々がいた時代に、ダーウィン自身が、敬虔なキリスト教の信者でもあり、そのようなことを書けば、当時の人々にどのような衝撃を与えるかを心配してその部分を削除したのであろうと推測されている。しかし、それでなくても、当時のヒトには十分なショックを与えただろうことは察せられる。そして、「種の起源」刊行後、大論争の末にようやく思い腰をあげたダーウィンが人間の進化にふれたのは11年後の1871年の『人間の由来』によってであり、ここでダーウィンは人間だけが持つと考えられていた特徴が他の動物の持つ未熟な形質に還元できることを説明し、どのようにして現在のような発展した形質を獲得するに至ったかの仮説を展開したのだそうだ。 DNAと遺伝子という進化の本質が知られていなかった時代の書であるにも関わらず、この本には驚くほど本質を突いたダーウィンの観察眼が表れているという。このことは、「ダーウィン著作集〈1〉人間の進化と性淘汰(1) 」 長谷川 真理子 (翻訳)で詳しく述べられている。
私は、ダーウィンについての知識は、学生時代に学んだことぐらいしか、知らないが、人間や生き物の起源が進化論によって 説明されるとき、全ては偶然に発生し、アメーバから 徐々に何億年もの時間を経て人間に進化したとするが、この ような進化論に対して、聖書の天地創造説では全ては神が創造したと説明していた。昨年4月2日、第264代ローマ法王ヨハネ・パウロ2世が永遠の眠りにつかれた。ヨハネ・パウロ2世は、17世紀前半、地上説を唱えて宗教裁判で異端とされたガリレオ・ガリレイの名誉を回復したこと、11世紀から13世紀にかけて聖地エルサレム奪回を大義名分にした十字軍による東方正教会やイスラム教諸国に対する残虐行為や「新大陸発見」後の先住民への虐待を詫びたこととともに、ダーウィンの新化論をも認めたことなど、はるか遠い昔にカトリック教会が犯した数々の過ちを認めたことで、世界の宗教者を驚かせたことでしられている。ヨハネ・パウロ2世の主治医だったレナト・ブツォネッティ医師は最近出版した本の中で、ヨハネ・パウロ2世の最期の言葉は「神の御許に行かせてください」だったことを明らかにしたという。ただ、 ダーウィンは、二匹のキリンと一本の高い木を引き合いに出し、首の短いものはエサを摂れずに倒れ、首の長いものが生き残り、その性質が子孫に伝えられて生物は変化していくといったものになるといった簡明な判りやすい理論 を展開している。しかし、進化論のなかでは、魚類から両生類に進化したとされているが、 今まで、魚類、両生類などの化石は多数発見されているが、 その中間型の化石はほとんど発見されていないようであり、これは一つの謎である。 確かに生物の個体についての理論上の進化の過程は、納得できるものの、その生命(「命のタネ」)の誕生が解き明かされたわけではない。生命の誕生については、今のところ、私も、神の創造を信じるしかないように思われる。
また、ダーウィンの「自然淘汰」による進化論の考え方は、弱肉強食、つまり、弱者を排除することを正当化する思想へ結び付けられることもあったろう。現実に、自然の中に生きる動物の世界には、その原理は生きている。そして、今、世界の国の中で、自由主義の名の下に、強いものが勝ち、弱いものは負けて当然・・・これが自然の考え方だといった思想が広まりつつあるように思われる。そのような背景を下に、日本でも、次第に、強いものと弱いものの二極分化が始まっており、強いものが生き残るために弱者が淘汰されようとしているように思われる。進化論の自然選択(自然淘汰)、生存競争、適者生存などの要因から、これからの人間はどのような人間へと進化?するというのだろうか????。ヨハネ・パウロ2世じゃないが、仏教徒である私は、ただ、少しでも仏に近いところへ行きたいと願っている。生物の進化については、私のブログ今日(4月17日)は「恐竜の日」でも少し触れたので、興味のある人は見てね。
(画像:「ダーウィン著作集〈1〉人間の進化と性淘汰(1)」 翻訳,:長谷川 真理子 )
参考:
チャールズ・ダーウィン - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%81%E3%83%A3%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%82%BA%E3%83%BB%E3%83%80%E3%83%BC%E3%82%A6%E3%82%A3%E3%83%B3
進化論 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%80%B2%E5%8C%96%E8%AB%96
生命のよもやま話
http://www.asahi-net.or.jp/~pw2t-mnwk/Life/index.html
実験観察で学ぶやさしい生物学・第7回進化
http://www.geocities.jp/nomuk2001/community2/shinnka/shinnka.htm
ダーウィニズム 
http://www.geocities.co.jp/NatureLand/4270/imanishi/Daw.html