今日のことあれこれと・・・

記念日や行事・歴史・人物など気の向くままに書いているだけですので、内容についての批難、中傷だけはご容赦ください。

グレース・ケリーがモナコ大公レーニエ3世と結婚した日

2006-04-18 | 歴史
1956年の今日(4月18日)は、 アメリカの映画俳優グレース・ケリーがモナコ大公レーニエ3世とが結婚 した日。
突如、ハリウッド女優グレース・ケリー(Grace Patricia Kelly)とモナコ大公レーニエ(Rainier)3世が婚約を発表したのは1956(昭和31)年1月5日のことであり、この日は「「シンデレラの日」とされている。このグレース・ケリーとモナコ大公レーニエ3世との結婚 のことについては、私のブログ 今日(1月5日)は「シンデレラの日」でグレース・ケリーのことを中心に書いたので、そこで見てください。今回は、一方のモナコ大公レーニエ3世とモナコ公国のことを中心に書こうと思う。
米女優グレース・ケリーとの「世紀の恋」で話題を呼んだ地中海岸のモナコ公国の元首レーニエ3世公が亡くなったのは昨2005年4月6日のことであり、その葬儀は15日正午(日本時間同午後7時)からモナコ大聖堂で行われた。公妃グレースは、1982年、52歳の時モナコの高速道路をドライブ中、心臓発作を起こして交通事故となり、意識が回復せずに翌日死亡した。大公のなきがらは16日、大聖堂地下墓地で眠るグレース妃の隣に埋葬された。<享年81歳>
モナコ公国、通称モナコは、西ヨーロッパの都市国家であり、首都モナコ市がそのまま全領土となる。モナコ公国はヴァチカン市国に次ぐ世界第2の小国。南仏アルプ・マリティーム県の中に飛び地をなす地中海に面した風光明媚な観光国。3世紀末のグリマルディ家の統治に始まる。時の大国の保護下で生き延び現在に至る。レーニエ3世は第二次大戦後の1949年26才時に即位。祖父ルイ2世の跡を継ぐ。即位7年目の1956年、“クール・ビューティー”と呼ばれたアメリカ女優グレース・ケリーと結婚。以後、モナコにはアメリカンタイプのホテルが建設され、カジノでのアメリカンゲームも普及させ、企業家よろしくモナコ公国を一大金融国家に変貌させた。フランスの地中海沿岸コート・ダジュールのイタリアとの国境近くに位置する約2Km2の国土に、3200人の住民と4100人の就業者、そして失業者はほぼ皆無とも言われる。この国の国内生産は9億ドル、650億ユーロがモナコの銀行に納められているという。1960年代初頭、特に税制特例を設け外国金融機関の誘致をした。これが富裕層を呼び込む結果となり、当時のフランス大統領ド・ゴールと対立したが、フランス人には課税することにより和解。経済協力開発機構OECDはマネー・ロンダリング問題で今なおモナコ公国を非難しているそうだ。モンテ・カルロは香港に似る。4500社の企業がモナコに本社を構えるという。
現在では、ホテル・カジノなどの観光業以外にも、精密機器などの工業も発展し、特にカジノによる国家収入は以前は95%にも達していたが、現在では5%程度になっているという。
レーニエ3世とモナコ公妃(グレース・ケリー)との間には、1957年長女カロリーヌ、1958年長男アルベール、1965年次女ステファニーが誕生している。モナコの王位継承は特殊で長男が生まれない場合、フランスへ併合することになっていたが、2002年に大公家断絶となった場合でもモナコの存続を保証する条約を締結した。そして、昨年47歳のアルベール2世(Albert II de Monaco )が、2005年3月31日、摂政に就任し、同年4月6日、レーニエ3世が逝去したため、7月12日即位式が行われた。
以下参考のモナコ政府観光会議局公式サイト によると、古代には「ヘラクレスの港」と呼ばれていたモナコのある地域には、海洋民族であり貿易の民であったフェニキア人や古代ギリシア人、さらに地中海を制覇した古代ローマ人が往来していた。 13世紀になると、現在、大公宮殿がある場所にジェノヴァ人が要塞を築き、北イタリアの影響を強く受けることになった。その後、ローマ法王派(ゲルフ党)とドイツ皇帝派(ギベリン党)の抗争が激しさを増す中、1297年、ゲルフ党であったフランソワ・グリマルディが修道僧に姿を変えて、要塞を手中におさめ、モナコ公国の基礎を築いたそうだ。 その後のモナコ統治者は以下参考のアルベール2世 (モナコ大公) のモナコ統治者の一覧を見るとよい。
日本ではローマ法王の死去のニュースは大きく報じられたが、モナコ大公のレーニエ3世に関する話題はほとんど伝えられていない。モナコ国の政体は、大公を元首とする立憲君主制である。また、フランスの保護国であり、外交・軍事はフランスが責任をもつている。1993(平成5)年、国連に加盟。2004(平成16)年、ヨーロッパ評議会のメンバーとななっている。ただし、国際連合加盟国の中で、日本と公式な国交のない2つの国のうちの1つ(もう1つは朝鮮民主主義人民共和国)である。ただし、パリにある両国大使館で接触は行われている。
私などもモナコのことは、レーニエ3世が、アメリカの大人気女優グレース・ケリーと結婚するまでは全く知らなかったよ。レーニエ大公はグレースとの結婚を旨く利用して国を企業と同じ様に大きく発展させたよね。
(画像は、映画『上流社会』1984年リバイバル時のチラシ)
参考:
モナコ政府観光会議局公式サイト monaco
http://www.monaco.or.jp/
モナコ - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A2%E3%83%8A%E3%82%B3
アルベール2世 (モナコ大公) - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%AB%E3%83%99%E3%83%BC%E3%83%AB2%E4%B8%96_(%E3%83%A2%E3%83%8A%E3%82%B3%E5%A4%A7%E5%85%AC)
タックスヘイブン(オフショア)とは?
http://www.777money.com/yougo_kolumn/yougo/tax_haven.htm


恐竜の日

2006-04-17 | 記念日
今日(4月17日)は「恐竜の日」
今日は何の日~毎日が記念日で今日(4月17日)の記念日をみると「恐竜の日」とあった。そして、”1923(大正12)年、アメリカの動物学者ローイ・チャップマン・アンドルーズが、ゴビ砂漠へ向けて北京を出発した。その後5年間に及ぶ旅行中に、恐竜の卵の化石を世界で初めて発見し、その後の本格的な恐竜研究の始りになった。”・・・とあった。しかし、4月17日が、出発をした日なのか、発見した日なのかは調べてみたがよく分らなかった。
恐竜といえば、スピルバーグ監督の映画『ジュラシック・パーク』(1993年)が思い浮かぶ。ティラノサウルスの迫力もすごかったが、主役は俊敏で獰猛な小型恐竜ヴェロキラプトル。恐竜の子育てから巨大隕石の衝突による地球環境の劇的な変化による絶滅という最新の古生物学研究が描き出す新しい恐竜像を再現していた。その後、2005(平成17)年には、
ドイツ南部のジュラ紀後期(約1億5000万年前)の地層から、ドイツ・ミュンヘン大などの研究チームが小型恐竜の全身骨格化石が発見されたり、中国・遼寧省の白亜紀前期の約一億三千年前の地層から,恐竜を食べていたとみられる哺乳類の化石2種類が発見されたなど最近、世界のあちこちで、恐竜の化石が発見された報道もなされている。「恐竜博2005(The Dinosaur Expo 2005)・サブタイトル:恐竜から鳥への進化」も開催されており、「恐竜は進化して鳥になった」という学説をもとにしたRPG風ゲームゲームまで作られるなど、今一寸した恐竜ブームが見られる。
46億年前に地球が形成され、最初の生命といわれているものが現れたのはごく単純なバクテリア細胞である。そして、5億年前頃、カンブリア紀といわれる時代に地球の環境に適応して様々な形を持った生物が爆発的に現れた。これらの生物は一定の場所に生息した「硬い殻をもった生物」であった。それは、アノマロカリス(参考のアノマロカリス・ホームページ参照)のような恐ろしい肉食動物の登場があったからだという。これら生物は生き残りを賭けた戦いを繰り広げ、その中で生き残ったうちの一つは、ピカイヤ(イカのような生物)という身を守る為の堅い殻も、トゲも持っていない弱々しい生き物で、これが、私達人間の祖先といわれている。この生物が生き残りに選んだのは、脊索だった。脊索は現在の背骨にあたる部分であるピカイヤはこの脊索を作ることによって、体をくねらせて泳いだ。この頃の海中には様々な生物が生息していたが、陸にはまだ生物は生息していなかった。その後、陸と陸の衝突が起こり、山脈が誕生し、同時に今までには無かった河が誕生した。魚達にとって生存を賭けた戦いの場でもある海は、危険な場所でもあった。それは、彼らを襲うアランダスピスなどが生息していたからだ。魚達はアランダスピスから逃げるために安住の場所を探した。そして見つけたのがこの河だった。しかし、それには問題があった。塩分濃度だ。これを克服した生物がケイロレピスである。塩分濃度を克服するため、これより前に、外側に甲羅を持った魚はいたが、体の中に固い背骨を持つ魚はいなかった。ケイロレピスは、3億9千万年前に登場した背骨を持った最初の生物だ。背骨を持った理由は「強い筋肉を支える」ということも一つの理由であるが、それ以上に直接的な理由としてカルシウムの不足を補うためだと考えられている。骨にはマグネシウム、リン、硫黄、亜鉛、さらには鉄など、生命にとって必要なミネラルが含まれている。それらは全て、海に含まれているものと同じなのだそうだ。背骨の無い生物の多くはその時に絶滅したが、ケイロレピスは、河の王者として生き残った。そして、ケイロレピスの作った4枚のヒレは、今の魚達に受け継がれた。魚達はこのヒレを活かし、水の中でいかに効率よく泳ぐかを競ってきたのである。と同時に、こうした魚達とは全く違う生き方を選んだ魚が、ケイロレピスと同じ時代に登場した。ユーステノプテロンである。 ユーステノプテロンは背骨の他にも4枚のヒレにそぞれぞ7本の指のような骨をもっていた。このユーステノプテロンが河の生物の中では人間の直接の祖先だったと考えられているようだ。実際に、人間にも生まれる前には7本の骨があるそうで、生まれた時には消えているが、親指の外側と小指の外側に、6本目と7本目の骨の跡があるのだという。
また、ユーステノプテロンは酸素が少ない場合に備え、肺呼吸ができたと考えられており、背骨・肝臓・骨・肺などが出来上がっっていた。そして、ユーステノプテロンの河の底に住むという選択が、ヒレの中に骨を作り、重力に逆らいながらも陸という新世界を目指して進化し、そして、ついに、最初に4本の足を持った動物が、ユーステノプテロンから1千万年後に現れた。その世界最古の4本の足を持った動物は体の長さは1,5メートル、姿は今のオオサンショウウオに似ており、4本の足は陸の上を歩くのではなく、水の中を歩くために必要だったようだ。このころ陸上では植物が進化し、10メートルを越えるシダ植物が森を作り、草木の作り出す影や茂った場所、そして土の中には、小さな虫も住んでいた。陸は、既に緑の大地に変わっていた。しかし、最初に4本の足を持った動物達は、陸に上がるためには最後の課題、重力という壁を乗り越えることが必要であった。そして、最後の重力という壁を乗り越えるために肋骨も徐々に形成していった。それが、1千万年後に現れた、イクチオステガだそうだ。頭蓋骨の大きさから、体長さは1メートル以上あったと考えられている。 海から河へ、そして河から陸へ、1億年という長い歳月をかけ海から自立した生命は、陸という新しい環境で生息できるようになった。これが、今の私たちにつながる動物の歴史の始まりだそうである。
シルル紀には両生類が陸への進出を進めていた。三畳紀・ジュラ紀・白亜紀は恐竜達の時代であり、大陸にはシダ植物が茂り、恐竜達は巨大化していった。巨大化の際には様々な問題があった。その一つが草食動物の歯であり、丈夫な歯を求めると頭が重くなってしまうために恐竜達は胃に石をためて、消化をしていたことが分かっているという。裸子植物も地上に現れており、風に乗せて大陸に種を広げていった。その後、被子植物が繁栄した事で大型の草食恐竜バロサウルスなどは絶滅していったと考えられている。その後、被子植物に対応したトリケラトプスが地上に現れた。恐竜の時代には既に空を制した生物も存在していた。それが翼竜だ。1億5000年前の翼竜であるプテロダクティルスは背骨を持っており、 少しでも軽くするために骨の中を空洞にするという進化を遂げた。また、翼竜は鳥とは違って、現在でいう、凧のように膜を伸ばして、グライダーのように風を受け飛行していたと考えられているそうだ。この翼竜が空を制している時に、さらなる挑戦も始まっていた。それが始祖鳥だ。始祖鳥は羽を持っていながら、長い尻尾をもっており、足の骨は爬虫類の特徴をもっている。恐竜から鳥類に進化する中間の生物と考えられていたようだが、始祖鳥は現生の鳥の直接の祖先ではなく、恐竜から鳥類に進化する段階で、袋小路にはまり込んだ生物だとも考えられているそうだ。白亜紀にもこの世界に生きる生物はさらなる挑戦を続けていたが、6500万年前、巨大な隕石が衝突した影響で雲が太陽をさえぎり、植物が育たず、恐竜は絶滅していった。翼竜も例外ではなく、羽毛が無いために体温の保温が出来ず、同様に絶滅していった。しかし、恐竜が絶滅していく中で、かなり小さい生物が木の実などを食べ、新時代が来るのを待っていた。それが、哺乳類である。哺乳類も多種多様の進化を遂げ、猿の仲間の一部が森の生活を捨て、草原に旅立っていった。次第に直立で二足歩行するようになった。また、草原には隠れる場所がないために、肉食動物達が"彼ら"を襲っていた。猿の仲間である"彼ら"はこれらの動物に対し、草原という環境において運動能力では勝てないことを悟り、知能によって彼らに対抗していった。そして、その中の猿の一種が人間の祖先だ。 海は生命を生み、生命を育んできた。海には生命が生きる上で欠かせない、大切な物質が溶けこんでいる。骨を持つことは大切な海を体の中に持つことである、このことによって、地球上のあらゆる環境で生きることができるようになった。ピカイヤはその後、魚に進化し、さらに魚からカエルや山椒魚のような両生類に進化して陸上に進出した。そして、爬虫類や哺乳類が生まれた。もし、ピカイヤが生き残る事ができずに絶滅していたら、哺乳類もそして、私達人間も生まれる事がなかっただろうといわれている。我々人を始めとする地球上の生物は、生命のたどった上陸への歴史を体験しながら誕生する。母親の子宮は、胎児を育む海(羊水)であり、宿ったばかりの胎児には、魚のエラのような形が現れる。手足の形は、最初魚に似たヒレから始まり、そのヒレは次第にくくれて、5本の指がハッキリと見えてくるという。そして、出産直後の産声は初めての空気呼吸の証であり、まさに地球という海からの上陸の瞬間でもあるという。
この「恐竜の日」に、我々人間が地球上に誕生した歴史などを見ていると、その先祖は、猿に近い生物であり、その前は、小さな恐竜でもあった。そして、更に辿ってゆくと、その前は今私達が日常食べている魚の先祖と同じ生物に辿り着くのである。人間は、文明だ、科学だのと大きなことを言っていても、母親からの誕生からして、地球に初めて生物が誕生したときと同じ営みが繰り返されていることを考えると、いかに自然をそして、人以外のあらゆる動植物等を大切にしてゆかなければならないかが分るだろう。
今日は少し、以下参考のHPをで人類誕生の歴史でも勉強してみませんか。このブログは、以下参考の中から、特に、生命の扉地球と共にある生物の進化などを参考にまとめた。お子様向きには、福井県立恐竜博物館などが分りやすいかもしれないよ。
(画像はスピルバーグの映画「ジュラッシック・パーク」のチラシ。1993年米)
参考:
FPDM: 福井県立恐竜博物館
http://www.dinosaur.pref.fukui.jp/
■古世界の住人(古生物、絶滅動物、現生動物)図鑑
http://www.geocities.co.jp/NatureLand/5218/
巨大動物図鑑
http://big_game.at.infoseek.co.jp/index.html
ジュラシック・パーク - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A5%E3%83%A9%E3%82%B7%E3%83%83%E3%82%AF%E3%83%BB%E3%83%91%E3%83%BC%E3%82%AF
恐竜- Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%81%90%E7%AB%9C
翼竜 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%BF%BC%E7%AB%9C
アノマロカリス・ホームページ
http://www.museum.fm/anomalocaris/index.htm
生命の扉
http://www.wink.ac/~ogaoga/seimeiTOP.html
地球と共にある生物の進化
http://www.crc-japan.com/research/c-histry/index2.html
ヒトがサルと分かれた日
http://www.geocities.co.jp/HeartLand/2989/life8.html
やまびこネット・進化館/制作:日本博物館協会
http://www.j-muse.or.jp/joyful/virtual_museum/sinkakan/sinka01.html

ボーイズビーアンビシャスデー

2006-04-16 | 記念日
今日(4月16日)は「ボーイズビーアンビシャスデー」
1877(明治10)年4月16日、札幌農学校(現在の北海道大学農学部)の基礎を築いた教頭 W・S・クラークが、「Boys,be ambitious.(青年よ、大志を抱け)」という有名な言葉を残して帰国の途につくため北海道を去った。
1876(明治9)年8月14日、日本最初の官立能学校である札幌農学校が開校し、その初代教頭として日本政府の熱烈な要請を受けて招かれたのは、アメリカのマサチューセッツ農科大の学長だったW・S・クラーク(William Smith Clark)博士であった。日本側の熱烈な要請により農学、化学、英語教師そして教頭として、北海道開拓のための農業技術者を養成することを目的とする札幌農学校(現・北海道大学)に赴任してきたのは、1876(明治9)年7月のこと。17日から授業が開始された。ただし、「札幌農学校」(Sapporo Agricultural College)という校名に正式に改められたのは9月9日からである。1872(明治5)年に北海道開発に従事する人材を育成するために東京の芝増上寺に設けられた開拓使仮学校が、1875(明治8)年に札幌に移転して札幌学校と名を改め、さらに1876年に札幌農学校となった。今日の北海道大学の前身である。ちなみに当時の札幌はわずか戸数約900、人口3,000人弱だったという。彼は、マサチューセッツ農科大学の休暇を利用して訪日という形をとったようである。彼は札幌農学校の校則について、開拓使長官黒田清隆に「Be Gentlemanで十分である」と進言し、8ヶ月の在任中、クラークは黒田清隆の反対を押し切って学生たちに聖書を配り、キリスト教に基づく道徳教育を実践したといわれている。
そして、翌1877(明治10)年5月に離日するが、北海道を去る時島松の馬上で、見送った1期生の学生達に向って叫んだ言葉が前述の有名な言葉「Boys, Be ambitious!」だということになっている。しかしこの言葉が、本当にクラーク博士が口にしたかどうかの確証は残っていないようだ。
この言葉のことについては、以下参考の北海道大学 附属図書館 のW.S.クラーク博士関係文献目録にある"Boys, be ambitious!"についてで詳しく見解が述べられている。高校や中学の教科書の中にも次のような言葉がある。
 “Boys,be ambitious! Be ambitious not for money or for selfish aggrandizement,not  for  that evanescent thing which 
 men call fame. Be ambitious for the attainment of all that a man ought to be.”
この言葉がこのように広まったのは,昭和39.3.16の朝日新聞「天声人語」欄によるものらしく、「青年よ大志をもて。それは金銭や我欲のためにではなく、また人呼んで名声という空しいもののためであってはならない。人間として当然そなえていなければならぬあらゆることを成しとげるために大志をもて」・・といったような訳文が添えられているようだが、ここてはクラーク博士の「大志」の内容は、富や名誉を否定して内面の価値を重んじる倫理的なものとなっている。これは”Boys be ambitious in God”として,神への指向を強調した人々の解釈と通ずるものである。しかし,この言葉がクラーク博士のものであることを認めるには、いくつかの無理があり、まず、”Boys,be ambitious!”は帰国に際し島松まで見送った学生たちに向って馬上から最後に一声のべられたもので(第一期生大島正健博士の著書による)、その時の状況からみてこれは「さようなら」に代る別れの言葉であった。当時では、この言葉でさえ多くの学生たちが聞きとったことは疑わしい程である。、次に、クラーク博士は決して富や名誉を卑しんでいなかったようだ。例えば農学校の開校式の演説でも,学生たちに向って「相応の資産と不朽の名声と且又最高の栄誉と責任を有する地位」に到達することをよびかけている。日本が因襲的な身分社会から脱却した現在では、努力によっては国家の有為な人材となることを妨げるものは何もないことをのべ、学生たちの青年らしい野心(lofty ambition)を期待したのである。このためにとくに勤勉と節制の必要を説いているが、ここには「神の恩寵」を確信して世俗的な職業に励むピューリタンの精神がよくあらわれている。いずれにしても、この言葉が、クラークの言葉かどうかは、確実に証明するものはないようであるが、この言葉は長い間埋れたのち、札幌農学校が確固たる基盤を獲得し、学生たちの間に自信と誇りが培われた頃に思い起され、特別の意味を与えられるようになったようである。・・と、結んでいる。
クラークは帰国後、スポンサーを募って7つの鉱山を買い占め、一時は順調に経営していたもののすぐに破綻し、出資者の一人である親族から訴えられてしまい、敗訴こそ免れたものの名声と信用を失ってしまったという。そして、帰国からわずか9年後、59歳で不遇の一生を閉じているそうだ。
1869(明治2)年新政府は激戦の後五稜郭を落城させた。同年7月北海道開拓にあたる官庁として開拓使が設置された。初代長官には、鍋島直正(佐賀賀藩)が任ぜられたが、すぐ病気辞任し、東久世道禧(ひがしくぜみちとみ)が後任となり、島義勇(しまよしたけ)判官らと函館に着任した。8月15日、蝦夷地を北海道と改称し、開拓史の出張所を函館に置いた。1882(明治15)年に廃止されるまでの、開拓史時代の始まりである。その後、兵部大丞黒田清隆は開拓次官に任じられた。この開拓次官に就任した黒田清隆は北海道の開拓のためには外国の技術の導入が不可欠と考え、1871(明治4)年自ら渡米し、当時アメリカ政府の農務局長であったホーレス・ケプロンを開拓顧問兼御雇教師頭取として招聘した。北海道の開拓はお雇いアメリカ人に負うところが多い。後に北海道畜産の父と呼ばれるエドウイン・ダンは,米国から牛140頭と緬羊180頭をつれて来日し、真駒内・新冠の牧場を開き酪農を指導した。札幌農学校の教頭クラークも僅か8ヶ月ながら、キリスト教精神に基づく人格教育をほどこして強い感化を残した。
札幌農学校は教頭クラークのほか新たに、マサチュ-セッツ農科大学出身のホイーラーとペンハローの2名のお雇い外国人教師が着任した。クラ-クは教頭(副校長)のかたわら農学、植物学および英語の授業を担当、ホイーラーは数学、工学および英学、ペンハローは植物学、化学、農学および英学を担当。翌年2月には、同じくマサチュ-セッツ農科大学卒業のウィリアム・ピー・ブルックス(William P.Brooks(B.S) が来校し、もっぱら農学を担当することになった。そもそも、札幌農学校設置の目的は北海道の開拓に有用な人材の養成にあったため、修業年限は4年、官費生は予算の関係上50名を限度としていた。はじめ1人1人1ヶ月金13円を支給し、卒業後は籍を北海道に移し、5年間道内に居住して、開拓使に奉職する義務が負わされたそうだ。ただし例外的に自費生も認められていたという。名は農学校ではあったが、内容は非常に広範にわたっており、名実がともなわない感じはあったが、当時北海道の拓殖上、さまざまな方面に活動する人材の育成を必要としていたからであり、それが学課のうえに反映されたとみられる。そしてこのことが、内村鑑三・新渡戸稲造ら特異な人材を輩出させることになったのだろう。第1期の生徒は、札幌学校からの者13名と、東京英語学校(東京大学予備門の前身)または東京開成学校(東京大学の前身)からの者11名、合計24名であった。もっとも、学力不足や病気などのため退学者が続出し、第1学年の課程を修了した者は16名であったという。クラークの後任には、ホイラーが教頭となり、ペンハロー、ブルックスの3人がクラークの意思をついだ。
最近のマスコミ報道を見ても、日本の若者には、将来に対する希望を持てていないものが多いと言う。ある意味で、現在社会が完成された社会となっており、個人の立ち入る余地がなくなってきた面があるのかもしれないが、それにしても、若者らの覇気のなさが気になるところである。クラークの言葉かどうかは知らないが、改めて、「青年よ、大志をいだけ(ボーイズビーアンビシャス)」と言いたい。
(画像は、北海道大学のクラーク像。週間朝日百科・日本の歴史より)
参考:
ウイリアム・スミス・クラーク - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A6%E3%82%A4%E3%83%AA%E3%82%A2%E3%83%A0%E3%83%BB%E3%82%B9%E3%83%9F%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%82%AF%E3%83%A9%E3%83%BC%E3%82%AF
北海道大学 Hokkaido University
http://www.hokudai.ac.jp/
日本の科学技術史における北海道大学の122年
http://www.hps.hokudai.ac.jp/hsci/hokudai/table.htm
クラ-ク博士の遺徳の顕彰を中心として
http://www2.ocn.ne.jp/~hokudaic/index2.html
エドウイン・ダン記念館
http://www2.ocn.ne.jp/~caxton/edwin.html

「梅若忌」。謡曲や浄瑠璃の『隅田川』の題材となっている、梅若丸が亡くなった日。

2006-04-15 | 人物
今日(4月15日)は「梅若忌」
謡曲や浄瑠璃の『隅田川』の題材となっている、吉田少将惟房の子・梅若丸が976(天延4)年に12歳で亡くなった日。
その主人公「梅若丸」を供養した「梅若塚」は、今、東京・墨田区堤通の木母寺(もくぼじ)にあり、木母寺は中世の「梅若伝説」ゆかりの寺で開基は古く、天台宗東叡山に属する寺で、貞元年間(976~78)の草創とされている。梅若塚(梅若山王権現堂)の由来については、同寺に現存する絵巻物「梅若権現御縁起」で伝えられている。
梅若丸の死んだとされる3月15日は毎年「梅若忌」とされ、江戸時代には大念仏が行なわれていたらしいが、この日はよく雨が降り、その雨は「梅若の涙雨」だと言われていたそうだ。
小林一茶も「雉子鳴かかの梅若の涙雨」の句を詠んでいる。今日では、月遅れの新暦4月15日に「梅若忌」が催され謡曲「隅田川」が奉納されているそうだ。
謡曲「隅田川」作者は、世阿弥の長男・観世元雅(かんぜ・もとまさ)。
元雅の謡曲では、”隅田川の川岸で大念仏が行われるので、渡し守が乗船の客人を待っていると、ひとりの狂女が来て乗船を頼む。渡し守は女に対して、「狂って見せたら、乗せてやろう」と言うのに対し、狂女は、最初はたしなめていたが、ついに発作的に狂ってしまう。渡し守はそれに憐れを感じて乗船させてやる。対岸へと漕ぎ出し、その途中で、渡し守から今日の大念仏の仔細を聞き、回向を受けるその子供が我が子であることを知り船中に泣き伏す狂女に、渡守は船を岸に着けた後、この母を墓所に伴って回向を勧める。狂女はこの土を掘ってもわが子を見せてくれと嘆くが、渡し守にそれは甲斐のないことであると諭される。母も気を取り直して大念仏を唱えていると、そこに聞こえたのは愛児が「南無阿弥陀仏」を唱える声である。尚も念仏を唱えると、子方(梅若丸の亡霊)が一瞬姿を見せる。だが夜が明けるとともに消え失せ、母親の前にあったのは塚に茂る草に過ぎなかった。・・・謡曲「隅田川」は、狂女物といわれるものであるが、その中でも、この曲の女主人公は永久に子供にめぐり逢えない運命のもとに置かれた、救いのない悲しい物語である。その演出をめぐっては、父の世阿弥との間に論争のあったことが、「申楽談儀(さるがくだんぎ)」という家伝の書に記録されているそうだ。それは、最後の見せ場、梅若丸の幽霊が墓の陰から姿を現し、母親と言葉を交わすところで、世阿弥は、この子(梅若丸)は現実にいる子ではなく亡者であるから、幽霊役の子どもは出さない方がおもしろいといい、元雅は出した方がいいと反論。結局、「まあやってみて、いい方を採用すればよい」と父親が折れた形で決着したそうだ。以後、幽霊役の子どもが出演し続けているが、流派などにより、子どもが出演しないものもある。
昔は「気が狂う・狂気」ということを人々は「物が憑いた」とも言っていたようである。世阿弥はこの物狂いというのを二つの種類に分けて説明しており、ひとつは神仏・生霊・あるいは死霊などが取り憑いた物狂いで、これはその乗り移ったものの正体を把握して演技すれば役作りが出来る。もうひとつは、親に別れたり・子供と別れたり・夫に捨てられたり・妻に死なれたりして狂乱する物狂いで、この役作りは容易ではなく、こういう物狂いの場合は、相手のことを一途に思うという戯曲の主題を役作りの根本に置くべきであると言っているそうだ。死んだ人間が幽霊として出てくるのが夢幻能であるが、この物語では、母親の幻影に出てくる幽霊なので、同じ亡霊と言っても夢幻能の延長線上の亡霊ではない。 だから、子方を出さない演出では、子の存在を母親の狂乱状態のなかでの幻影としなければならないのでそれは確かに難しいだろうね。 
謡曲「隅田川」で、母親は千里の道のりを歩み。ようやく隅田川のほとりに着く。「ここぞ名に負う隅田川、渡りに早く着きにけり、渡に早く着きにけり」
中世の時代、隅田川というのは「東の果て」と同義語であった。この時代、能をつくり、見た人は主に都の人である。彼らから見れば箱根八里を超えればなにがあるかわからない異郷の地である。その更に東の果てに隅田川があり、都より東の国にいたる終着地。つまり、隅田川は、異界との「境界」を形成する場所としての悲劇性が哀愁を高揚させる。
又、船上での渡し守と狂女の問答のカケ合いの中から、尋ねる我が子が今はこの世に亡く、東の果ての道のほとりのこの塚の下に永遠に眠っていると知った母の悲しみは、クライマックスに達し、絶望の淵へと誘う「現世と来世の境界」の中に身をかされることとなる。そして、尋ねる子は既に土の下となり「南無阿弥陀仏」の声の中を、塚と対面する。そして、塚の上に我が子の声を聞き、面影を見るのである。しかし、それも束の間、闇から光りへの「境界」によって、面影は消え去り、狂女は茫然自失の中に肩をおとし、佇むしかなかった。
隅田川のテーマーは悲しみと哀傷そして命である、元雅はこのテーマーに沿って、観るものに深く感銘を与え、人々の不安や悲しみの浄化を目指す力として「空間的な境界」「現世と来世の境界」「夜と朝の境界」の3つの境界を導入しているといわれる。
隅田川は、江戸時代より前は、利根川の下流の名前だった。現在の利根川は、関東平野を西から東に流れて、銚子で直接太平洋(鹿島灘)に流れ出ているが、徳川家康が江戸にやってきた頃の利根川は途中から南に流れ、現在の隅田川のルートを通って東京湾に注いでいた。 家康の江戸入府から六十年以上かけて、いわゆる「利根川東遷」の大工事を行い、四代将軍家綱の時代になってようやく現在のような利根川・荒川・隅田川の形が完成した。隅田川には、江戸時代には二十ヶ所近い渡し船があったと言われる。
そのうち、橋場の渡しが謡曲「隅田川」の舞台となったところという。橋場の渡しは、現在の白鬚橋の南側にあたる。大正初年に地元の人が「白鬚橋株式会社」を設立して木橋を架け、橋場の渡しは消滅したそうだ。
雅作の謡曲「隅田川」では狂女の姿になって登場する斑女の前は渡しの舟に乗って隅田川東岸に着いてそこで梅若丸の死を知るという筋になっている。つまり、梅若塚(梅若の死んだ場所)が東岸にある。(梅若塚のある木母寺は昭和43年に隅田区堤通りに移転しているが、もとの梅若塚のあった場所には石碑が建っている。)
しかし、梅若は重病で川を渡るどころではなくて、商人は無慈悲にも梅若を隅田川の西岸の橋場の辺り・昔の浅茅が原あたりに打ち捨てて、梅若はそこ(西岸)で死んだらしいと思われる。梅若が隅田川西岸で死んだらしいことは妙亀塚が西岸に現存していることでも推測できる。妙亀塚は、妙亀尼をまつる塚である。妙亀尼の伝説は向島の木母寺にある梅若塚と対をなす話で、人買いにさらわれた我が子梅若丸が向こう岸の塚に葬られているのを知らされ、我が子の成仏を願い塚の傍らに庵を作って念仏三昧の生活を続ける。だが、かわいい我が子が忘れられず、ついに発狂して浅茅ヶ原の鏡ヶ池に身を投じてしまうという哀れな物語である。鏡ヶ池の傍らに妙亀尼の墓が作られ、それが今の妙亀塚だという話である。(台東区妙亀塚公園、鏡が池は埋め立てられて現存しない。)梅若が東岸で死んだのならば斑女の前が庵を作るのに対岸にわざわざ住むわけはないし、妙亀塚も対岸に建てられることはなかっただろう。妙亀塚は息子の塚の傍にあるのが自然であろうが、どうして梅若塚が隅田川西岸ではなくて東岸にあるのか?・・・・よく分からない謎だそうだ。
真相は不明であるが、謡曲「隅田川」の影響か何かで・梅若塚は隅田川東岸にわざわざ移されたのではないかと推測しているものもいる。確かに、我が子の姿を求めて狂女の姿でさまよい歩く斑女の前がやっとの思いでたどり着いたのが東国の果てとも言うべき隅田川の渡しであったことを考えると、前に述べた「境界」のことからも、梅若塚は「他界」である隅田川東岸にあった方が、この曲の悲劇性は高まるよね~。
(画像は、歌川広重作「江戸高名会亭尽 木母寺雪見」手刷り復刻木版 、版元:悠々洞出版。木母寺の裏に隅田川から流れが入り込んでいる、内川の様子が描かれている。)
参考:
隅田川 (能) - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9A%85%E7%94%B0%E5%B7%9D_(%E8%83%BD)
世阿弥 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%96%E9%98%BF%E5%BC%A5
観世元雅 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A6%B3%E4%B8%96%E5%85%83%E9%9B%85
梅若丸の悲話と木母寺
http://umebachiya.com/edokaiwai/umewaka/umewaka.htm
[PDF] 能『隅田川』についての研究 ―境界としての隅田川と関連して―
http://atlantic.gssc.nihon-u.ac.jp/~ISHCC/bulletin/02/204.pdf
人間、うれいの花ざかり/観世元雅「隅田川」  asahi.com 
http://be.asahi.com/20040515/W21/0001.html
天台宗 梅龍山 木母寺(もと梅若寺)
http://kkubota.cool.ne.jp/mokuboji.htm
曹洞宗 妙亀山 総泉寺
http://kkubota.cool.ne.jp/sousenji.htm
能楽感想文・・・「隅田川」 もし子方がいなければ (1)
http://ansam.at.webry.info/200510/article_16.html
能楽感想文・・・「隅田川」もし子方がいなければ (2)
http://ansam.at.webry.info/200510/article_17.html
関東地震墨田区6
http://www5d.biglobe.ne.jp/~kabataf/kantoujisin_isibumi/tokyo_sumida/mokuboji/kantousumida6.htm
歌舞伎素人講釈
http://www5b.biglobe.ne.jp/~kabusk/index.htm
母性喪失の「隅田川」 「隅田川」の精神 生と死の境

歌手・三波春夫の忌日

2006-04-14 | 人物
2001年(平成13年)の今日(4月14日)は「歌手・三波春夫(みなみ はるお)」の忌日。<77歳>
「お客様は神様です」・・・の名セリフを残した。観客を大切にする気持ちをこの言葉にこめて、観客へのサービス精神に徹した歌手だった。
観客の前ではいつもにこにこと笑顔を絶やすことはなかった三波春夫には、従来の歌手にはないユニークな個性があった。
1923(大正12)年7月19日、新潟県三島郡の生まれ。本名は、北詰 文司(きたづめ ぶんじ)。幼時から浪曲を志し、南條文若の芸名で17歳にして座長。天才少年の名をうたわれ、全国を巡業。1944(昭和19)年、現役兵として北満の関東軍に入り、終戦後4年間、26歳までロシア・ハバロフスクの捕虜収容所に収容され、苦難の日々を送った。
帰還後、浪曲生活に戻るが、三橋美智也の成功に刺激を受けてテイチクレコード入り。1957(昭和32)年、三波春夫として歌謡界へ。「チャンチキおけさ/船方さんよ」のカップリング盤がデビュー作。どちらも大ヒットした。洋服が常識だった歌謡歌手としては初めて、舞台衣装に派手な紋様の着物を着て登場。愛想のよい笑顔で両腕を広げての立ち姿で、独特の節回し。従来の歌手にはないユニークな個性があった。しかし、そこには、単なるファンサービスの愛想笑いだけではなく、幼少より浪曲で鍛えらたすばらしい歌唱力があった。
以後、「雪の渡り鳥」、「東京五輪音頭」「世界の国からこんにちは」「俵星玄蕃」と立て続けに大ヒット、国民的歌手としての地位を不動のものとした。中でも、元浪曲師であることから、浪曲に題材を取った歌謡浪曲を得意とした。
三波は歌手デビューの翌1958(昭和33)年第9回NHK紅白歌合戦に初出場して以来、1986(昭和61)年まで29回連続で出場している。そして、1966(昭和41)年第17回紅白では 、美空ひばりを差し置いて大トリを務めた。その後、1989年・第40回(第1部)、1999年・第50回と2回出場し、通算31回出場した。
”雪を蹴立てて、サク、サク、サクサクサクサク・・・「先生!」「おお、蕎麦屋かぁ~」・・・”名調子の長編歌謡浪曲『元禄名槍譜 俵星玄蕃』の一節である。
この1999(平成11)年、最後の紅白に出場の時に歌った「元禄名槍譜 俵星玄蕃」に代表される長編歌謡浪曲は、どの歌も、約10分前後の長さのなかに、セリフがあり、レチタティーヴォ(説明的なな歌)があり、それが、美しい歌謡へと繋がりクライマックスを迎える。これは、まさに、日本のオペラといえるかも知れしれない。同じ浪曲出身の村田英雄はよく三波のライバルと位置付けられていた。私は村田英雄の男性的な歌も大好きである。しかし、三波の長編歌謡浪曲は、浪曲だけでも歌謡曲だけでも不十分で、完成された発声による歌唱力を要求される作品であり、三波にしかできない芸当といえるだろう。彼が世を去った後、そのスタイルを踏襲してくれるものがあらわれてほしいが、これだけの歌唱力のある歌手はもう、現れないのではないだろうか・・・。最近は、まともに声も出ない人が、コロコロと、口先だけでささやいているような歌ばかり。三波晴夫のようなすばらしい歌手の出現を望むのは無理かもしれないね~。
(画像は、CD「~歌芸の軌跡~三波春夫全曲集」 テイチクエンタテインメント )
参考:
三波春夫オフィシャルページ
http://www.kashu.ne.jp/minami/
三波春夫 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E6%B3%A2%E6%98%A5%E5%A4%AB
三橋美智也 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E6%A9%8B%E7%BE%8E%E6%99%BA%E4%B9%9F
村田英雄 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%91%E7%94%B0%E8%8B%B1%E9%9B%84
紅白歌合戦情報
http://www.kouhaku.info/