今日のことあれこれと・・・

記念日や行事・歴史・人物など気の向くままに書いているだけですので、内容についての批難、中傷だけはご容赦ください。

OLの日

2006-11-25 | 記念日
今日(11月25日)は、「OLの日」
働く女性の異業種間交流サークル「OLネットワークシステム」が1994(平成6)年に制定したそうだ。
以前は、職場で働く女性のことを「BG(business girl)」と呼んでいたが、この言葉には「街の天使」(売春婦)という意味があることがわかり、東京オリンピックを翌年に控えて、世界各国から人を招くのにふさわしくないという空気があった。1963(昭和38)年9月12日にNHKがそれまで使われていた「BG(ビジネスガール)」を放送禁止用語とした。そして、『週刊女性自身』がこれに代る新しい用語を募集し、一番支持の多かった「OL(office lady)」という用語を、1963年11月25日発売の号から使い始めたことによるそうだ。
この「OL」の用語誕生から既に、43年経った今日では、国語辞典(goo 辞書 )にも”女性の事務員。オフィス-ガールに代わって用いられるようになった語” 。として登録されている通り、すっかり一般用語として定着しているようだ。
1944(昭和19)年、”「サラリーマンの巣であった丸ビルは、あの窓もこの窓も女子に代替。4対1だった男女の割合が1対3と、今では女子部隊が男子を抑えてしまった」と、「アサヒグラフ」の記者は「決戦体制」のオフィス街をルポ。和洋の事務服の取り合わせが興味深いが、記者は「常在防空の心得も忘れずに」と注文をつけている。”(朝日クロニカル、週刊20世紀)記事にも見られるように、第二次対戦のピークを迎えて男子は戦場に招集され、この頃、日本のオフィス街は男子不足から女性の数が一気に増加する。以降、その傾向は続き、特に事務職の仕事には、女性が多く雇用されるようになった。戦後のオフィス街に増えた女性の社員達は、それを、「BG(ビジネスガール)」と呼んでいた。この用語が何時どのような経緯で出来たかの詳しい事は知らないが、これは、昭和初期に流行った流行語、男子の「モダンボーイ」に対する女性の「モダンガール」のように、ビジネス街の男性を「ビジネスマン」と呼んでいたものに対して、その代替として一気に増えたビジネス街で働く女性たちを「ビジネスガール」と呼ぶようになったのではないか・・。
戦後、ビジネス街で働く女性はBG(ビージー=ビジネスガール)と呼ばれ、特に丸の内のBGは、若い女性のあこがれの的でもあった。 しかし、作られた当時は、特に仕事ができることよりも、女らしく愛嬌のあることの方のみを強く求められていたといっていいだろう。しかし、当時、男性だけがそれを望んでいたわけではなく、女性の方も会社での仕事は、結婚するまでの腰掛け程度のものであり、そこで、数年間社会経験をして、その間に花嫁修業などをして、結婚適齢期・・・・当時は26~27歳くらいまでには、結婚をするといった事が、極当たり前の世の中の考え方ではなかっただろうか。
しかし、敗戦後の日本経済も、1955(昭和30)年ごろには戦前の水準に復興し、1956(昭和31)年度『経済白書』には「もはや戦後ではない」の語も見られるように更なる高度成長が始まった。そして、女性の社会的進出も、益々盛んになり、社会に進出した女性の中からも、従来の女性のように、会社を単に結婚までの一時的な腰掛の場として選び、単なる男性の補助的な仕事をするだけではなく、自らも男性と同様にキャリアを積んでやっていこうと考える女性ガ増えてきた。そして、1959(昭和34)年にはそのような女性を呼ぶ言葉として”キャリアガール”と言う流行語も出来ている。
1963(昭和38)年に、当時、広く一般社会で汎用していた「BG」と言う用語が、NHKが放送禁止用語としてから使われなくなったのであるが、それでは、いわゆる「放送禁止用語」といわれているものは、法律的にどうなっているのかと言うと、あくまでもそれは、放送業界の自主的な規制であって、特別に法律で使用を禁止されているわけではない。
今でも、男性について「ビジネスマン」の用語は、使用されているわけであり、それに、対比する言葉としての女性に対して「ビジネスガール」の和製英語を使っていたわけであり、別に、差別的に使われていたものではない。ただ、オリンピックで、外国人が多く日本に来るようになると、誤解を招くといけないからとの配慮からのものである。そして、「OL」の用語が使用されるようになるのであるが、むしろ、私は、用語の問題よりもその用語がどのような意味合いをもって使われているかの方が問題と思う。つまり、言葉の中身が、単にビジネス(オフィス)」街で働く女性の呼称としてのものか、もしくは、バリバリとビジネスをこなしている女性に使うものなのか、といった方が大事なのではないかと思われる。
恐らく、この用語を考え出した人は、先にも述べた後者の方を想定して用語を作ったのではないかと思う。
しかし、先の国語辞典(goo 辞書 )にも「OL」は”女性の事務員。オフィス-ガールに代わって用いられるようになった語” として、解説されているように、普通は、先に述べたような言葉として、使われていることの方が多いようである。ただ、以前と違って、企業も女性にお茶汲みや書類のコピー係といった雑用をさせることはなくなったようであるが・・・。
企業の方では、その後の、男女同一賃金など労働法上の問題などから、社員の採用は、事務職か専門職かを区分して、採用するようになったので、そういう意味では、「OL」とは、正社員として採用されたもので、管理者的な責任も持たず、かつ、将来にわたって深い専門的な知識も必要としない一般の事務的な業務を行う女性」ということになるのであろうか。
今では、それに、対応するように、男子と同等あるいはそれ以上にバリバリと専門的な仕事をしている「キャリア」あるいは「キャリアウーマン」と呼ばれる女性が巷を闊歩している。
ただ、こういうことを言うと、事務職が差別的に見られそうだが、職業に上下はなく、これはこれで、非常に大事な仕事であり、このような、仕事をしてくれる人たちの存在がなければ、仕事の滞ってしまうビジネスマンは多くおり、企業の方も困ってしまうのである。もし、日本の女性が誰もこのような仕事をしてくれないとなると企業は、そのような仕事をしてくれる外国人労働者を採用しなくてはならなくなるのではないか。
以下参考の『OL進化論 』(オーエルしんかろん)は、秋月りす著のOL生活の日常に起こる楽しいエピソードを紹介する4コマ漫画作品。私は読んでいないが、初期には「社長秘書 令子」が多く見られたが、1998年後期(単行本では14巻)を境に「35歳で独身で」が急増とある。
事実、今日この頃では、独身の「キャリアウーマン」が増えているが、これが、今の少子化問題などにも関連している。この問題をこれ以上書き出すとジェンダー問題も出て来そうなのでこれでおくが、女性の家庭と職場の両立をどのように考えていくか・・これは、これからの大事な問題だろうと思う。
以下参考の『OLたちの「レジスタンス」―サラリーマンとOLのパワーゲーム』(小笠原 祐子 著)も、OL問題に触れた本。これも私は呼んでいないが、ネットなどでの読者などの書評を読むと、結構面白そうだ。興味のある人は読まれるとよい。
(画像は、1944年東京・丸の内。和洋の事務服をきた女性。朝日クロニクル、週刊20世紀より)
参考:
OL - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/OL
復興こぼれ話
http://www.eonet.ne.jp/~ginyu/colum.htm
法律・判例
http://www.miraikan.go.jp/hourei/case_detail.php?id=20021129152231001joh1
「OLたちのレジスタンス」を読む
http://www.geocities.co.jp/Berkeley/3653/archive/hasegawa04.html
Amazon.co.jp: OLたちの「レジスタンス」―サラリーマンとOLのパワー
http://www.amazon.co.jp/gp/product/4121014014

鰹節の日

2006-11-24 | 記念日
今日(11月24日)は、「鰹節の日」
食品メーカー・ヤマキが制定。「い(1)い(1)ふ(2)し(4)」の語呂合せだとか。
鰹節(かつおぶし)は、カツオを原料とする日本の保存食品。
基本的には魚体を三枚以上におろし、「節」(ふし)と呼ばれる舟方に整形してから加工された物を指して鰹節と言う。
加工工程の差異によって、鰹を茹で干したもの(なまり節)、それを薫製にしたもの、さらに黴(カビ)を生やしたものがある。通常よく知られている鰹節は黴まで生やしたものであるが、広くは何れも鰹節と呼ぶ。「鰹節」の称は薫製法ができる江戸時代以前から既に用いられていた。うま味成分のイノシン酸を多量に含有し、調味料として好んで用いられる。ビタミンB群など栄養分を豊富に含む。
カツオ自体は古くから日本人の食用となっており、約8000年前の縄文時代に青森県八戸遺跡でのカツオ遺骨が発見されているそうだ。5世紀頃には干しカツオ(堅魚)が造られていたようだが、これらは現在の鰹節とはかなり異なった干物に近いものだったようである。
飛鳥時代の701年には大宝律令・賦役令により、この干しカツオなど(製法が異なる「堅魚」「煮堅魚」「堅魚煎汁」に分類されている)が献納品として指定されているという。
「堅魚」とはカツオを干し固めた物。「煮堅魚(にかたうお)」とは、カツオを煮てから干し堅めた物。「堅魚煎汁(かたうおいろり)」とは、煮汁をさらに煮詰め調味料とした物だそうだ。
兎に角、カツオは、足の早い魚なのでこのような処理をしたものを献上していたのだろう。又、「カツオ」の語源はこの堅魚から来ているようである。しかし、この時代は、中でも堅魚煮汁が料理に使う調味料としてもっとも重要視されていたようだという。
平安時代には、堅魚や煮堅魚、堅魚煮汁を貢納する国が指定されており、堅魚は、伊豆、駿河、志摩、相模、安房、紀伊、阿波、土佐、豊後、日向から。また、煮堅魚は、駿河から。堅魚煮汁は、駿河、伊勢から貢納されたという。
干しカツオ(堅魚)は神饌(しんせん)の一つとして使われたり、また、建築物の上棟式にも使われたりしていたようで、社殿の屋根にある鰹木(かつおぎ)の名称も、鰹節に似ていることによるようだ。カツオが古くから縁起の良い格式高い魚であった事は間違いない。
鎌倉時代になると、吉田兼好が「徒然草:第百十九段」には、”鎌倉の海に、鰹(カツヲ)と言ふ魚は、かの境(サカ)ひには、さうなきものにて、この比(ゴロ)もてなすものなり。それも、鎌倉の年寄(トシヨリ)の申し侍りしは、「この魚、己れら若かりし世までは、はかばかしき人の前へ出づる事侍らざりき。頭(カシラ)は、下部(シモベ)も食はず、切りて捨て侍りしものなり」と申しき。 かやうの物も、世の末(スヱ)になれば、上(カミ)ざままでも入りたつわざにこそ侍れ。”( 以下参考の「徒然草」より)・・と書いている。
要約すると”鎌倉の海でとれる鰹という魚は、その地方では上等なものとして、最近珍重しているが、鎌倉の古老は、「この魚は、我々の若かった頃までは、れっきとした人の食前に出ることはありませんでした。頭はいやしい者も食わず、切り取って捨てたものです。」と申していた。こんな下等なものも、世が末になると、上流社会まで入り込むのである。”・・・となるので、あろうが、ここに書かれているのは、干しカツオではなく、生のカツオのことだろう。生のカツオだとしたら、腐敗からの中毒を心配して、鎌倉武士が余り食べなかったことは理解できる。
その後、戦国時代の1537(天文6)年になると、北条早雲の長男である氏綱(うじつな)が小田原沖で鰹釣りの見物をしていた折、一匹のカツオが氏綱の舟に飛び込んだ。これを見て「戦に勝つ魚(カツオ)が舞い込んだ」と喜び、そのカツオを肴(さかな)にした。その後、出兵した武州の戦で大勝利を収めたことから、この話が段々と伝わり武士の間で縁起の良い魚として出陣の祝膳に必ず供されるようになったと言う。生のカツオを食べることの復活と言うことになるのか。
現在の鰹節に比較的近いものが出現するのは室町時代であり、戦国時代には武士の縁起かつぎとして、鰹節を「勝男武士」と漢字をあてることがあったとも。
1489(延徳元)年のものとされる「四条流包丁書」の中に「花鰹」の文字があり、これはカツオ産品を削ったものと考えられることから、単なる干物ではない、かなりの硬さのものとなっていたことが想像できるという。
薫製法が確立したのは江戸時代である。紀州(熊野)の甚太郎という人物が薫製で魚肉中の水分を除去したことに始まった。、また、焙乾(薫製)した鰹節(荒節)の表面を削り(裸節)何度も黴(カビ)を生やして熟成させ、水分を抜き乾燥させると共に雑味成分の分解を促して旨味を増す技法が発達していった。これを荒節に対して枯節というが、この枯節は紀州(熊野)の土佐与一(とさのよいち)という人物が製法を広めたことに始まるとされている。うま味成分やビタミン類が他の鰹節より多く含まれ、高級品として扱われ、中でも、数ヶ月にわたって4回以上のカビ付けを行った高級品は本枯節と呼ばれるそうだ。
以後、薩摩や土佐、阿波、紀伊、志摩、伊勢、伊豆など太平洋沿岸のカツオ主産地で多く生産された。江戸期には国内での海運が盛んになり、九州や四国などの鰹節も江戸に運ばれるようになった。
江戸時代には、人々は初鰹を非常に珍重し、山口素堂の俳句「目には青葉 山時鳥(ほととぎす)初松魚(かつお)」は有名な句である。このように、初鰹を題材とした俳句や川柳が数多く作られている。但し、水揚げが多くなる夏と秋が旬(つまり安価かつ美味)であり、産地ではその時期のものが好まれていた。江戸で初鰹が珍重されたのは「」に依るところが大きい。
鰹を三枚におろした物を亀節、三枚から背と腹におろした物を本節、本節の中でも背側を使ったものを雄節(または背節)、腹側を使ったものを雌節という。
思い起こせば、私が子どもの頃には、各家庭に「鰹節削り器」があり、鰹は節のものを買ってきて、使用する直前に鰹節を削っていた。しかし、今では、節の状態で売られることは少なく、チップ状に削られたものが窒素を入れた気密パックの状態で売られているのが普通になった。一般的な料理では「花かつお」とも呼ばれる「荒節」を削ったものを出汁によく使うが、高級料亭などは「枯節」を使うところが多い。
カツオは、日本近海では、黒潮にのって(特に太平洋側に)桜前線のように北上してやって来る。それぞれの港では、夏の到来を告げるその年初めてのカツオの水揚げを「初鰹」(はつがつお)と呼び、珍重される。当然、初鰹は港によって時期がずれているが、食品業界では漁獲高の大きい高知県の初鰹の時期を「初鰹」としており、消費者にも浸透している。カツオは、黒潮と親潮とがぶつかる三陸海岸沖辺りまで北上した後、秋にかけて親潮の勢力が強くなると南下し始める。南下したカツオは「もどり鰹」と呼ばれ、低い海水温の影響で脂がのっており、北上時とは異なる食味となる。もどり鰹の時期も港によってずれがあるが、一般的には秋の味として受け入れられている。南洋での遠洋漁業は1年中行われ、日本では高知県および鹿児島県が漁獲高の大半を占める。この多くは一本釣りと呼ばれる漁法でつり上げたもので、冷凍されて水揚げされ、鰹節の原料になる。
近畿では、紀州の熊野浦、勝浦の港がかつおの荷揚げで有名である。私も何度か、勝浦や新宮に止まったが、季節には、必ず鰹料理が出る。
明治~昭和初期にかけての歌人・若山牧水は、旅を愛し旅にあって各所で歌を詠み、日本各地に彼の歌碑がある。大の酒好きで一日一升程度の酒を呑んでいたという。牧水も勝浦を訪れた時にカツオを食べカツオの歌を残している。
「したたかに われに喰(くは)せよ 名にし負ふ 熊野が浦は いま鰹時」
「むさぼりて腹な破りそ大ぎりのこれの鰹の限りは無けむ」
本当に、季節のカツオは美味しいよね。でも、今日は、鰹節の日であり、カツオの日ではないので、カツオのことには余り深く触れないようにしよう。以下に、牧水の勝浦でのカツオについて触れたものがあるので紹介しておこう。
熊野奈智山/若山牧水(青空文庫)↓
http://www.aozora.gr.jp/cards/000162/files/43507_16640.html
樹木とその葉・若葉の頃と旅/若山牧水(青空文庫)↓
http://www.aozora.gr.jp/cards/000162/files/3408_20339.html
(画像は、鰹節削り器。フリー百科事典Wikipediaより)
参考:
鰹節 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B0%B9%E7%AF%80
フィッシュLabo さかな物語[堅魚(かつを)物語]
http://www.sanspo.com/fish/labo/monogatari/sakana_katuo2.html
「だしオフ」
http://forum.nifty.com/fcook/special1999/dasioff0599/dasioff001.htm
官制大観・賦役令
http://www.sol.dti.ne.jp/~hiromi/kansei/yoro10a.html
鰹節と伊豆田子節の歴史
http://homepage2.nifty.com/kanesa16/catalog3.htm
水産雑学コラム
http://www2s.biglobe.ne.jp/~kurisan/index.htm
徒然草
http://melisande.cs.kyoto-wu.ac.jp/~eguchi/pdd/turedure.html


手袋の日

2006-11-23 | 記念日
今日(11月23日)は、「手袋の日」
日本手袋工業組合が1981(昭和56)年に制定。これから手袋が必要になる季節に向けて、祝日の勤労感謝の日を記念日にしたそうだ。
手袋は、手を覆う衣服。英語の glove は、中世イギリスで使われていた古英語の glof から来ている。指1本ずつ覆うようにできているものを手袋と呼び、親指を除く指をまとめて覆うようにできているものをミトンと呼ぶ。また、指が露出するようにできているフィンガーレスグローブもある。手袋の素材には多くの素材が使われており、布、毛糸、フェルト、革、ゴムなど、いろいろな素材で作られている。手袋の中には、手首までではなく肘近くまで保護するものもあり、これらをガントレットと呼んで区別している。
この手袋の歴史は古く、少なくとも古代ギリシア時代に遡るそうで、ホメロスの『オデュッセイア』の中や紀元前440年に書かれたヘロドトスの著書『歴史』の中にも手袋のことが記述されているそうだ。又、エジプトのツタンカーメン王の墓からは麻製の手袋が出土しているという。
13世紀ごろからヨーロッパでは女性の間でファッションとして手袋を着用するようになったようであり、これらは、リネンや絹でできており、時には肘まである手袋が広まっていた。16世紀にエリザベス1世が宝石や刺繍、レースで豪華に装飾されたものを着用した時に手袋の流行が頂点に達したという。
手袋は、世界中で生産されており、今でもフランスやカナダでは高価な女性用のブランド物手袋が作られている。近年では安い手袋の多くが東アジアで作られている。又、日本では、国内製手袋の約90%が香川県東かがわ市で作られているそうであり、このことは、以下参考の日本手袋工業組合の手袋の歴史に詳しく書かれている。
手袋の歴史 → http://www.tebukurokumiai.jp/
手袋は、冬12月の俳句の季語ともなっている。限られた五七語の音数の中での表現を可能にするために、季語は大切な役割を果たしている、この季語からさまざまな思いが呼び起こされるのは、季節感だけでなくこの季節感に絡んだ人間の感情もっ含まれているという。そうすれば、12月の寒い季節にどのような手袋が俳句を読む者に具体的なイメージを喚起させたり、様々な連想を広げたりさせるかと言えば、やはり、毛糸で編んだ、手編みの手袋、それも、お母さんが編んでくれた手袋などが一番ぴったりと来る。今の時代、お金さえ出せば、いくらでもいいものが手に入るが、やはり、お母さんが、寒い冬の日、可愛い子供のために夜なべして編んでくれた手袋・・・これ以上に温かみを感じるものはないのではないだろうか。昔そんなミトンと呼ばれる手袋を紛失を避けるために、両方から紐で繋げて、首にかけていた小さな子どもの姿が目に浮かぶ。
「かあさんが夜なべをして 手ぶくろ編んでくれた
  こがらし吹いちゃ つめたかろうて せっせと編んだだよ
   故郷(ふるさと)の便りはとどく いろりの匂いがした」
窪田 聡作詞・作曲の『かあさんの歌』。・ダーク・ダックス、倍賞千恵子、 芹洋子 他多くの歌手が歌っている。
二木紘三のWebサイト『かあさんの歌』↓
http://www.duarbo.jp/versoj/v-folksong/kaasannouta.htm
歌詞の冒頭の「かあさんが夜なべをして」の部分、原詩では、「かあさんは夜なべをして」らしい。作詞者の窪田聡さんは、高校卒業の時、進路をめぐって母親と対立したことから、家を飛び出したそうだ。しかし、お母さんは息子の身を案じて行方を捜しだし、衣類や、食べ物、ビタミン剤を送ってくれたという。そうした中から生まれた歌が、この、かあさんの歌だそうである。本当に気持ちがあったかくなる歌である。
昭和30年代、ちょうど、私が、大阪の会社に働き始めた頃、歌声喫茶と言うのが流行り始めた。私の勤めていた会社のすぐ近くのビルの何階だったか忘れたが、歌声喫茶があったので、よく、歌の好きな仲間と一緒に、出かけたものだ。そこへ行くと歌の詩を書いた小さな冊子をくれた。リーダーの司会で、生演奏にのって、皆で合唱するのである。最近又はやりだしたようではあるが、今流行のカラオケバーで歌っているカラオケなどよりは、ずっと、健康的であり、知らないもの同士であっても歌の好きなもの同士がともに合唱する楽しさは格別であった。その頃、よく歌われた歌の中でも『かあさんの歌』はトップクラスではなかったか・・・。他には、ロシア民謡が多かった。兎に角、綺麗な曲か明るい曲が好まれて歌われていたよな~。
あたたかい手袋の話と言えば、新美南吉の童話「手袋を買いに」がある。冷たい雪で牡丹色になった子狐の手を見て、母狐は手袋を買ってやろうと思い、母狐は子狐の片手を人の手にかえ、銅貨をにぎらせ、「人間は相手が狐だと解ると、手袋を売ってくれないんだよ、それどころか、掴まえて檻の中へ入れちゃうんだよ、人間ってほんとに恐いものなんだよ」だから、かならず人間の手のほうをさしだすんだよと、よくよく言いふくめて町へ送り出した。はたして子狐は、無事、手袋を買うことができただろうか?
子狐は帰ってきて母狐に言いました。「坊、間違えてほんとうのお手々出しちゃったの。でも帽子屋さん、掴まえやしなかったもの。ちゃんとこんないい暖い手袋くれたもの」
と言って手袋のはまった両手をパンパンやって見せました。お母さん狐は、「まあ!」とあきれましたが、「ほんとうに人間はいいものかしら。ほんとうに人間はいいものかしら」とつぶやきました。新美 南吉が描こうとした親子の愛情や善意、信頼といったものが行動的な子狐の体温とともに伝わってくるこの童話は青空文庫でも読めるよ。
図書カード:「手袋を買いに」著者名: 新美 南吉↓
http://www.aozora.gr.jp/cards/000121/card637.html
本当に、お母さん狐が言ってるように、人間はいいものかしらね~。子狐が初めての買物でたまたまいい人に出会いそう思って、又、人間に近づいたとき・・・その時も無事でいられるだろうか?。今、毎日のように報道されているいじめの問題や親殺し子殺しの問題を狐の親子が聞いたら気絶してしまうだろうね。温かい毛糸の手袋がよく似合う社会になって欲しいものだ。さしずめ、今の世の中に似合う手袋と言えば黒く光るレザーの手袋だろうかね~?
(画像はAmazon.co.jp: 「手袋を買いに」本:著者名: 新美 南吉、 黒井 健 )
参考:
日本手袋工業組合
http://www.tebukurokumiai.jp/
手袋 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%89%8B%E8%A2%8B
ツタンカーメン - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%84%E3%82%BF%E3%83%B3%E3%82%AB%E3%83%BC%E3%83%A1%E3%83%B3
こだまの唄
http://utagoekissa.web.infoseek.co.jp/kodama.html

ボタンの日

2006-11-22 | 記念日
今日(11月22日)は、「ボタンの日」
日本釦協会 によると、1870(明治3)年の今日(11月22日)、太政官布告によってヨーロッパスタイルのネイビールックが日本海軍の制服に採用され、前面に2行各9個、後面に2行各3個の金地桜花のボタンをつけることが決められた。このことから、この日を記念して、日本のボタン業界が1987(昭和62)年に11月22日を「ボタンの日」と定めたそうだ。
また、ボタンの漢字である「釦」の文字は、太政官布告の際にボタンの文字がなく、当時の兵部大輔、大村益次郎(1824~1869)が服の口に金属製品を入れて紐の代用にする意味から「紐釦」と書き、これをボタンと読ませることを採用したのが始まりともいわれるそうだ。
何でも日本製の漢字(国字)、「釦」の発案者は当時の兵部大輔であった、大村益次郎だとか。ボタン(釦)は、 衣服についているもので、しめるためのもの、もしくは布を固定するためのもの。多くは装飾を兼ねる。 また、「飾りボタン」として装飾目的のみ、あるいは「止め具」として鞄や袋の口を閉じることにも使われる。西洋では狩猟文化の影響で動物の骨を利用して留め具を作る方式が生まれ、これがボタンに発展したといわれている。最初は紐で引っ掛けて固定したが、のちに南仏でボタンホールが考案され、布と布を直接固定できるようになった。 十字軍によって、イスラム社会から西欧社会に伝わったという。
以下参考の「ボタンの博物館 」で、ボタンの語源を見ると、”ボタン「button」の語源について定説はないが、古代ゲルマン語の「button」と古代ラテン語の「bottanei」がその出所とされており、ポルトガル語の「botao」から転訛したものだろうという。言葉の意味は“花の蕾”。日本で「ボタン」という名が用いられたのは、江戸時代中期だそうで、故実家伊勢貞丈(江戸時代中期の幕臣)の「安斎随筆(あんさいずいひつ )」に“和蘭国にてはコノブと言ふ、ポルトガル国にてはブタンと言ふ、それを言ひたがえて日本にてボタンと言ふなり”と記されている”そうだ。
明治政府は、これからは洋服の時代と考え、海軍の制服に実用的な洋服を取り入れ、イギリス海軍の制服を参考にして金地桜花のボタンのたくさん付いた制服を定めた。なお陸軍の制服は明治4年にフランス陸軍の制服を参考に定められたそうだ。
欧米では家族の思い出の服を処分する時にボタンをはずして残す習慣があったという。
そういえば、日本でも、卒業シーズンになると、男子の制服の心臓に一番近いボタン(多くの場合は第二ボタン)を好きな女の子に渡すといったことが流行っていた事があるが、今でもやっているのだろうか・・・。
何でもこのような風習は、中島みゆきが書いた詩を、柏原芳恵が歌った「春なのに」(1983=昭和58年)という歌の歌詞がルーツと言われている。
「卒業だけが 理由でしょうか
 会えなくなるねと 右手を出して 
  さみしくなるよ それだけですか・・・・中略
   記念にください ボタンをひとつ 青い空に 捨てます・・・以下略。」
『春なのに』作曲:中島 みゆき、歌:柏原芳恵 ↓
http://www.hi-ho.ne.jp/momose/mu_title/haru_nanoni.htm
何でも、詰襟の学生服にはボタンが5つ付いているが、その一番上のボタンは自分が記念に持っておき、二番目は一番大切な人へ、三番目は友人へ、四番目は家族へ、五番目はナゾ?…とそれぞれ意味を持っているそうだ。だから、この歌でも、女に子が貰うのは2番目のボタンだろう。
私のような無粋な男にはよく分からないが、卒業を迎えた彼と女の子の気持ちには、相互の思いに微妙な違いがあるようだ。彼女は、彼の第二ボタンを貰っておいて、大事においておこうと言うのではなく、捨ててしまおうというのだ。なんとなく切ない感じだね~。
「若い血潮の予科練の  
 七つ釦(ぼたん)は桜に錨  
  今日も飛ぶ飛ぶ霞ヶ浦にゃ
   でかい希望の雲が湧く ・・・・」
『若鷲の歌』作詞:西条 八十 、作曲:古関 裕而  ↓
http://www.d1.dion.ne.jp/~j_kihira/band/midi/JASRAC/wakawashi.html
若鷲の歌でも歌われている「桜に錨」をデザインした七つ釦の制服は、元は海軍予科練の制服であった。1942年(昭和17)年10月甲種飛行予科練習生の募集が海軍省から告示された。そして、予科練の制服は、ジョンベラ(水兵服)と呼ばれるものから海軍兵学校に準じた「七つ釦」の新しい形の制服に改めて、志願者の拡大を図った。ミッドウエー海戦や、ソロモン群島方面での航空戦で、虎の子の飛行機搭乗員を大量に喪失した海軍は、これを急速に充足する必要に迫られたからである。そのため、年齢の制限も1歳切り下げ入隊時満15歳とした。
戦時中。日本の若者がもう二度と帰ってくることができないかもしれない戦地へ向かう前に一番大切な、想いを寄せている女性に、形見として軍服の第2ボタンを贈っていたという話もある。卒業の日に、一番大切な人に第二ボタンを送る風習は、すでにこの頃に出来ていたのではないか。若い兵隊が、生きて返れる保証もない戦地へ大切な人と別れて赴かねばならなかった彼らの心境は如何ばかりのものであったのだろうか。同じ第二のボタンを渡しての別れであっても、ただ、同じ学校で学生生活をともにした女の子への別れとは大分違うよね。
(画像はDVD,映画「決戦の大空へ」太平洋戦争時、当時不足していた航空兵を補うため、PR用に製作されたプロパガンダ映画。土浦海軍航空隊の予科練習生たちの姿を描く。)
参考:
日本釦協会
http://www.jah.ne.jp/~jbutton/
ボタン - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9C%E3%82%BF%E3%83%B3
十字軍 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%81%E5%AD%97%E8%BB%8D
大村益次郎 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E6%9D%91%E7%9B%8A%E6%AC%A1%E9%83%8E
ボタンの博物館
http://www.iris.co.jp/
伊勢貞丈 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8A%E5%8B%A2%E8%B2%9E%E4%B8%88
軍服 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BB%8D%E6%9C%8D
予科練甲飛12期 鹿児島空
http://www.warbirds.jp/senri/12-3/01kagosima/sygan.html
海軍飛行予科練習生 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%88%E7%A7%91%E7%B7%B4



フライドチキンの日

2006-11-21 | 記念日
今日(11月21日)は「フライドチキンの日」
1970(昭和45)年の今日(11月21日)、名古屋市郊外に日本ケンタッキー・フライド・チキンの第1号店がオープンした。
日本ケンタッキー・フライド・チキン(KFCJ)は、フライドチキンを主力商品とし、世界規模でファストフードチェーン店を、展開しているケンタッキー・フライド・チキン(KFC)の日本法人である。ケンタッキー・フライド・チキンは、世界で初めてフランチャイズビジネスを創始した会社である。(以下、KFCと呼ぶ)
カーネル・サンダースによって1939年に考案されたフライドチキンの調理法があり、使用される調合スパイスの種類(一部公開)と調合率はごく一部の人にしか知られていないそうであり、この調理法はカーネルサンダース考案の頃から全く変わっておらず、60年以上同じ味を維持し続けている。鶏肉を揚げる際、圧力釜を使用するが、これは特製であり、家庭用の圧力鍋で代用することはできない。(理由の詳細は圧力釜の項を参照)
日本ではそれまで鶏肉の揚げ物での調理法と言えば鳥の唐揚げという言い方が、主でであったが、KFCの出店から、フライドチキンと言う表現が広く広まった。唐揚げとフライドチキンとどのように違うかと言われても、その差異に明確な定義があるわけではない(フライドチキンの定義参照)
ただ、圧力鍋を使用して作られており、独特のスパイスを効かせた味付けは、普通の唐揚げなどとは違った独特の風味があるり、KFCのフライドチキンは、「時々無性に食べたくなる」・・・とも言われているが、特徴と言えば、まさにそれがKFCのフライド・チキンの特徴といえるかも知れない。キャッチコピーも“時々無性に食べたくなるケンタッキー”じゃ~なかったかな。あの短時間のテレビCMもすぐに食べたくなるような色々な工夫がされているんだよね。消費者の心を掴んだうまいCMをやるね~。
日本に日本ケンタッキー・フライド・チキン株式会社(KFCJ)が誕生したのは1970(昭和45)年のことである。この年大阪で開催された大阪万博に出店した実験店が大盛況し、その年の11月21日に名古屋に日本の1号店(名西店)がオープンした。1971(昭和46)年4月にはおしゃれな街である、神戸に4号店を、7月には東京1号店である5号店を青山に出店する。そして、KFCは「いままで知らなかったおいしさ」、「おしゃれな食べ物」、「カッコいいお店」として、若者を中心に一気に、人気の店となり、それ以来ケンタッキーフライドチキンは順調に成長を続け、着実に日本にフライドチキン文化を定着させた。
KFCJのホームページケンタッキーフライドチキン 『Q&A』を見ると、クリスマスに”チキン”を食べるのはKFCから始まったそうだ。 ”ある日、日本に住む外国人が青山店で「日本ではターキーが手に入らないので、KFCのチキンでクリスマスを祝おうと思う」と言って来店した。これにヒントを得て『クリスマスにはケンタッキー』を広くアピールしようと考えたという。そして、初のクリスマスキャンペーンは1974年12月1日に開始、以降、KFCでは毎年全店でクリスマスキャンペーンを実施しているのだという。これ以降、日本では「クリスマはチキン」という、欧米からみるとちょっと、不思議な風習が定着することになったのだとか。
KFCでは、毎年、東日本の関係者は東京に、西日本の関係者は大阪に会して、鶏への感謝と供養のために「ブロイラー感謝祭」を恒例の行事行っているそうだ。
フライドチキンそのものに馴染みのなかった日本において、KFCの店舗をアピールする目的で発案され、創始者カーネル・サンダースを模した等身大人形がほとんどの店舗前に置かれているが、なかなか親しみの持てる像だよね。(カーネル・サンダース像参照のこと。)
ただ、「フリー百科事典Wikipedia」によれば、”ケンタッキーフライドチキンでは、揚げ油に保存性の良いショートニングを使用してきたが、そのショートニングに多く含まれるトランス脂肪酸は人体に有害であるという世論の高まりから、ケンタッキー・フライド・チキン社は米国などで消費者団体から提訴されており、2006年10月30日、米国本社は2007年4月までに北米でのショートニングの使用を取りやめると発表した。米国本社でさまざまな代替品を検討した結果、遺伝子組み換えの低リノール酸>大豆油が本来の味覚にもっとも近いということで採用される見通しだという。なお、日本ケンタッキー・フライド・チキン社でも独自に昨年からトランス脂肪酸の少ない食用油への切り替えを進めている。今後日本において米国と同じになるかどうかは不明であるが、日本での遺伝子組み替え食品に対するネガティブイメージ(否定的イメージ)が強い世論を考えれば、可能性は低いかもしれない。 ”とかなんとか怖いことが書いてあったよ。
米KFC、油変更と発表 トランス脂肪酸やり玉(asahi.com)↓
http://www.asahi.com/health/news/TKY200611010485.html
なんでも、日本のマーガリンなどには、トランス型脂肪酸が含まれているのに、このマーガリンが身体によいという誤った情報がそのまま残っていて喜んで愛用している国は先進国で日本だけだそうだよ。北欧では発売禁止になっているそうだ。私はこの分野の事についてはよくわからないので、この機会に、以下参考のトランス脂肪酸に関するもの他、ネット上で納得するまでよく調べて、知っておいた方が良さそうだよ。
(コレクションより、ケンタッキーのカーネル・サンダース貯金箱。H:19㎝)
参考:
ケンタッキーフライドチキン - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B1%E3%83%B3%E3%82%BF%E3%83%83%E3%82%AD%E3%83%BC%E3%83%95%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%83%89%E3%83%81%E3%82%AD%E3%83%B3
日本ケンタッキー・フライド・チキン株式会社
http://japan.kfc.co.jp/
トランス型脂肪酸、マーガリン、害、毒性
http://www.yasuienv.net/TransFat2005.htm
危険なトランス脂肪酸
http://www.food-safety.gr.jp/syokuhinhyouji/torannsusibousan.htm