今日のことあれこれと・・・

記念日や行事・歴史・人物など気の向くままに書いているだけですので、内容についての批難、中傷だけはご容赦ください。

ル・マンの日

2007-05-26 | 記念日
今日(5月26日)は、「ル・マンの日」
ル・マン(Le Mans)は、フランスの西部に位置する都市で、サルト県の県庁所在地である。どうでも良い話であるが、地理的には地球を、陸半球水半球に分割した際、現在、フランス・ナント附近(北緯47度13分、西経1度32分)がその中心にあたり、陸半球のはル・マン市に存在するだそうだ。
このフランス北西部の町ル・マンで、1923(大正12)年の今日(5月26日)、自動車耐久レースの最高峰といわれる、ル・マン24時間耐久レースの第1回大会が開催された。第1回大会に参加したのは、フランス31台、ベルギーとイギリスから各1台で、30台が完走し、優勝した車の平均速度は92,064キロだったそうだ。(アサヒクロニクル「週刊20世紀」)、また、最初の優勝マシンはシュナール&ワルケルで走行距離は2209キロに過ぎなかった。このようなレースがどのようにして始まったか、またこのときのレースの詳細などは、以下を見られると良い。
History of Le Mans(HONDA)
http://www.honda.co.jp/NSX/nsx-press/press14/history/his_1.html
ル・マン24時間耐久レースは、24時間でどれだけ長い距離を走ることができるかを競う。日本で「ル・マン24時間」と言うと、通常は毎年6月の初めから中頃(一年の内で最も昼の長い時期)に開催される自動車による耐久レースのことを指すが、現地ではオートバイによる24時間耐久レースも毎年4月に開催されているそうだが、ここでは、オートバイのことは触れない。ル・マン24時間耐久レースは、フォーミュラ1モナコグランプリとアメリカのインディ500と並び「世界三大レース」と呼ばれる。また、デイトナ24スパフランコルシャン24とともに「世界三大耐久レース」と呼ばれる事もある。1923(大正12)年に初めて行われて以来、中止されたのはコースが大改修された1936(昭和11)年と、第二次世界大戦の開戦により中止になった1940(昭和15)年から1948(昭和23)年にかけての間だけである。
ルマンの競技においてそのコースは1923(大正12)年の第1回から11回にわたって少しずつ変更されたが、現在のコースの原型となったのは1932(昭和7)年のことだそうである。基本はサルト・サーキットと呼ばれる全長13kmを超える周回コースで行われ、その殆どは一般道(公道)を使用するものであるため、通常のサーキットに比べて路面は荒れている。また、サルト・サーキットは長い直線が特徴。
昨・2006(平成18)年18日から19日にかけて開かれた「ル・マン24時間レース」で勝者となったのは、エマニエル・ピロ(イタリア)ら3人が操ったアウディR10だが、今回のマシンは
R8の後継として開発されたV12「ディーゼルエンジン」搭載車であった。これは、ディーゼルがガソリンに勝った最初の大レースとなった。アウディは3年連続6回目の勝利となり。ディーゼルで380周、5187キロを走りきり、2位に4周、50キロ以上の差をつけた。以下参照。
ディーゼル初勝利 2位に4周の大差 (YOMIURI ONLINE)
http://www.yomiuri.co.jp/atcars/nichiyou/20060622ni_01.htm
今までの24時間の走行距離記録は2004(平成16)年のアウディー(Audi R8)で、5169キロであったというから、18キロ更新したことになる。
ル・マンに初めて日本のチームとマシンとドライバーが登場したのは1973(昭和48)年のこと。その後、日本のメーカーとして初めて総合優勝を果たしたのは、ロータリー・エンジンが参加できる事実上最後の年になった1991(平成 3)年のマツダであり、優勝車両はマツダ・787B、ドライバーは外国人のジョニー・ハーバートベルトラン・ガショーフォルカー・ヴァイドラーであった。
1995(平成7)年には、1985(昭和60)年より参戦を続けてきた関谷正徳が、日本人ドライバーとして初の総合優勝 (マクラーレン F1 GTR /ドライバーは関谷正徳、J.J.レート、ヤニック・ダルマス)を果たした。その後2004(平成16)年にはチーム郷が日本のプライベーターとしては初めてアウディ(R8)で総合優勝を果たしているが、日本のチームが日本のマシンと日本人ドライバーで優勝したことはまだない。
日本勢は来年もガソリンでの勝利を目指しているようだが、他国はディーゼル車で参戦するところが増え、来年は、ディーゼル対ガソリンの「日欧対決」が目玉になるかも知れないというが、早く、日本のマシンと日本人ドライバーでの優勝をしてほしいものだね。
(画像は、1923年5月26日に行われた第1回”ル・マン”のスタート風景。アサヒクロニクル「週刊20世紀」より)
参考:
ル・マン24時間レース - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%9E%E3%83%B324%E6%99%82%E9%96%93%E3%83%AC%E3%83%BC%E3%82%B9
History of Le Mans(HONDA)
http://www.honda.co.jp/NSX/nsx-press/press14/history/his_1.html
Site officiel des 24h du mans (ルマン24時間のオフィシャルサイト。)
http://www.24h-le-mans.com/FR/
ディーゼル初勝利 2位に4周の大差 (YOMIURI ONLINE)
http://www.yomiuri.co.jp/atcars/nichiyou/20060622ni_01.htm
ディーゼルエンジン - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%87%E3%82%A3%E3%83%BC%E3%82%BC%E3%83%AB%E3%82%A8%E3%83%B3%E3%82%B8%E3%83%B3
Le Mans Classic Japan : ルマン・クラシック・ジャパン
http://www.lemansclassic.jp/


坊屋三郎(俳優)の忌日

2007-05-25 | 人物
今日(5月25日)は坊屋三郎(俳優)の2002年の忌日
「年はとっても坊屋(ボウヤ)です」・・・ととぼけた演技で90 歳を超えても健在だった坊屋 三郎(ぼうや さぶろう)が亡くなったのは、2002(平成14)年の今日(5月25日)のことであった。
同年1月には新宿末広亭でステージをこなしていた。マスコミ等の報道によれば、同年5月24日、自宅近くのバス停で倒れ救急車で病院に運ばれ、23日には自宅に遊びに来て楽しく遊んで過ごした2人の孫達に見守られながら、25日、帰らぬ人となったという。坊屋は、24日に死去した清川虹子の通夜に参列するつもりでいたという。清川さんとは“喜劇の盟友”であった。清川虹子のことは昨日のブログで書いた。
坊屋三郎(本名:柴田俊英)は、1910(明治43)年3月28日生まれ。財政破綻し、2007(平成19)年3月6日を持って財政再建団体に認定され、今、世間の注目を集めているあの北海道夕張市出身のコメディアンで、戦前・戦後に人気を誇った歌謡演歌グループ「あきれたボーイズ」の結成メンバーで、俳優・ボードビリアンとして活躍。
古い時代のことは良くわからないのでWikipediaやマスコミ報道などを基に書くが、何でも、お寺の養子になっていたが、音楽の夢が捨てられず上京。日大芸術学部在学中からオペラの合唱団に所属し、西洋舞踏も習ったという。
吉本興業に入るが、1935〔昭和10)年11月、吉本興業浅草六区に浅草花月劇場をオープン。レビュー「吉本ショウ」を始める。歌に演奏に堪能なハイカラな芸風が好評を呼び、同年8月に、川田義雄(後の川田晴久)、坊屋三郎と芝利英の兄弟、益田喜頓の4人組の「第1次あきれたぼういず」が結成された。ギターやウクレレをかき鳴らして、タキシードで現れ、浪花節からオペラ、ジャズまでギャグを交えて展開。「日本で初めての冗談音楽」とたちまち浅草の人気者となったが、軍靴の音が次第に近づいてくる。1938(昭和13)年、ビクターの上山敬三が「あきれたぼういず」の演技に度肝を抜かれ、レコードデビューを持ちかけ、同年8月「アキレタ・ダイナ」「あきれた演芸会」が発売される予定だったが、テスト盤が内務省検閲に引っ掛かり発売禁止となる。台本を書き直し新たに吹き込んだ「四人の突撃兵」「スクラム組んで」「空晴れて」をSP盤として同年12月に発売。爆発的に売れて全国に人気が高まり、日劇を3回り半も客が立ち並び、後楽園球場のプロ野球戦の余興では、広い場内がわきかえるほどの人気を集めたという。
1939(昭和14)年春、人気絶頂のなか新興キネマ演芸部が吉本興業の芸人を大量に引き抜いた。新興には川田を除いた坊屋三郎、芝利英、益田喜頓の3人が移り、新興では、川田に代わって、山茶花究を加えて、「第2次あきれたぼういず」を結成した。(因みに、吉本に一人残った川田は弟の岡村龍雄らとともに「川田義雄とミルクブラザーズ」を結成。あの有名な「地球の上に朝が来る」が大ヒットとなっている。)
同時にレコード会社もテイチクに移籍し、「あきれた石松」「ダイナ競走曲」などのヒット曲を生み出す。1939(昭和14)年この年には、東宝の「ロッパの大久保彦左衛門」で銀幕デビューも果たしている。
1941(昭和16)年12月、太平洋戦争に突入後、ジャズは敵性音楽として禁止となり、音楽とセリフの面で厳しい制限をかけられる。グループ名も「新興快速舞隊」に変更することとなった。「あきれたぼういず」は、芝利英の応召(のち戦死)、益田が一時外に出るなどメンバーが入れ替わりながら1943(昭和18)年まで活動を続けた。「あきれたぼういず」は戦後再結成するが、1951(昭和26)年解散。その後、俳優として、映画界入する。
何でも、新宿でお茶漬け屋も始めたが、「お代?そんなのはいいよ」と芸人仲間はただで飲み食いと言う始末で結局3年でつぶれ、残った借金を返すため全国各地のキャバレーを回ったとか。
そんな彼が、再びスポットライトを浴びたのが1974(昭和49)年の松下電器のテレビ「パナカラー・クイントリックス」のTV広告である。同テレビを挟んで、先生格の坊屋三郎 が生徒のメキシコ人・トニー・ダイヤに英語のレッスンをする。「QUINTRIX/クイントリックス、QUINTRIX/英語でやって御覧よ(中略)外人だろ、アンタ?」といった小柄な坊屋と大柄なトニー、ユーモラスな掛け合いが面白かった。このせりフは、台本になく、撮影中に考え出したアドリブだったそうだ。
このときのCM画像は私が前に書いたブログ「NHKラジオ『英語会話教室』が放送開始された日」に添付しておるので見てください。→ここ
亡くなる前の年・2001年3月に運転免許を更新し、自分で車を運転するほど元気だったようだが、2002年4月に体調を崩し病院へ向かうため自宅を出たところで意識が薄れそのまま路上に倒れ翌日の5月25日永眠に就いた。死因は心不全だったそうだ。
私は、「あきれたボーイズ」で活躍していたときのことはよく知らない。戦後、喜劇映画に多く出演、小さな身体でひょうきんな役、軽妙な演技でわきを支えいたのは良く知っている。ほんとうに、面白いおっさんであったが、今の時代はこのようなコミカルな役者は少なくなったね~。ブログを書いていて、次々と昭和を代表する人がなくなっていくのが非常に寂しい。昔のコメディアンの人たちは基礎だけはきっちり身につけていたからね~。
(画像は、トレードマークの横縞模様のシャツを着て登場。洗濯板やラッパ、クラクションなどを使いながら、にぎやかな舞台の坊屋三郎。2002・6・10朝日新聞より)
坊屋三郎 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9D%8A%E5%B1%8B%E4%B8%89%E9%83%8E
日刊スポーツ・訃報・坊屋三郎さん
http://www.nikkansports.com/jinji/2002/seikyo020528.html
コメディアン - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B3%E3%83%A1%E3%83%87%E3%82%A3%E3%82%A2%E3%83%B3
NHKラジオ『英語会話教室』が放送開始された日
http://blog.goo.ne.jp/yousan02/e/eb8f98dae9f8e891ca496c44c451859a
新宿末廣亭 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B0%E5%AE%BF%E6%9C%AB%E5%BB%A3%E4%BA%AD
その名は「あきれたぼういず」!! Part 1
http://www2.ocn.ne.jp/~jive/jive/akireta.html
その名は「あきれたぼういず」 !!Part 2
http://www2.ocn.ne.jp/~jive/jive/akireta2.html
浅草公園六区
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%85%E8%8D%89%E5%85%AC%E5%9C%92%E5%85%AD%E5%8C%BA
坊屋三郎 (ボウヤサブロウ) - goo 映画
http://movie.goo.ne.jp/cast/91664/index.html
NHKラジオ『英語会話教室』が放送開始された日
http://blog.goo.ne.jp/yousan02/s/NHK%A5%E9%A5%B8%A5%AA

清川虹子(俳優) の忌日

2007-05-24 | 記念日
今日(5月24日)は清川虹子(俳優) の2002年の忌日。
清川虹子(本名:関口はな)と言っても、若い人で知っている人は余りいないであろうが、映画やテレビで活躍していた日本で数少ない、喜劇女優である。ただ私も、経歴については古い時代のことは良くわからないので、新聞などで報道されたところによると、彼女は、千葉県松戸市出身。東京・神田育ちで、1924(大正13)年、神田高等女学校に入学したが中退し、1928(昭和3)年、川上貞奴主宰の「川上児童劇団」に入団。同年、俳優・中条金之助と結婚するが離婚し、翌年退団。その後、浅草の「カジノフォーリー」などの舞台で活躍。1934(昭和9)年、P・C・L(現東宝)の専属女優として「只野凡児・人生勉強」でスクリーンにデビュー。エンタツや花菱アチャコらの喜劇映画に数多く出演。1942(昭和17)年、東宝社長の弟大沢清治と結婚し、惜しまれつつ芸能界を引退したが、1947(昭和22)年に死別。その際、男のように豪快な彼女は、当時の金額で1億円を超す遺産を残されたが「財産目当ての結婚ではなかった」と全額を寄付したという(日刊スポーツ・訃報記事より)。そして、芸能界に復帰。1948年「向う三軒両隣り」「 エノケンのホームラン王」ほか数多くの映画に出演。戦後のこの年代くらいからは、映画好きの私の記憶にもある。
向う三軒両隣り」は、「鐘の鳴る丘」と共に全国のラジオ聴取者に親しまれている連続放送劇の映画化である。そういえば、「向う三軒両隣り」という言葉、昔は、よく使われた言葉だが、最近、顧みられなくなった言葉の一つだよね~。「向う三軒両隣り」の隣り近所の住民が共に知恵を出し合って、多種多様な難問を次々と解決に向けて努力する・・・。昔は、みんな貧乏だったし、皆で困ったことを解決するために助け合いをしていた。プライバシーか何か知らないが、「隣の家は何する人ぞ」といった今の時代、金銭的には豊かになったのか知れないが、心は貧しくなったね~。いや・・・ちょっと、懐かしい、言葉が出てきたので脱線してしまったが 、脱線ついでに、清川虹子とは関係ないが、菊田一夫作のNHKラジオドラマ「鐘の鳴る丘」も良かったな~。
戦後、家を焼かれ親・兄弟を亡くした浮浪児が街に溢れていた時代、そんな浮浪児を何とかしようと、力を合わせて信州の山あいに「少年の家」を作り、共同生活を始める・・。敗戦間もない日本中が涙し、国民の心に明日への大きな希望を育てたドラマである。1947(昭和22)年7月に始まり、以後3年半、600回にわたって放送された。古関裕而作曲の主題歌『とんがり帽子』(唄:川田正子)とともに大流行した。1948(昭和23)年には、松竹によって佐田啓二 主演で全部で3本映画化されている。
ドラマや映画のことは知らなくても誰もが歌は知っているだろう。先ず歌が良かったよ。
緑の丘の 赤い屋根 とんがり帽子の 時計台 鐘が鳴ります キンコンカン ・・・♪MIDIは以下にあるよ。
鐘の鳴る丘(とんがり帽子)/「MIDI歌声喫茶」二木紘三のWebサイト
http://www.duarbo.jp/versoj/v-douyou/kanenonaruoka.htm
作詞:菊田一夫、作曲:古関裕而、唄:川田正子
脱線から、元の清川虹子のことに戻る。女性であるため、映画では脇役が多いが、兎に角、この頃、喜劇的な映画に沢山出ているが、戦後は、シリアスな演技にも芸域を広げた。
1956(昭和31)年のMGM作品「八月十五夜の茶屋 」でマーロン・ブラントとの共演、また、同年から始まった、長谷川町子の漫画を映画化した「サザエさん」シリーズで、母親のフネ役を演じたほか、藤純子主演「緋牡丹博徒」などの人気シリーズで活躍。1952(昭和27)年、伴淳三郎と結婚したが、伴のあまりの女癖の悪さのため1959(昭和34)年に離婚。1968(昭和43)年~1974(昭和(48)年にはに東映・若山富三郎主演極道シリーズに出演。1983 (昭和58)年にはカンヌ映画祭でパルムドール(最高賞)を獲得した映画「楢山節考」に出演。左とん平(利助役)とのラブシーンで70歳にしてヌードを披露。1989(昭和64=平成 元)年の参議院選では、オレンジ共済組合事件 で失職した、友部達夫元参議院議員が代表だった年金党の比例代表候補として立候補し落選している。1990(平成2)年、勲四等瑞宝章を受章している。1994(平成 6)年は、スタジオジブリ制作の劇場アニメ作品「平成狸合戦ぽんぽこ」では、声優としておろく婆の声を演じていた。戦前からの出演した映画は500本を越えるという。昭和の時代に生きた私達には懐かしい女優である。2002(平成14)年5月24日、肺出血のため89歳で死去した。
「関口はな(本名の)の生涯は、いじらしくて、かわいそうで。でも清川虹子 の人生は笑いの中に包まれてるの」・・・。葬儀の会場には2月に片岡鶴太郎のラジオ番組に出演した本人の声が流れていたという。(2002年6月10日朝日新聞惜別より)
榎本健一、伴淳三郎、徳川夢声ら、一世を風靡(ふうび)した喜劇の名優と共演。喜劇女優の先駆けとして、欠かせない存在であった彼女は、また、恋多き女性でもあり、「女は恋をしないとだめ」が口癖で、4人の男性との出会いと別れがあったという。中条金之助、大沢清治、伴淳三郎の3人は判るがもう1人は誰?坊屋三郎との仲も良かったと記憶しているのだがそうではないかな??・・・人のこと、どうでもよいことだが、数字が合わないと気になるものだな~(^0^)。
戦後の映画のことは以下参考に記載の「清川虹子 (キヨカワニジコ) - goo 映画」を見ると良くわかるよ。
(画像は、映画「非牡丹縛と花札勝負」(1969年)で熱演の清川 虹子。2002年6月10日朝日新聞より)
清川虹子 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%85%E5%B7%9D%E8%99%B9%E5%AD%90
清川虹子 (キヨカワニジコ) - goo 映画
http://movie.goo.ne.jp/cast/89306/index.html
「MIDI歌声喫茶」二木紘三のWebサイト
http://www.duarbo.jp/songs.htm
佐田啓二 (サダケイジ)- goo 映画
http://movie.goo.ne.jp/cast/107636/index.html
八月十五夜の茶屋 - goo 映画
http://movie.goo.ne.jp/movies/PMVWKPD7058/
マーロン・ブランド - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%83%BC%E3%83%AD%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%96%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%89
楢山節考 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A5%A2%E5%B1%B1%E7%AF%80%E8%80%83
日刊スポーツ・訃報・清川虹子さん
http://www.nikkansports.com/jinji/2002/seikyo020525_1.html
オレンジ共済組合事件 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%83%AC%E3%83%B3%E3%82%B8%E5%85%B1%E6%B8%88%E7%B5%84%E5%90%88%E4%BA%8B%E4%BB%B6



坂上田村麻呂 (武将,征夷大将軍)の 忌日

2007-05-23 | 人物
弘仁2年5月23日(811年6月17日)は坂上田村麻呂 (武将,征夷大将軍)の 忌日。 <数え54歳> [758年生]
坂上田村麻呂は、平安時代の武官であり、793(延暦12)年に陸奥国蝦夷に対する戦争で大伴弟麻呂を補佐する副将軍の一人として功績を上げた。弟麻呂の後任の征夷大将軍になって総指揮をとり、801(延暦20)年に敵対する蝦夷を討って降した。802(延暦21)年に胆沢城(いさわじょう)、803(延暦22)年に志波城(しわじょう)を築いた。810(大同5)年の薬子の変(くすこのへん)では平城(へいぜい)上皇の脱出を阻止する働きをした。
戦功によって昇進し、805(延暦24)年には参議に列し、翌・806(大同元)年に中納言、810(弘仁元)年に正三位大納言になった。この間、807(大同2)年には右近衛大将・兵部卿(兵部卿参照)も兼任している。811(弘仁2)年 5月23日、 54才の時、山城国の粟田の別宅で死んだ。(事績年譜 参照)
田村麻呂に関するものの最も古い記述は平安時代初期に編纂された勅撰史書『日本後紀』 のようだが、同書は散逸した部分が多いが、田村麻呂に関しては「薨伝」(こうでん)と呼ばれる追悼文が残っているそうだ。これは、正三位以上の高官が亡くなった時に国家の正史に記録される追悼文で、その人物の人柄と業績を忍んで書かれるもの。また、1819(文政2)年、塙保己一が編纂した『群書類従』には、田邑麻呂伝記が収録されていて、その出自や容貌などが少し詳しく書かれているので、下記参考に記載のHPなども覗かれると良い。
「薨伝」には、「坂上大宿禰田村麻呂は赤ら顔で黄色の鬚のある容貌で、人には負けない力を持ち、将帥の量があった。」・・とあるように、平安時代を通じて優れた武人として尊崇され、後代に様々な伝説を生み、また戦前までは、文の菅原道真と、武の坂上田村麻呂は、文武のシンボル的存在とされていた。弘仁2年5月27日(811年6月17日)、山城国宇治郡栗栖村にて死去したとき、嵯峨天皇の勅によって武人らしく甲冑・剣や弓矢を具した姿で棺におさめられ、平安京にむかって立ったまま葬られたとか。
京都市山科区勧修寺東栗栖野町に、坂上田村麻呂墓がある。以下参照。
京都市・山科区HP/14.粟栖野周辺と中臣遺跡
http://www.city.kyoto.jp/yamasina/aruku/kurusuno_14.html
出自については、『群書類従』の田邑麻呂伝記に、大納言坂上田村麻呂は、前漢高祖 皇帝の流れをくむものであり、28代前は後漢の<光武帝、19代前は考霊帝。また13代前の阿智王が、応神天皇26年(294年)の御代に一族百人を率いて大和に渡って来た。そして、勅命により、大和国檜前の地に居を構えた。その阿智王の11代の子孫に刈田丸という人がいて、それが田村麻呂の父親であると・・・。以下参考に記載の「田村」の、「坂上田村麻呂伝記(「群書類従」による) 」などが詳しい。)
古代の中国では、自らが世界の中央にあって最も開化した民族で、周辺諸国は遅れているという”中華思想”が、根強かったが、この影響を受けて、我が国でも天皇の支配する”中華”の周辺には蝦夷(えみし)や勇人(はやと)が住み、彼らはしだいに王化に帰属し、支配者は彼らを教え導くという考え方が取り入れられていた。律令制国家において、辺境(都から遠く離れた土地。国ざかい。)とされていたのは、東辺・北辺・西辺であり、東辺・北辺は、東海東山北陸道の蝦夷と接する地域であり、西辺は、西海道の勇人に接する地域を指していた。政府は、つねに蝦夷や勇人に対して、食を饗し、録を与えるなどの懐柔策をとる一方、その攻撃などを予測して、辺境の地には、軍隊を常駐させ防衛機能も備えた”城柵”を設置していた。勇人は8世紀前半には国家にほぼ服属していたが、東北の地においては蝦夷の勢力が強く、政府は、8世紀後半、新しく城柵を設置した。これを基点として、次々に新たな群を設立し、住民から税を徴収しようとした。このような辺境に対する支配の強化に抗して、蝦夷は774(宝暦5)年には、桃生城(もものうじょう=宮城県桃生郡。以下参考に記載の「桃生城と雄勝柵の築城(柵) 」参照)を、780(宝暦11)には、国府・多賀城を攻撃した。多賀城が簡単に攻略されたのは、恐らく陸奥国内に政府の政策に反対する勢力が予想以上に根強く存在していたからだろう。その後、戦乱が30年以上のの長期にわたった原因の一つはこの点にあるといえる。打ち続く戦乱による蝦夷の打撃は大きかったが、政府側もまた疲弊した。そこで、政府は数々の妥協案を提示し、ついに、坂上田村麻呂 が登場し、802(延暦21)年、蝦夷側の指導者阿弖流為(アテルイ)らを降伏させ、長期にわたる大規模な征討事業に幕を引いたのである。しかし、田村麻呂 の征討(反逆する者や服属しない者をせめうつこと。征伐。)は、彼の武勇のみによるものではなく、現実的な妥協策の成果であり、決して政府側の一方的な勝利を意味するものではなかった。(週間朝日百科「日本の歴史)
蝦夷征討の詳しくは以下参考に記載の「蝦夷征討」を参照されると良い。
坂上田村麻呂が偉大な将軍として古代から中世にかけて様々な伝説を残したのに対し、アテルイは、その後の文献に名を残さないのは、明治以降の歴史学の見地からは、アテルイは朝廷に反逆した賊徒であり、日本の統一の障害であり、歴史の本流から排除されるべき存在であったからだ。再評価されるようになったのは、1980年代後半以降である。学界で日本周辺の歴史を積極的に見直し始めた点と、一般社会において中央に対する地方の自立が肯定的に評価されるようになった点とが、背景にある。アテルイは古代東北の抵抗の英雄として、一躍歴史上の重要人物に伍することとなった。
京都の清水寺は、805(延暦24)に、田村麻呂が寺地を賜り建立したものであり、810(弘仁元)年、嵯峨天皇の勅許を得て公認の寺院となったが、同寺境内には、平安遷都1200年を記念して、1994(平成6)年11月に「アテルイ(蝦夷のの首長)と・モレ(蝦夷の副将)顕彰碑」が建立されている。また、大阪府枚方市の牧野公園内の首塚にも、2007(平成19)年3月に「伝 阿弖流為・母禮之塚」の石碑が建立された。以下参照。
京都新聞電子版/蝦夷の英雄の慰霊碑 枚方・牧野公園に建立
http://www.kyoto-np.co.jp/article.php?mid=P2007050500076&genre=M1&area=O10
幕末から明治にかけて活躍した歴史画家・菊池容斎が、有職故実を考証しながら古代から中世にいたるまでの500人以上の賢人を集め、見開きの右に略伝、左に図を載せた。『前賢故実』がある。ここにどんな人物が描かれているかは、以下参考に記載の「国立国会図書館デジタルアーカイブポータル(ndldap)・前賢故実」を見るとよいが、そこに描かれている髭を生やした坂上田村麻呂 の姿はやはり、日本人と言うより、中国からの渡来人を思わせる。『群書類従』の田邑麻呂伝記に描かれている田村麻呂は赤ら顔で黄色の鬚のある容貌としている。坂上田村麻呂 の先祖阿智王は、応神天皇26年に中国より渡来し、大和国檜前の地に居を構えた。奈良県高市郡明日香村檜前594 には、「於美阿志(おみあし) 神社」がある。同社は、東漢(やまとのあや)の氏寺であった檜隈寺の跡地に鎮座している。於美阿志神社の祭神は阿智使主(あちのおみ)とされており、祭神の阿智使主は坂上田村麻呂の先祖・阿智王と関係が有りそうだ。以下参照。
檜 隈 寺 跡
http://gpeach.nobody.jp/tera/hinokuma/hinokuma.html
坂上田村麻呂に関しては、色々な伝説があるが以下のHPが色々な伝説についてよく調べている。
坂上田村麻呂 伝説の旅
http://www001.upp.so-net.ne.jp/densetutanbo/tamuramaro/tamuindex.htm
(画像は、坂上田村麻呂『前賢故実』菊池容斎。国立国会図書館デジタルアーカイブポータルより)
このブログの字数制限上から参考のHPなどは以下にあります。
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坂上田村麻呂 (武将,征夷大将軍)の 忌日:参考

坂上田村麻呂 (武将,征夷大将軍)の 忌日・参考

2007-05-23 | 記念日
参考:
Wikipedia - 坂上田村麻呂
http://ja.wikipedia.org/wiki/坂上田村麻呂
坂上田村麻呂 さかのうえのたむらまろ
http://db.gakken.co.jp/jiten/sa/201300.htm
・田村
http://www.kanze.com/nonotayori/tamura.htm
坂上田村麻呂 伝説の旅
http://www001.upp.so-net.ne.jp/densetutanbo/tamuramaro/tamuindex.htm
・京都市・山科区HP/14.粟栖野周辺と中臣遺跡
http://www.city.kyoto.jp/yamasina/aruku/kurusuno_14.html
国立国会図書館デジタルアーカイブポータル(ndldap)・前賢故実 菊池容斎(武保)著
http://www.dap.ndl.go.jp/home/modules/dasearch/dirsearch.php?id=oai%3Akindai.ndl.go.jp%3A40016259-00003&cc=02_08_01&keyword=&and_or=AND
蝦夷征討
http://www.page.sannet.ne.jp/gutoku2/emisiseitou1.html
6.付・坂上田村麻呂略伝
http://www001.upp.so-net.ne.jp/densetutanbo/tamuramaro/ryakuden.htm
歴史データ館
http://www.page.sannet.ne.jp/gutoku2/
歴史を学ぼう
http://www14.plala.or.jp/hiro_1/
日本後紀 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%BE%8C%E7%B4%80
日本後紀
http://applepig.idv.tw/kuon/furu/text/kouki/koukitop.htm
群書類従 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%BE%A4%E6%9B%B8%E9%A1%9E%E5%BE%93
・坂上田村麻呂伝記(「群書類従」による)
http://maoda.hp.infoseek.co.jp/tamuramaro.html
氏姓制度 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%8F%E5%A7%93
漢 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BC%A2
・明日香をもっと楽しむための情報
http://www.asukamura.jp/manabi/jiin/index.html
中華思想 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E8%8F%AF%E6%80%9D%E6%83%B3
檜 隈 寺 跡
http://gpeach.nobody.jp/tera/hinokuma/hinokuma.html
桃生城と雄勝柵の築城(柵)
http://maoda.hp.infoseek.co.jp/momonou.html