今日のことあれこれと・・・

記念日や行事・歴史・人物など気の向くままに書いているだけですので、内容についての批難、中傷だけはご容赦ください。

鎌倉幕府滅亡の日

2007-05-22 | 歴史
1333(元弘3=正慶2)年の今日(5月22日)鎌倉幕府が滅亡した。新田義貞が鎌倉に攻め込み得宗・北條高時ら一族約800人が自刃した。
鎌倉幕府は、源平の合戦(治承・寿永の乱)で平氏政権崩壊後、源頼朝が鎌倉に創設した武家政権幕府)である。(鎌倉幕府の成立時期については諸説あるが、成立時期をめぐる諸説を参照)
鎌倉幕府は1333(元弘3=正慶2)年に鎌倉の北条氏が新田義貞らの軍に滅ぼされて幕を閉じた。この間の140年余りを鎌倉時代と呼ぶが、この鎌倉時代の歴史は大きく2つの時代に区分することができる。
先ず、第一期は、源頼朝が鎌倉に入ってから3代将軍実朝までの源氏の時代(1180年~1221年、源氏3代の時代)であり、この時代は、まだ朝廷の力が強く残っていたが、鎌倉幕府の基礎が築かれた。しかし、実朝の死(1219年)によって、頼朝直系の血は早々と途絶えた。
第二期は、1221(承久3)年北条氏を中心とする軍勢が承久の乱後鳥羽上皇方を破り、武家政権が確立した時代。(1221年~1333年北条氏の時代)。全国特に西国掌握の完了、朝廷の掌握により、 鎌倉が名実ともに政治、文化の中心地として機能し、禅宗・律宗・浄土宗など鎌倉新仏教の隆興をみた。4代将軍藤原頼経以降、将軍職は公家皇族を京から迎える形で名目的存在として立て、実際の権限は執権の北条家が行使するという二重体制のもとで続いて来た。(鎌倉将軍一覧及び鎌倉幕府の執権一覧 参照)。
しかし、政局の安定は西日本を中心に商品経済の拡がりをもたらし、各地に定期的なが立つようになるなど、急激な商品経済の発展があったのは良いのだが、1274(文永11)年の文永の役や1281(弘安2 )年の弘安の役の2 度にわたる元冦があったが、、鎌倉幕府はこれを撃退したたものの、他国との戦役であり新たに領土を得たわけではなかったため、十分な恩賞を与えることができず、武士たちの不満を強めた。そして、急激な商品経済の発展はなにより貨幣経済が浸透し、多くの御家人が経済的に没落し、凡下(ぼんげ )と呼ばれる商人階層から借財を重ねた。1284(弘安7)年に弘安の徳政(以下参考に記載の「※弘安の徳政」参照)、さらに1297(永仁5)年に永仁の徳政令を実施して没落する御家人の救済を図ったが、恩賞不足や商人が御家人への金銭貸し出しを渋るなど、かえって御家人の不満と混乱を招く結果に終わった。後醍醐天皇による鎌倉幕府打倒は、この武士たちの不満を利用する形で行われることになる。
しかし、武家社会だけではなく、後嵯峨天皇のあとの天皇家の血筋が持明院統北朝)と大覚寺統南朝)とに分裂し、両派対立する中、双方から一代おきに天皇を出そうなどという変則的な体制が成立するという問題が起きていた。(系譜参照)
そのような中、1318(文保2)年後醍醐天皇が即位すると、天皇を中心とする政治体制の再構築を企てた。こうした後醍醐の姿勢は、幕府の得宗専制と衝突することとなり、1324(正中元)、後醍醐の蜂起計画が露呈し、側近の日野資朝俊基が処罰された(正中の変)。
諦めない後醍醐は、1331(元徳3・元弘元)年、赦免された日野俊基を中心に再度倒幕計画を立てたがこれも事前に発覚し、翌年隠岐島へ流された。しかし、これを契機に得宗専制に不満を持つ楠木正成赤松円心など各地の悪党と呼ばれる武士が各地で反幕府の兵を挙げるようになると、翌1333(元弘3/正慶2)年閏2月24日、上皇(後醍醐)は隠岐島を脱出。そして、1333(元弘3/正慶2)年、幕府は反幕府勢力の討伐のために京都へ有力御家人の足利高氏(尊氏)を派遣したが、一転、尊氏は後醍醐側へつき、京都の六波羅探題を落とすと、新田義貞も上野国生品明神において挙兵。これに呼応した関東の御家人たちと利根川を越えて南進。途中、高氏の嫡子で鎌倉から脱出した千寿王(後の義詮)らも合流、義詮を奉じてからは新田軍は数万規模に膨れ上がったと言われる。幕府は北条泰家らの軍勢を迎撃のために向かわせるが、小手指ヶ原の戦い分倍河原の戦いで敗退し、鎌倉へ追い詰められた。5月21日稲村ヶ崎から上陸して鎌倉に攻め入る。そして翌22日、北条高時ら北条一門は東勝寺において滅亡した(東勝寺合戦)。東勝寺に篭った北条一族と家臣は、古典『太平記』によれば、長崎高重、摂津道準から順にそれぞれ腹を切り、最後に高時、安達時顕と自害したという。太平記には、自害した人々は283人の北条一族と家臣の870人とあるが、文学的誇張もあるとされる。(以下参考の「太平記 1 現代語訳」 の高時以下、北条家一門、自害参照)。これで、鎌倉幕府と北条氏は滅亡した。これが、元弘の乱といわれるものである。後醍醐は京都へ帰還し親政を開始した(建武の新政)。この建武の新政を経て「幕府」という武家政権による政治形態は、足利尊氏による室町幕府、そして、徳川家康による江戸幕府へと継承されていったのである。
楠木正成は河内国・石川郡赤坂村(現大阪府南河内郡千早赤阪村)で、生まれ、下赤坂城で挙兵(赤坂城の戦い)したことで有名であるが、大阪府で唯一の村である千早赤阪村が、隣接する河内長野市への編入合併をを検討しているのだという。それぞれの市町村の事情があるのだろうが、このような歴史的に有名な地名が消えていくのかと思うと残念だよね~。以下参照。
市町村合併:大阪府唯一の村、千早赤阪村が河内長野市と合併検討
http://www.mainichi-msn.co.jp/seiji/gyousei/news/20070501ddm003010139000c.html
(画像の武者像は従来足利尊氏像といわれてきたが 、その確証はなく、高師直〔こうの諸なお〕像の可能性もあるという。週刊朝日百科「日本の歴史」より)」
鎌倉幕府-Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%8E%8C%E5%80%89%E5%B9%95%E5%BA%9C
Area 鎌倉時代
http://www.j-area2.com/japan/history/kamakura/index.html
鎌倉幕府
http://db.gakken.co.jp/jiten/ka/107140.htm
鎌倉時代
http://www.google.co.jp/search?hl=ja&q=%E9%8E%8C%E5%80%89%E6%99%82%E4%BB%A3&btnG=Google+%E6%A4%9C%E7%B4%A2&lr=
鎌倉の歴史
http://www.kamakura-burabura.com/rekisinennpyou.htm
太平記 1 現代語訳
http://www5d.biglobe.ne.jp/~katakori/taiheiki/e01/e01.html
※弘安の徳政
http://jparchives.sakura.ne.jp/incident/medieval/db/1284_kouantokusei.html



漬物の日

2007-05-21 | 記念日
毎月21日は「漬物の日」。
以下参考に記載の全日本漬物協同組合連合会の作成した広告で、「漬物の日」の謂れを読むと、以下のようであった。
愛知県海部郡甚目寺町には、日本に唯一、漬物の神様としてカヤノヒメを祭った萱津(かやつ)神社がある。カヤノヒメ(カヤヌヒメとも)は、日本神話に登場するの神である。古事記では鹿屋野比売神、日本書紀では草祖草野姫(くさのおやかやのひめ。草祖は草の祖神の意味)と表記し、古事記では別名が野椎神(のづちのかみ)であると記している。「ノヅチ」は「野の精霊(野つ霊)」の意味である。神産みにおいてイザナギイザナミの間に生まれた。神名の「カヤ」はのことである。萱は屋根を葺くのに使われるなど、人間にとって身近な草であり、草の代表として草の神の名前となった。
また、漬物の日の公告をみると、「この神社につけものについての云い伝えがあり、その昔、里人が土地からとれる野の初物、海辺からとれる藻塩(もしお)を初穂として、お供えしていた。しかし、せっかくの供物が腐ってしまうのを嘆いた人が、カメを供え、このなかに供物を入れてお供えしたところ、ほどよい塩漬となった。人々は時が経っても変わらない不思議な味を、神からの賜物として尊び、諸病免除、万病快癒の護符として、また保存食品として備蓄したとあり、いつの頃からか、これを「香の物」と書くようになった。萱津神社では、この故事に従い、毎年8月21日を「香の物祭」として祝っている。漬物業界では、21日を「つけものの日」と定め、つけものの普及につとめている。」・・・とあった。
漬物とは、野菜、場合によっては魚や動物などの食品を食塩などとともに漬け込み、保存性を高めるとともに風味を良くしたものを言い。「香の物」、「お新香」とも呼ばれるが、先の説明では、何故漬物を「香の物」と呼ぶのかの説明がない。
古事記・日本書紀においてヤマトタケル(日本武尊)東征の途中、萱津神社に立ち寄っている。村人たちが塩漬けの野菜の漬け物を献上すると「藪二神物(やぶにこうのもの)」と言われ、漬け物を表す「香の物」の語源になったとも言われている。広辞苑」を調べると「やぶにこうのもの」は「藪に剛(こう)の者」つまり、意味は「つまらないものの中に立派な人物がいる。また、藪医者の中にも巧者がいる」とあった。今使われている「藪に剛(こう)の者」も「こんな田舎に神から下されたような美味がある」といった意味の藪二神物」が語源になったのかもね。日本武尊が熱田神宮に鎮座された後、当地の人々は縁の深い「香の物」をお供えしたという。このことについては以下参考に記載の「なばなひとし迷想録」(その4)雑多な「漬け物」メモ書きが非常に詳しいので見られると良い。また、以下参考の「漬物ポータルサイト:全日本漬物協同組合連合会」に漬物の歴史が詳しく書かれているので、歴史のことは省略する。
ただ、中国の紀元前2~3世紀の古文書には、いずれも塩蔵品を示す言葉が見られ、漬物の存在が裏付けられているが、いずれも製造法の記載はなく、それが明らかになるのは6世紀中ごろに出た『斉民要術』以降で、 同書には、漬物を専門に解説した『漬・蔵生菜の法』という項目があって、菘〈ウキナ、小松菜の事〉蕪青〈カブ〉、蜀芥〈タカナ〉の鹹漬〈シオズケ〉法、湯漬〈イタメズケ〉法、醸漬〈マルヅケ〉法、菘根蘿蔔漬〈ダイコンスズケ〉法、瓜芥漬〈ウリカラシズケ〉法など、30余種の製造法を見る事が出来るそうだ。また、蔬菜(ソサイ)の項目で瓜類、(タデ)葉の中には醤蔵が、梅・杏の中に梅干が、そして『八和ノ韲』〈ヤカテノツキアエ〉の項でニンニク、生姜、陳皮(チンピ)、梅干、栗、飯、塩、酢の8種を臼でついて和え物を作り、この中に魚、肉などを入れた、日本の梅肉とカツオブシを練り合せた『ねり梅』を思わせる物が出ていると言う。『斉民要術』で興味深いのは、酢漬を『発酵漬物』と『調味漬物』の2つに判然と分けている点だという。
今でも漬物には発酵漬物と調味漬物があるので、漬物の作り方は当時と基本的には変らないということか。、発酵漬物は植物性乳酸菌などの微生物により熟成した漬物で、中でも米糠乳酸発酵させて作った糠(ぬか)床の中に野菜を漬けこんで作るぬか漬けは、日本を代表する漬物の一つである。ぬかにはビタミンB1、B2などが豊富に含まれており、ぬか漬けにすることにより、ぬかの栄養素も野菜に染み込んで良いのだとか聞いたことが有る。
調味漬物は調味料などで味付けをした漬物で簡単に作れて便利な漬物だ。今ではサラダ感覚の浅漬け千枚漬けそれに、奈良漬けのような伝統漬物などにも下漬けとして利用され、お漬物の主流となっている。日本の漬物の場合、中には柴漬けすぐき漬けのように強い酸味を持つものもあるが、乳酸菌による発酵は酸味が著しく強くならない程度に抑制されているものが多い。
漬物の技術は、乳酸菌発酵を十分に行うと野菜のみならず、動物質の保存にも有効となり、こうしたものは「なれ寿司」に分類されるが、「寿司」は、本来は発酵基質の糖質として炊き上げた米などの穀物を使用するこうした保存食を意味する言葉であった。これが即席の寿司の元となったものである。沢庵漬けのような糠漬けや、糠味噌床も、なれ寿司の穀物を乳酸発酵の基質として利用する技術の延長線上にあり、北陸の「へしこ」などにその中間型を見ることができるという。
栄養のことを考えなければ、暖かいご飯に、お漬物さえあれば、ご飯が美味しく食べれる。漬物は昔から、各家庭でも作られ、田舎などでは夫々味自慢があり、来客に、味噌や漬物を出すところもある。祖父が糠床の古漬けが好きで、毎日、それだけは人に触らせず、つばを呑み込みながら嬉しそうに自分で漬け込みをしていた。私は小さい時から可愛がられ、毎日美味しいからと食べさせられたが、最初は酸っぱかったがなれると美味しく病みつきになった。以来、漬物は古漬け党であったが、歳のせいか、この頃は、浅漬けが良くなった。漬物でご飯を食べていると、しみじみと日本人でよかったと思う。
(画像は、漬物を漬ける『漬物早指南』都立中央図書館蔵。NHKデーター情報部編、ヴィジュアル百貨『江戸事情』より)
参考:
「漬物の日」全日本漬物協同組合連合会で、作成した広告
http://www.jyuichiya.co.jp/kokoku.htm
漬物ポータルサイト:全日本漬物協同組合連合会
http://www.tsukemono-japan.org/
漬物 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BC%AC%E7%89%A9
斉民要術 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%89%E6%B0%91%E8%A6%81%E8%A1%93
調味料 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%AA%BF%E5%91%B3%E6%96%99
なごや育ち-守口漬の尾張屋漬物の神様 萱津神社
http://www.owari.co.jp/jiten/kamisama/kamisama.html
ふるさと・甚目寺
http://www.jinsho.jimokuji.ed.jp/furusatohakkenn/furusatojimokujitop.htm
なばなひとし迷想録・なばなひとし迷想録
http://members.at.infoseek.co.jp/ncnycy/meiso14-4.html
ヤマトタケル - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A4%E3%83%9E%E3%83%88%E3%82%BF%E3%82%B1%E3%83%AB
飛鳥の扉>日本武尊
http://www.asukanet.gr.jp/tobira/yamatotakeru/yamatotakeru.htm
歴史シ-ト
http://www1.odn.ne.jp/~cdn43760/page005.html


ローマ字の日

2007-05-20 | 記念日
今日(5月20日)は、「ローマ字の日」
財団法人日本のローマ字社(NRS)が1955(昭和30)年に制定。
ローマ字国字論を展開した物理学者・田中舘 愛橘(たなかだて あいきつ)の1952(昭和27)年5月21日の命日に因み、きりのいい20日を記念日としたそうである。
田中舘愛橘、 (1856年10月16日〔安政3年9月18日〕 ~ 1952〔昭和27年〕5月21日)は、陸奥国二戸郡福岡(現在の岩手県二戸市)の南部藩士の家に生まれた地球物理学者であり、東京帝国大学教授である。1944(昭和19)年に文化勲章を授章している。
ローマ字とは、ラテン文字アルファベットを用いて日本語を表記したものである。
第二次大戦後の連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)のもと民主化政策の一環で招かれた第一次アメリカ教育使節団が昭和21年(1946年)3月31日に出した第一次アメリカ教育使節団報告書は、日本語に使用される文字数(特に漢字)が異常に多いために日本語の習得は困難であり、それは、日本の民主化を遅らせると考え、文字数を大幅に減らして日本語の習得を早くできるようにするために、日本語の主たる表記をローマ字とすべきだという主張をした。以下参考に記載の「詞の玉垣」の中にある以下のものを参照。
昭和21年4月7日 米国教育使節団報告書 (国語改革)
http://kstn.fc2web.com/1946_sisetudan.html
そして、当時の新聞社にも賛成のものが多かったそうで、それは印字が楽になるからであろう。1945(昭和20)年、読売報知(今の読売新聞)は「漢字を廃止せよ」と題された社説を掲載した。以下参考に記載の 「詞の玉垣」の中の以下参照。
昭和20年11月12日 社説 漢字を廢止せよ (讀賣報知=今の読売新聞)
http://kstn.fc2web.com/s20_kanjihaisi.html
このように主張する人達をローマ字論者という。また、類似の主張にカナ書き論もある。中には、1946(昭和21)年4月、志賀直哉は雑誌『改造』に「国語問題」を発表し、日本語を廃止して、世界中で一番美しい言語であるフランス語を採用することにしたらどうか・・・などというふざけた提案さえ行っているのである。以下参考に記載の「言葉 言葉 言葉 」の中にある以下のものを参照。
志賀直哉の日本語廢止論
http://members.jcom.home.ne.jp/w3c/kokugo/rekishi/ShigaNaoya.html
戦後に行われた国語改革は、漢字をめぐる政策の内、今日の日本語に対する影響が最も大きいもののひとつであるとされている。
GHQはその後、日本の識字率の調査を行った結果、識字率が高かったため、結局、漢字全廃とローマ字論は実行に移されなかったが、それまでの使用漢字当用漢字現代仮名遣いが制定された。
日本語の表記法として漢字を用いることの是非は、少なくとも幕末以来度々議論の対象となってきたとされる。このことについての詳細は、主な政策論議の歴史 を参照されたい。その中で、漢字廃止論者の中で、漢字に変わる文字としてローマ字論を主張するローマ字派は明治時代初頭からあり、それを推進する団体として「羅馬字会」(ろーまじかい)が1885(明治18)年創立された。羅馬字会はローマ字綴りとしてヘボン式ローマ字を採用したが、会員の一人であった田中館愛橘が、五十音図に基づくローマ字綴り(のちの「日本式ローマ字」)を提案。結局、会では採用に至らず、田中館は羅馬字会を離れた。ヘボン式と日本式との長い対立は、ここから始まっている。
そして、ヘボン式と日本式という二様のローマ字綴りの存在する問題を解決すべく、昭和初期に「臨時ローマ字調査会」が設置され1936(昭和11)年答申が出され、この答申に盛り込まれたローマ字綴りは、内閣訓令第3号として制定されたことから「訓令式ローマ字」と呼ばれている。第二次大戦後、米国統治下でふたたびヘボン式が勃興して混乱が生じたため、1937年の内閣訓令第3号は廃止、1954年に内閣告示第1号として新たに公布しなおした。(内閣告示第一号参照)
1989年には国際標準化機構(ISO)が訓令式(厳密翻字は日本式)を採用、ISO3602として承認した。(国際規格/ドキュメンテーション―日本語(仮名書き)のローマ字表記参照)
国外では英語を中心とするラテン文字言語において日本語を表記する際に用いる。発音表記としての意味も担うことが多い。使用はもっぱら日本語の単語や語句を引用する場合に限られ、日本語の文章全体がローマ字で表記されるのは稀である。
私も国語が苦手なので、漢字が難しいと思う人のことはよく判る。夏目漱石は「自分は英文と漢文を修めたが、漢文ほどに英文を理解出來なかつた」と云ふやうな事を言つて、漢字廃止論を批判している者もいるが、私には、漢字だけで書かれた漢文を十分に理解するだけの能力もないが、しかし、漢字には夫々意味があるので、ある程度は、理解することが出来る。漢字は、日本の歴史的な背景のもとに出来たもので、日本の文化そのものであり、大切にすべきだと思う。だから、難しい言葉や語にはルビを振ったり注釈をつければよいのである。学校で最低限どこまでのことを教えるかは、別に論議すればよいが、それは別として、漢字そのものの使用に当っては、出来るだけ多くの漢字が使える方が良いと思う。判らなければ、辞書などを使って調べればよいのだし、誰にで読んでもらいたいと思えば、文章を書く人が使用する字を選んで書けば良いことではないかと思う。漢字が難しいからと言って、カナ文字使用や、ローマ字を使用するなどと言うのは、余りにも、乱暴な話であろう。しかし、明治時代の歌人・詩人・評論家石川啄木は、1909(明治42)年、就職活動が実り、3月1日、東京朝日新聞の校正係となり、その才能を正当に評価され、それに報いる仕事を残す事が出来るようになるが、その年の4月3日よりローマ字で日記を記している。4,5,6日分。7日より16日の間、新しいノートでそれまで苦労をかけた家族を迎えるまでの苦悩を『ローマ字日記』に記している(以下参考に記載の「啄木の息」「ローマ字日記」・目次で日記を読むことが出来る)が、ここを見ると何故ローマ字で日記を書いたのかも良くわかるので参照されると良い。このような個人的なことから、ローマ字で日記を書くのなら、それはそれなりの意義があり、私も面白いな~とは思うが・・・。
〔画像は石川 啄木「ROMAZI NIKKI 」桑原 武夫 編訳、岩波書店

参考:
"Zaidan-hôzin Nippon-no-Rômazi-Sya
http://www.age.ne.jp/x/nrs/
田中舘愛橘記念科学館
http://www.civic.ninohe.iwate.jp/aikitu.html
ローマ字論- Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%9E%E5%AD%97%E8%
AB%96

詞の玉垣
http://kstn.fc2web.com/
国語国字問題- Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E8%AA%9E%E5%9B%BD%E5%AD%97%E5%95%8F%E9%A1%8C
言葉 言葉 言葉
http://members.jcom.home.ne.jp/w3c/
日本式(訓令式)ローマ字の拡張表
http://xembho.s59.xrea.com/siryoo/roomazi_no_hyoo.html
作家別作品リスト:石川 啄木
http://www.aozora.gr.jp/index_pages/person153.html
漢文 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BC%A2%E6%96%87
ローマ字博覧会
http://www.geocities.jp/masa_nip/
Toki wa uturu
http://www.cityfujisawa.ne.jp/~roomazi/Imamono/tokiwa.html
啄木の息「ローマ字日記」・目次
http://www.page.sannet.ne.jp/yu_iwata/romajimokuji.html

熟カレーの日

2007-05-19 | 記念日
5月19日「熟カレーの日」(毎月19日)
Glico「こんな記念日しっている?」を見ると、『熟(じゅく)』=19(じゅうく)をかけて、毎月19日をグリコでは『熟カレーの日』と呼んでいるそいうだ。
実際に、毎月19日前後なると、カレーが食卓に登場する機会が増えるそうで、家族みんなが大好きなカレーは、材料費も安く、調理も簡単で、給料日を前にした主婦の強い味方になっていると言われているそうだ。ひと晩寝かせたカレーは、具材からエキス(うまみ物質、甘み物質、無機質等)がカレーソースに移行し、コクが増すという。
1月22日が「カレーの日」なので、その日のブログで「カレーの日」のことを書いたので、重複するようだが、少し、違った点から書いてみよう。(以下参考の1月22日「カレーの日 」も参照ください。)
カレー (Curry) は、複数の香辛料からなるカレー粉で野菜や肉を煮込んだ料理。原型となった料理はインド及び周辺のアジア諸国を中心に作られていた味付けだが、現在は世界中で見られる調理法であるが、日本にはカレー味の煮込んだスープ(カレーソース)を白米の飯にかける料理、カレーライスがある。日本語でカレーといえばこのカレーライスを意味する場合が多い。
私の地元・兵庫県篠山市郷土料理に「牡丹鍋」がある。しかし、の肉を用いた鍋料理を「猪鍋」また「シシ鍋」などといわずに、「牡丹鍋」と呼ぶが、それは、日本では仏教の影響で長く、獣肉食が禁忌とされた時代も、山間部などでは「山鯨(やまくじら)」(肉の食感が鯨肉に似ているため)と称して細々と食べられていたが、この地方では、白い脂肪に縁どられた赤いイノシシの肉は、切り分けて皿に盛った状態が牡丹の花のようであることから「牡丹」鍋と言って食べていたようだ。明治になってそのような、長年の肉食禁忌を打破する機会となったのが、「Boys be ambitious!」の明言で有名なクラーク博士が、生徒たちの体格の貧弱さを憂えて米飯偏重の食事から、パン食・肉食への転換を提案し「生徒は米飯を食すべからず。但し、ライスカレーはその限りに非ず」として、奨励したことによるともいわれているそうだ。
インド生まれのカレー粉が18世紀末、イギリスのクロス・アンド・ブラックウエル社(C&B)で作られ、イギリスで発展し、明治の文明開化の頃、日本へ西洋料理として紹介された。西洋料理でありながら、ごはんと一緒に組み合わせて食べられることから米を主食とする日本人には馴染みやすかっただろう。牛肉食は文明開化の象徴になり、肉は滋養の素という日本人の概念に変化。簡便な肉食法としてカレーライスの基盤が出来た。以下参考の「国立国会図書館:ギャラリー:常設展示」では、暮らしを変えた新製品展をしており、その中の「製品番号:1カレーライス」で展示されている書物の中からカレーについての記載をを見ると、1860(万延元)年に、福沢諭吉が渡米した際、『華英通語』という、英語と中国語の辞書を購入し、帰国後、これに訳語と英語の発音を付して出版したが、この中に"Curry"が紹介されているという。(以下参考の国立国会図書館ホームページ「近代デジタルライブラリー」で、華英通語で検索すると全訳が見れる)。また、記録に残る限り、日本人で最初にカレーライスを食べたのは、明治期の物理学者、山川健次郎だと考えられており、1871(明治4)年、国費留学生としてアメリカへ渡る途中、船酔いと慣れない洋食による極度の体調不良の中で、飢えをしのぐために迷った挙句注文したのがカレーライスであったが、上にかかっているカレーを食べる気になれず、添えてあった杏の砂糖漬けと一緒に米飯を食べたと『川老先生六十年前外遊の思出 』で語っているそうだ。また、現存する資料の中でカレーの作り方に触れている最も古いものの一つ『西洋料理指南(下巻)』敬学堂主人著、雁金書屋(明治5年)では"西洋料理"として紹介されており、玉ネギではなく長ネギを用いるほか、「鶏、海老、鯛、蠣赤蛙等ノモノヲ入テ能ク煮」とあるそうだ。同じく、『西洋料理通(下巻)』、仮名垣魯文編、万笈閣 (明治5 年)もカレーの作り方に触れており、こちらには"「カリド、ウイル、ヲル、フアウル」カリーの粉にて肉或は鳥を料理するを云"と紹介されているそうで、『西洋料理指南』のカレーと比べると、現代の私たちが食べているカレーに近いものだそうである。そして、『日本料理法大全』 石井治兵衛著/石井泰次郎校/清水桂一訳補、第一出版(1965年)の原本は1898(明治31)年刊で、石井家は代々江戸幕府の料理番を務めており、石井治兵衛自身も宮内省の大膳職という日本料理の専門家で、その彼が"日本料理"としてカレーの調理法を記載しているという。
日本人初の西洋料理店は1877(明治10)年、風月堂で洋食を始め、カレーライス、カツレツ、オムレツ、ビフテキなどを8銭均一で売ったのが最初だと一般に言われており、私もそうだと思って、以前に1月22日「カレーの日 」に書いたのだが、どうも、それより、早く有ったらしい。『日本・西洋・支那三風料理滋味之饗奏』 伴源平編 赤志忠雅堂 (明治20.年)では、日本人による初の西洋料理店は、1863(文久3)年、に草野丈吉(1840-86)が長崎で開業した「自由亭」だそうで、いつ頃からかは不明だが、カレーも提供されていたという。店は繁盛し、1881(明治14)年には、大阪中之島にも新店を開業しており、本書には「難波鉄橋上ヨリ中之島公園ヲ望ム図」があり、その一角に自由亭の建物が描かれているそうだ。以下参考に記載の「長崎開港物語・第4回 西洋料理編(二)」にそのことが、かなり詳しく書かれている。
「ぼくはいつか、あの人に淀見軒でライスカレーをごちそうになった。まるで知らないのに、突然来て、君淀見軒へ行こうって、とうとう引っ張っていって……」学生はハハハと笑った。三四郎は、淀見軒で与次郎からライスカレーをごちそうになったものは自分ばかりではないんだなと悟った。(青空文庫「図書カード:三四郎著者名: 夏目 漱石
『三四郎』夏目漱石著、春陽堂(明治42年)の中にも、ある風変わりな学生が見知らぬ学生を洋食屋へ連れていき、ライスカレーを食べさせる場面があり、この頃にはすでに、ライスカレーは気安く人におごることができるほど大衆化していたことが窺える。このころ使われていたカレー粉はイギリスから輸入されていたクロス&ブラックウェル社(C&B社)のものであった。大正時代に入りたまねぎ、ジャガイモ、玉葱、人参などの具を煮込んだものにカレー粉を入れ、小麦粉を加えてとろみを出した日本式のカレーソースが誕生。この日本式カレーの処方は、軍隊食メニューに採用されるが、栄養上からも、調理の簡便性の点でも集団給食として適していることが大いに評価されたからであり、カレー普及の一布石として特筆されるという。国産のカレー粉は、山崎峯次郎が1923(大正12)年日本で初めて製造に成功、同時に「日賀志屋」を旗あげし、自ら作り上げたカレー粉の普及に乗り出したという。これが、現在のエスビー食品の前身であり、山崎峯次郎は創業者その人である。 (以下参考のS・B資料室より)
カレーの歴史を見ても、学校給食との関係は深い。日本人は平均して月3回は食べている、という統計もあるようで、今や日本人の食生活になくてはならないカレーとなっている。スパイスの効いたカレーライスは、食欲もそそるし、ある程度の栄養も備えていて、食欲をそそる食べ物であり、子供にも好き嫌いの少ない食べ物であろう。
今は両親の共働きも多く、父親が仕事で帰りが遅い上、母親にも仕事があり残業で夕食時に間に合わないことだってある。よしんば間にあっても、食事の支度に十分時間をかけられない。その上、子どもたちには塾通いがある。それで普通なら比較的みんな揃いやすい筈の夕食もそれぞれ勝手となってしまうことが多いようである。そんな時に、カレーは前もって作り置きも出来るし、ひと晩寝かせたカレーは、具材からエキスがカレーソースに移行し、コクが増すといわれているそうで、塾通いの子供たちに食べさすのには便利な食べ物かも知れない。中には、家で食べずに、夕食は塾で家から持ってきたお弁当やコンビニで買ってきたものを、室で黒板に向って一人で食べているこも多いという。そんな、「家族で揃って楽しく夕食を食べる経験が少ない」子供たちが多くなっているようである。以下参考に記載の「腸科学ブログ | 食事のとり方のポイント 3」をみると、”今子供たちの間に、過敏性腸症候群が増えてきている”という。 ”胃腸は、精神面の影響を受けやすい臓器であり、例えば悩みがあると食欲が落ちたり、ものをおいしいと感じなかったりする。それは消化液の出が悪くなっている証拠、医学的な裏付けがあってのこと。楽しい食卓でおいしくものを食べるということが、身体にもいいこと。”だというが、そのとおりであろう。塾通いの子供に、何を食べさせるかなどではなく、『食事を楽しい雰囲気でとる』にはどうしたらよいかを真剣に考える時代に来ているのだろうと私は思うが・・・この「楽しい食卓作り」が、現代社会では、難しいようだね~。いくら、子供がカレーが好きだからと言っても、一人ぽっちで喰べるカレーは余り美味しく感じないだろうからね~。それも、月に3回程度なら良いが、しょっちゅう、カレーばかりではね~。
(画像は1月22日「カレーの日 」のものを使う。)
Glico「こんな記念日しっている?」
http://www.glico.co.jp/info/kinenbi/index.htm
カレー - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%AC%E3%83%BC
1月22日「カレーの日」カレーの日
http://blog.goo.ne.jp/yousan02/e/6ba91f6617eb091258617f813e9f641c
篠山市 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AF%A0%E5%B1%B1%E5%B8%82
S・B資料室
http://www.sbsoken.com/siryo/index.html
カレー資料館(ハウス食品)
http://housefoods.jp/data/curry/index.html
かれえ~伯爵
http://contest2004.thinkquest.jp/tqj2004/70145/top4.html
goo カレー特集
http://special.goo.ne.jp/curry/about/index.html
国立国会図書館:ギャラリー:常設展示/暮らしを変えた新製品/製品番号:1カレーライス
http://warp.ndl.go.jp/cgi-bin/netwp/BNWPLinkChk2.cgi?fl=www.ndl.go.jp%2Fjp%2Fgallery%2Fpermanent&mt=000000000280&cl=00000000000017750&ln=jousetsu129.html
長崎開港物語・第4回 西洋料理編(二)
http://www.mirokuya.co.jp/syokubunka/bunka4.html
図書カード:三四郎著者名: 夏目 漱石 
http://www.aozora.gr.jp/cards/000148/card794.html
山川健次郎 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E5%B7%9D%E5%81%A5%E6%AC%A1%E9%83%8E
福澤諭吉 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A6%8F%E6%BE%A4%E8%AB%AD%E5%90%89
腸科学ブログ | 食事のとり方のポイント 3
http://blog.yakult.co.jp/cho/archives/2007/04/post_44.html
Nakanoshima-Style.com <中之島今昔物語 -明治の中之島->
http://www.nakanoshima-style.com/story/story3.htm
洋食欧米食と和食との融合 館内展示パネル キッコーマン国際食文化研究
http://kiifc.kikkoman.co.jp/tenji/tenji10/youshoku02.html



阿部定事件の発生した日

2007-05-18 | 歴史
1936(昭和11)年の今日(5月18日)は、「阿部定事件」の発生した日。・・・といっても、今の若い人は知らないかもしれないが、我々の年代の者は、「阿部定」といえば、この事件を思い出すだろう。
時は、1936(昭和11)年、陸軍皇道派の影響を受けた青年将校らが昭和維新を掲げて起こしたクーデター未遂事件(「二・二六事件」)の余韻もまだ覚めやらぬ5月20日夕刻、「稀代の妖女阿部定/品川駅前旅館で捕まる」との号外が報じられた。
2日目の5月18日、東京都 荒川区尾久待合茶屋「満佐喜(まさき)」で、男の死体が発見されたが、死体の局部が切り取られていた。左太腿部には血で「定吉2人」の血文字、左腕にも刃物で「定」という字が刻まれていた。男は、料理屋の主人石田吉蔵。その愛人で同店仲居の阿部定は、男の局部を隠し持ったまま失踪。彼女の行方をめぐって新聞には扇情的に書きたて、様々な流言飛語が飛び交ったという。
1936(昭和11)年のこの年は、3ヶ月前に、「二・二六事件」の号外が踊り、東京には、解除される7月18日までの5ヶ月にも及ぶ、戒厳令が布かれていた。にわかにきな臭い様相を呈し、斎藤隆夫衆議院議員の臨時国会での「粛軍演説」が飛び出し、言論規制法規が相次いで作られ、メーデーも廃止されていたさなかに起こった事件である。
「阿部定事件」は当時としては極めて猟奇的な事件であったたとはいえ、当時の各新聞の騒ぎようは、世相に対するジャーナリストの皮肉でもあり、また、読者にしても、そのような戦争(第二次世界大戦(1939年~1945年)前夜の重っ苦しい世相に一抹不安をかかえていたことから、そのハケ口を喜んだところもあったようだ。
愛人である男性を殺害したという容疑で殺人罪で逮捕された定は、当時の社会に衝撃を与えた。定は事件当時30過ぎの女ざかり。法廷で、殺人の動機を問われ、ためらわず、「好きだったから」と答えたという。日本近代に、こんな例は今までになく、定の言葉に全く嘘がないらしいことが伝わって、定は、一躍人気者になってしまったという。妻子持ちの愛人(石田)と東京市内の待合を転々とし、情事に明け暮れたあげく、男を、「自分だけのものにしたい」衝動にかられて絞殺。男性のと言うよりも、「ふたりの関係」のシンボルたる一物(男性の局部)を切取って身に付け、2日後に逮捕された。法の前での定の供述は極めて素直、かつ、具体的だったという。「・・・石田が上になって関係しました。関係してから石田は少し眠いから眠るよ、お前起きていて俺の顔を見ていてくれといいますから、私は起きて見ていてあげるからゆっくり寝なさいといい、半身を起こして石田の顔の上に頬を擦り付けていると、石田はウトウトしておりました(予審調書)。当時は、「愛」という言葉が一般庶民にまで使われ始めた時代だったのだが、定の犯罪は、この言葉が人々に与えるイメージによくフィットしていた。定の告白は人々をおおいに納得させた。いや、語られたそのあからさまな色模様が、では必ずしもなく、彼女の「好きである」ことへの確信犯振りがである。東京の下町に育った「御侠(おきゃん)」な定は、15,16のころから、浅草の不良に交じり、芸者家業から娼妓生活へ。各地を転々とした後、娼妓から足を洗って働き始めた料亭の主人が、清元の上手な、セックスはなお巧みな、石田だった。石田は定にとって、生涯で初めて「すきになった」人だったという。男をこなすのが商売の娼妓生活の時代に「恋人」など出来るはずもなく、彼女がセックスに快感を覚えたのもかなり遅く、20代も後半、遊女から足抜けして大阪で1人暮らしを始めた頃からだったという。「このときから情事に快感がわき、一人寝は寂しくてなりませんでした」とここでも定は素直に述べているという。(朝日クロニクル『週刊20世紀)
以下参考の「阿部定事件・予審調書」の感想とまとめの中でも書かれているように、”男の性器を切り取るという行為は別として、性交を楽しむために首を絞めるというのは、今では別段珍しくない。阿部定裁判で担当の竹内弁護人は、「吉蔵は他人から虐められる事を喜ぶ精神異常者であり、お定はいぢめ、いぢめられる事の両性を兼ね備へた異常者である。此結合要素を備へた男、女が遭ふ事は千万人に一人の割合であらう。然るにお定、吉蔵の二人は陰陽、凹凸全く符号融和すべき千載一遇の暗号の結果であり、此の稀有な運命の下に、運命の神の悪戯に依つて本件を誘発したものである」として、異常性愛による犯罪であることを強調した。しかし、それは当時の人たちにとって異常であったのであり、今からみれば異常の程度は、それほどではないといえる。つまり、単なるフェティシズムの発露というべきものであろう。”と書いてあるが、私も、今、改めて、調べてみて、そのように思う。定は愛人である男を殺すつもりはなかった。戯れに男の首を絞めて死んだことが判ったとき、定は、自分を楽しませてくれた男の局所を切取って、自分の肌から話したくないと考えた。それは、定の男への愛情であると考えた。定にとって「それは、一番可愛い大事なものだから、そのままにしておけば湯棺(納棺する前に死体を清めること。湯荒い。)のとき、お内儀さんが触るに違いないから、誰にも触らせたくない」とのちに供述しているという。そして、5月20日、夕刻、定は品川の駅前旅館「品川館」で逮捕される。旅館に臨検に現れた高輪署の刑事が「大和田直」という偽名で投宿していた女の部屋を訪ねたとき、女はは、ビールを飲んでいて、「あんまりソワソワしないで、少しは落ち着いたら。アンタの捜しているのは阿部定でしょう」と言い、刑事が黙っていると「私が定よ」と言い、刑事が「からかうな、忙しいんだ」と、怒ったように言ってそのまま帰ろうとすると女は「本当よ。私がお定!」と言ったという。(以下参考の事件・阿部定事件より)・・・だから、本当に、悪気はなかったのだろうね~。
裁判の結果、事件は痴情の末と判定され、定は懲役6年の判決を受けて服役。服役中の定は模範囚で、普通の女囚の1日にこなすセロハン紙細工などを2倍も消化していたという。1936(昭和11)年流行語に「下腹部」 がある。阿部定事件の新聞報道で、切り取られた局部を指す言葉をこのように表現していたように、「性」だの「愛」などと言うことをまだまだ、人前で言うことをはばかられる時代。そんな定が時ならぬ人気者となった。1941(昭和16)年に「皇紀紀元2600年」を理由に恩赦を受け出所するが、定の6年間の刑期中に、定の純情に共感した人々から結婚の申し込みが400通もあったともいう。
釈放後は、刑務所長などの計らいで名前を変え市井で一般人として働き結婚もし普通の生活を送っていたが、終戦直後突然新聞記者が訪れ、夫は妻が世間を騒がせていた定と知りそれまでの平和な暮らしが崩壊。また、カストリブームの中で再び阿部定事件が脚光を浴び、興味本位の『昭和好色一代女 お定色ざんげ』と言う書籍が出版され、定は著者と出版社を名誉毀損で告訴している。さらに、その後、この事件を基にした劇や映画も製作されている。 この事がきっかけで再び各地で色々な仕事を転々とするようになるも、1971(昭和46)年に置手紙を残し身内から忽然と姿を消し、以降の消息及び生死は不明となっている。 阿部定がその遊女人生の最後を過ごしたという丹波篠山の遊郭(兵庫県篠山市八上)。大正楼では「おかる」、「育代」と名乗っていたそうだ。(大正楼のある町のことは、以下参考の「阿部定が住んだ遊郭の残る町/丹波篠山」を参照)松竹ヌーベルバーグの旗手ともいわれた大島 渚が、国際的名声を不動にしたのは、この阿部定事件を題材に男女の性的執着と究極の愛を描いた1976(昭和51)年の挑発的作品『愛のコリーダ』(L'Empire des sens)であった。この映画は、1973(昭和48)年にフランスより合作のポルノ映画製作を持ちかけられたが、刑法と映論が映画作家のポルノ表現を大きく規制していた時代、規制の壁に返事に窮していた彼は、1975(昭和50)年フランスのポルノ規制の解禁により、完全なポルノ映画を作りを狙い、フランスから生フイルムを輸入。これを使って、国内で撮影し、未現像のままフランスへ送り戻して、フランスで完成させた。カンヌ映画祭で上映され大好評を博し、ポルノ作品の上映が可能な殆どの国から上映申し込みが殺到したという。一方、日本で公開のものは、映論に届く前の税関検査でズタズタに修正されたため、無修正版を見たい人のためのパリツアーが企画されたほどだという(朝日クロニクル「週間20世紀」)。同作品は2000年にリバイバル上映されたが、修正個所は大幅に減ったものの、ボカシが入ったものとなっており、現在でも国内でオリジナルヴァージョンを観ることはできない。
また、クインシー・ジョーンズの軽快な「愛のコリーダ」と言う曲がある。かなり濃い目の大人のラブソングで、当時、大島渚監督の同名映画にQ.ジョーンズが惚れ込み、この映画に捧げたというが、映画のヒットに相乗効果を狙って邦題のつけたのが実情ではないだろうか?。オリジナルのタイトルは「The Dude」詳しくは、以下を見ると良い。試聴も出来るよ。
「Ai No Corrida」/クインシー・ジョーンズ
http://plaza.rakuten.co.jp/miyajuryou/diary/200510210000/
(画像左は、逮捕直後、高輪署での阿部定。3通の遺書を持ち自殺するつもりだったという。逮捕されておるのに笑顔であるのが印象的。右は、「愛のコリーダ」1976年仏=日〔大島渚プロ〕出演松田暎子、藤竜也。阿部定の猟奇殺人を描いたもの。朝日クロニクル「週間20世紀」より)
阿部定事件-Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%98%BF%E9%83%A8%E5%AE%9A%E4%BA%8B%E4%BB%B6
事件
http://www.alpha-net.ne.jp/users2/knight9/jiken.htm
阿部定事件・予審調書(全文)
http://www.asahi-net.or.jp/~gr4t-yhr/abesada0.htm
なつかしの映画・TV番組(うら話)
http://wing2.jp/~barclay/treetv/tree.php?n=102
戦争報道/前坂俊之HP
http://www.u-shizuoka-ken.ac.jp/~maesaka/0301016_sensouhoudou.htm
斎藤隆夫衆議院議員の「粛軍演説」(抜粋)・第二次世界大戦資料
http://www.ne.jp/asahi/masa/private/history/ww2/text/syukugun.html
[PDF] 猟奇の阿部定事件発覚!戦前の悪女たち
http://www.yomiuri.co.jp/komachi/data/link/pdf/chronicle_1107.pdf
1936年[ザ・20世紀]
http://www001.upp.so-net.ne.jp/fukushi/year/1936.html
作家別作品リスト:坂口 安吾
http://www.aozora.gr.jp/index_pages/person1095.html
清元節 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%85%E5%85%83%E7%AF%80
フェティシズム - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A7%E3%83%86%E3%82%A3%E3%82%B7%E3%82%BA%E3%83%A0
松岡正剛の千夜千冊『堕落論』坂口安吾
http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya0873.html
部定が住んだ遊郭の残る町/丹波篠山
http://www.photohighway.co.jp/goodcrew/AlbumTop.asp?key=1872957&un=59265&m=2
ピンク映画
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%94%E3%83%B3%E3%82%AF%E6%98%A0%E7%94%BB
愛のコリーダ 完全ノーカット版
http://joshinweb.jp/dp/4988013628502.html?ACK=BLG002701
クインシー・ジョーンズ - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AF%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%82%B7%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%83%BC%E3%83%B3%E3%82%BA