今日のことあれこれと・・・

記念日や行事・歴史・人物など気の向くままに書いているだけですので、内容についての批難、中傷だけはご容赦ください。

ノストラダムスの日

2007-05-04 | 記念日
今日(5月4日)は「ノストラダムスの日」
今日は何の日~毎日が記念日を見ると、1555年の今日(5月4日)は、フランスの占星術師・ノストラダムスが『百篇詩集(諸世紀)』を出版した日だという。この詩集は日本では一般に『ノストラダムスの大予言』の名でよく知られれているのではないか。
ノストラダムス(本名:ミシェル・ド・ノートルダム。ノストラダムスは姓をラテン語風に綴ったもの)は、ルネサンス期の改宗ユダヤ人を先祖とするフランス・プロヴァンス地方の医師であり、前半生は専ら医療活動に従事したが、後半生に医師・占星術師注1〕としての蓄積を活かして様々な著作を発表し当時大いにもてはやされたそうだ。中でも、占星術師としての予言が評価され、王妃カトリーヌ・ド・メディシスら有力者の中にも重用する者が現れたという。
彼の作品で特によく知られているのが、『ミシェル・ノストラダムス師の予言集』通称『百篇詩集(諸世紀)』で、1555年の今日(5月4日)ノストラダムスの名で刊行したということだそうだ。ここに収められている四行詩による予言は非常に晦渋(かいじゅう=言葉や文章がむずかしくて、意味や論旨がわかりにくい。難解)なために、後世様々に解釈され、その「的中例」が喧伝されてきた。あわせて、ノストラダムス自身の生涯にも多くの伝説が積み重ねられてゆき、結果として彼の予言から「ノストラダムス現象」といったものが出来上がり、様々な論争を引き起こしてきたが、19世紀末までに出された130以上の予言集の古い版の中で「大予言」と訳せるタイトルを持つものは数種類しかなかったそうだ。
それは、兎も角として、彼の『予言集』百詩篇第10巻72番に登場する以下の詩が20世紀以降に大きな話題となったことはよく知られている。
”1999年、7か月、
空から恐怖の大王が来るだろう、
アンゴルモワの大王を蘇らせるために。
その前後マルスは首尾よく支配する。 ”
このノストラダムスが「1999年七の月」に「恐怖の大王」によって人類が滅亡すると予言したと、信憑性を増すために創作された逸話などもまじえる形で紹介された五島勉の著書『ノストラダムスの大予言』(1973年、祥伝祉刊)がベストセラーとなったが、当時、素朴にこの予言を信じた若者も少なくなく、今、東京の拘置所に居る麻原彰晃本名:松本智津夫)率いるカルト新興宗教オウム真理教」による「地下鉄サリン事件」もこの「ノストラダムスの大予言」が遠因となっていると指摘するものも居る。
1973(昭和48)年暮れ、日本テレビの「11PM」で紹介されたイスラエルユリ・ゲラー超能力によるスプーン曲げが日本に超能力ブームを引き起こしたことを覚えている人も多いだろう。翌・1974(昭和49)年1月には、「少年サンデー」」誌上に、念力でスプーンを曲げる11歳の少年が紹介されると、全国からスプーン曲げの少年・少女がぞくぞくと名乗りを上げ、ワイドショーなどで日本中にスプーンこすりを広げた。そして、同年3月7日放送の「木曜スペッシャル・脅威の超能力!!世紀の念力男ユり・ゲラーが奇跡を起こす!」(日本テレビ)は、ユリ・ゲラーがテレビの画面を通じてカナダから日本に念力を送り、「止まっていた時計を動かす」あるいは「スプーンを曲げる」というパフォーマンスで日本での超能力ブームの火付け役となった(朝日クロニクル「週間20世紀」)。このときは、どこのマスコミもスゴイ、スゴイと驚くばかりで、我が家では家人までもがテレビを見てスプーンを一生懸命こすっていたのが滑稽であった。しかし、これらの「超常現象」は、巧妙な手品であったことが、後日のビデオの解析などによってわかっているという。以下を参考にすると当時の情況がよく判る。
ユリ・ゲラー マスコミ論争史
http://www.asyura.com/sora/bd11/msg/978.html
また、これらを見ていると、今年の初めにあった、関西テレビの「発掘!あるある大事典2」の捏造(ねつぞう)問題を思い出す。私は以前から、テレビで写しだされる「事実」にどれだけの信憑性があるかは疑問を持っている。「あるある・・・」のような捏造は兎も角として、各局の番組には、やらせ的なものが結構多くあると思って見ている。
また、この年の6月には小・中学生の催眠術遊び「コックリさん」が流行。7月には、オカルト映画「エクソシスト」が大ヒットした。
学歴のない50歳半ばの若き政治家・田中角栄が何故総理大臣までなりえたか?。
この年は、その「田中金脈」が暴かれ、オイルショックによる「狂乱物価」と「便乗値上げ」とろくなことがなかった。(以下参考の「田中健五 - Wikipedia」また、「田中首相・金脈事件 」など参照)
何を頼りにして良いかわからないという無力感、そのくせ、深く物事を考えなくても生きてゆけるという風潮が高まっていた。このなんとなくフワァーとしたところをテレビを中心としたマスメディアが付け込み、みんながまんまと乗せられたということではないだろうか。
五島の『ノストラダムスの大予言』も、このような社会不安を背景に大ベストセラーとなり、また、1974(昭和49)年8月には前年の「日本沈没」のヒットを受けて、東宝で同名で映画化もされた。(ノストラダムスの大予言 〔映画〕)。
主演は、実際に心霊学と霊界に造詣を持っていた丹波哲郎が、映画のなかで日夜環境汚染について実施調査、研究をし、一方ではノストラダムスの予言の研究もして人類への悪影響を警告しつづけるというのだから適役だったね~。
しかし、”1999年の7月に地球が滅亡するという”予言は、結局何事もなく過ぎてしまい、もう、このような予言を信じている人も少ないだろうと思うのだが、TVでは細木なんとかいう伯母さんの占いだか予言が人気を呼んでいるようだ。現代の社会情勢も不安定な情況である。小松左京の『日本沈没』が再映画化されたりしているが・・・またまた、人を不安に陥れるこの種の予言が流行る時代になったという事だろうか???。
(画像は映画チラシ「ノストラダムスの大予言 」)テアトル銀座)
ノストラダムス - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8E%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%A9%E3%83%80%E3%83%A0%E3%82%B9
地下鉄サリン事件 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%B0%E4%B8%8B%E9%89%84%E3%82%B5%E3%83%AA%E3%83%B3%E4%BA%8B%E4%BB%B6
ユリ・ゲラー - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A6%E3%83%AA%E3%83%BB%E3%82%B2%E3%83%A9%E3%83%BC
ワイドショー - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AF%E3%82%A4%E3%83%89%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%83%BC
安斎育郎 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%89%E6%96%8E%E8%82%B2%E9%83%8E
やらせ - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%84%E3%82%89%E3%81%9B
ユリ・ゲラー マスコミ論争史
http://www.asyura.com/sora/bd11/msg/978.html
ノストラダムスと聖書の予言
http://www.geocities.jp/mongoler800/nosutora-seisyo/nosutora-seisyo0.htm
オカルト - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%82%AB%E3%83%AB%E3%83%88
日本沈没 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E6%B2%88%E6%B2%A1
エクソシスト
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%82%AF%E3%82%BD%E3%82%B7%E3%82%B9%E3%83%88
週刊少年サンデー
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%80%B1%E5%88%8A%E5%B0%91%E5%B9%B4%E3%82%B5%E3%83%B3%E3%83%87%E3%83%BC
コックリさん - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B3%E3%83%83%E3%82%AF%E3%83%AA%E3%81%95%E3%82%93
田中健五 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B0%E4%B8%AD%E5%81%A5%E4%BA%94
オイルショック - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%82%A4%E3%83%AB%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%83%83%E3%82%AF
田中首相・金脈事件
http://gonta13.at.infoseek.co.jp/newpage145.htm

世界報道の自由の日(World Press Freedom Day)

2007-05-03 | 記念日
今日(5月3日)は、「世界報道の自由の日(World Press Freedom Day)」
「世界報道の自由の日(World Press Freedom Day)」は、国際連合で制定した国際デーの一つである。国際デーとは、国際連合などの国際機関によって定められた記念日で、毎年定められた日に、特定の事項に対して特に重点的問題解決を国連をはじめ全世界の団体・個人に呼びかけるための日である。国連デー、国連週間ともいう。
国連総会は1993(平成 5)年12月20日、5月3日を「世界報道自由デー」と宣言した(決議48/432)。既に1991年のユネスコ(UNESCO)総会では「世界における報道の自由促進」に関する決議が採択されており、「自由で、多元主義的で、独立した報道がいかなる民主社会にとっても不可欠な要素である」ということが認識されていた。ユネスコ総会は、同時に、5 月3 日を「国際報道の自由デー」と宣言するというユネスコ加盟国の希望を国連総会に伝えていた。5 月3 日という日付は、国連とユネスコの共催によってナミビアウィントフークで開催された「アフリカの独立、多元主義的な報道の促進に関するセミナー」において1991年5 月3 日に採択された「アフリカの独立、多元主義的な報道の促進に関するフイントフーク宣言」に因んでいる。
また、以下参考に記載の「マルチメディア/インターネット事典」の世界・報道の自由の日 をみると、以下のように記載されている。
"1766年にスウェーデンでFreedom of the Press Actとして始まった「報道の自由」を記念して、プレス(press)の自由を確保するための戦いの中で、基本的人権を市民に認めないでいる政府に対して圧力をかけ続けている、世界中の新聞発行者、編集者、記者の払っている犠牲を認識する機会を提供するために、WAN(the World Association of Newspapers/世界新聞協会)が制定した5月3日の記念日の名称。"・・・とある。
WANは1948年に設立されたフランスのパリに本部がある国際的な新聞の団体の名称であるが、以下参考の「大紀元時報-日本」の記載によれば、2006年末、72カ国の新聞協会、100カ国の新聞社主個人会員、13の通信社、9地域の報道機関からなり、全世界18000社の報道機関が関わっているNPO組織である。
世界新聞協会の調べによると、国別の新聞発行部数は中国が世界一で、2位が日本、3位インド、4位米国のようだが、読売新聞のHPを見ると同社は、2006年3月の朝刊部数は全国で10,031,848部で「ギネスブック」が認定する世界一の発行部数を誇っているというように、新聞社別の発行部数では日本の5社(読売、朝日、毎日、日経、サンケイ)が上位を独占している。(以下参考の世界の新聞発行部数ランキング(『週刊金曜日』-1997年10月17日号参照)
ただ日本の場合、大手の新聞社が独占をしており、ここのところ人口の多い中国が急成長しているが・・・。(国内の販売部数は以下参考に記載の「新聞AD Data Archiyes」の販売部数・発行部数を参照)
先に述べたスエーデンでは、1766年に報道の自由が制定され、世界の中でも早くから、報道の自由が始まった国であり、そして、地域新聞が非常に影響力を持っているといわれている。
報道の自由とは、報道機関が様々な表現媒体を用いて国民に情報を伝える自由。一般に、表現の自由の一内容として捉えられており、この報道の自由は日本国憲法第21条によって保障され、表現の自由のうちでも特に重要なものとされる。その理由として、報道する内容について報道機関が表現の自由をもつこと、および報道機関による報道は国民の「知る権利」を充足させるのに重要な役割を果たすことがあげられる。
日本の場合は、世界の中でも新聞の販売数・読者数はトッップクラスであるが、新聞は大手の新聞社が独占をしており、そのことは、地域新聞の力が弱く、日本の新聞の多様性が非常に低いことを表しているともいえるだろう。そして、そのことは、別の言い方をすれば、国民にとって、多様な新聞の中から情報の選択が自由に出来ず、限られた情報しか得られない。つまり、「知る権利」が制約されているともいえるのである。これは、戦前に大手新聞が、戦争を煽ったが、それを批判する新聞がなかった結果、国民は、政府の思うように戦争に駆り立てられる結果になってしまったが、そのように、コントロールされやすくなる危険性があるということである。
言論の自由(または報道の自由)の擁護を目的とした、ジャーナリストによる国際的な非政府組織(NGOとも呼ぶ)「国境なき記者団」が2006年1に発表した、2006年度の報道の自由度のランキング(Worldwide Press Freedom Index 2006)では、対象となる167ヶ国中、もっとも自由度の高い報道を行っている国として、デンマーク、フィンランド、アイスランドなどとなりスエーデンも6位に選ばれている。逆に自由度のない報道を行っているのは、北朝鮮が最下位。中国も163位とワースト6番目であり、中央アジア諸国など旧社会主義陣営や イラン、リビアなど中東諸国が下位にランクされていることが目立つ結果になっている。そして、日本もほめられたものではなく、2005年度の報道の自由度のランキングでも37位と低かったが、これは、記者クラブ制度の存在が外国人ジャーナリストやフリージャーナリストによる情報のアクセスが妨げられていると批判されているためであったが、更に2006年度には「ナショナリズムの隆盛が目立つ」との理由も加わり51位と大きく低下している。(国境なき記者団の中の年度別の世界報道自由度ランキング参照)。
今の安倍内閣の「美しい国づくり」は、外国人記者の目には、ナショナリズムの隆盛と写っているのかもしれないね~。
記者クラブとは、首相官邸、省庁、地方自治体、地方公共団体、警察、業界団体などに設置された記者室を取材拠点にしている、特定の報道機関の記者が集まった取材組織。このような特定のメディア以外を排除する組織は、外国にそれに当てはまる組織も言葉もないため kisha clubと言う日本語がそのまま外国でも使われるそうだ。かつて日本統治時代の名残で韓国にも存在したが、現在は盧武鉉大統領の命令により廃止されているという。記者クラブの存在には、利点も弊害もあるようだが、(記者クラブの利点と弊害参照)が、私なども、最近の新聞などの報道を見ていると、記者室にいる記者が記者会見の内容を要約するだけの仕事が主になり、発表内容が真実かどうか確かめることが疎かとなり情報操作に惑わされやすくなる、色々な場所に出向き調査して報道できる記者が育たなくなるのではないかと心配している。かって田中康夫長野県知事が「脱・記者クラブ宣言」を発表した。 無党派層が多い時代に、タレントのそのまんま東が宮崎県知事に当選したことについては、色々見方もあるだろうが、その東国原宮崎県知事は、県知事になってもタレント性を生かして、宮崎県の観光課よろしく、頻繁にTVなどでマスコミを利用して、宮崎県物産の広報をやっていられるが、自分が発表したくない時は話したくないのだろう「定例会見は必要ない」と地元記者クラブと論争を始めた。彼は、田中康夫氏の真似でもしようと思っているのだろうか。以下参照。
J-CAST ニュース : 「おかしいですよ、あなた達!」 東国原知事会見でキレまくる
http://www.j-cast.com/2007/02/06005367.html
東国原知事:「定例会見は必要ない」地元記者クラブと論争
http://www.mainichi-msn.co.jp/shakai/wadai/news/20070417k0000m040172000c.html
参考:
国際デー - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E9%9A%9B%E3%83%87%E3%83%BC
国連広報センター
UNIC Tokyo Dateline UN May 2000 Vol.11 国際連合広報センター<INSIDE http://www.unic.or.jp/
UNIC Tokyo Dateline UN May 2000 Vol.11 国際連合広報センター<INSIDE
報道の自由 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A0%B1%E9%81%93%E3%81%AE%E8%87%AA%E7%94%B1
マルチメディア・インターネット事典関連用語
http://www.jiten.com/dicmi/index.htm
大紀元時報-日本
http://jp.epochtimes.com/jp/2006/12/html/d24010.html
世界の新聞発行部数ランキング(『週刊金曜日』
http://www.cc.matsuyama-u.ac.jp/~tamura/RANKIGU-shinbun.html
新聞AD Data Archiyes
http://www.pressnet.or.jp/adarc/index.html
記者クラブ- Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E5%A2%83%E3%81%AA%E3%81%8D%E8%A8%98%E8%80%85%E5%9B%A3
新聞
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B0%E8%81%9E
日本ABC協会ホームページ
http://www.jabc.or.jp/
ナミビア - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8A%E3%83%9F%E3%83%93%E3%82%A2
大手新聞による市場支配を規制!?(2)~世界の主要新聞の発行部数は~
http://eritokyo.jp/independent/nagano-pref/aoyama--col4018.html
NPO - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/NPO



エンピツ記念日

2007-05-02 | 記念日
今日(5月2日)は「エンピツ記念日」
1887(明治20)年の今日(5月2日)、眞崎仁六が東京・新宿に「眞崎鉛筆製造所」(現在の三菱鉛筆)を創立し、日本初の鉛筆の工場生産が始った。
以下参考に記載の三菱鉛筆のサイトを見ると、1878(明治11)年にパリで行われた万博で鉛筆というものを初めて見た眞崎仁六は、感動を受け、様々な研究と努力を重ね、現在の新宿区内藤町に、水車を動力とした工場を建て、日本初の鉛筆の生産に成功した。それが三菱鉛筆株式会社の前身である「眞崎鉛筆製造所」である。1901(明治34)年 逓信省(後の郵政省、現総務省・日本郵政公社・NTTグループ)へ初めての国産の量産型鉛筆3種類(局用1号・2号・3号)を納入。 このときの感動を後世にまで残したいと記念の商標を登録することを考え、逓信省への納入の『局用鉛筆』には1号、2号、3号という3種類の硬度(芯の濃さ)があったことと、眞崎家の家紋である「三鱗(みつうろこ)」を図案化し、“三菱”というマークを考案。1903(明治36)年 、「三菱」ブランドを登録(登録番号18865)したとある。 そして、1925(大正14)年、横浜の大和鉛筆と合併し、眞崎大和鉛筆がスタート。1952(昭和27)年に社名を三菱鉛筆に改称、今日にいたっている。三菱鉛筆は、文房具製造メーカーであるが、三菱の文字も使用するロゴマークも旧財閥三菱グループのものと同じであるため、同グループ各社と混同されやすいが、全く関係のない会社である。歴史上、スリーダイヤ・マークを使ったのは三菱鉛筆の方が先であり、競合する事業もないため双方が同じ商標を用いる事に同意しており、一時期は財閥側から傘下に入らないかとの話も出たが、それを断り現在に至っているとのことである。
鉛筆は、木材の外面と、内側の黒鉛と粘土を混ぜて焼いた芯とで構成されているが、1560年代、イギリスのボロウデール鉱山で発見された良質の黒鉛が鉛筆のルーツだそうである。
日本では、17世紀初頭に使われたとされる、 伊達政宗伊達政宗の鉛筆参照)と、徳川家康の鉛筆(徳川家康の鉛筆 参照)が保存されているそうだが定着しなかった。本格的に輸入が始まるのは19世紀後半、明治時代になってからで、明治初期の日本では鉛筆は珍しく、東京や横浜の輸入品専門店で少量が売られるのみだった。日本では長く文書を毛筆で書くしきたりがあり、鉛筆の普及は遅れた。1885(明治18)年、英語教育に関する書籍が相次ぎ発刊され、同年、大量の鉛筆がアメリカから輸入された。この頃から学校では徐々に鉛筆が使われはじめるようになった。この後1920(大正9)年までに小学校で毛筆から鉛筆への切り替えが順次行われ、一般生活に深く浸透するようになったと考えられている。
因みに、三菱鉛筆HPで、日本で大量生産が始まった鉛筆が販売され出してからどのくらいの値段で手に入ったのかを見ると、1901(明治34)年、 局用鉛筆1本 が1厘 、銭湯大人が1銭3厘 。1907(明治40)年 局用鉛筆1本 2厘、銭湯大人が3銭 、1921(大正10)年では、局用鉛筆1本 5厘 、銭湯大人が6銭 だったというから、このころには、大人の銭湯への入浴代よりやや高い程度だから、庶民にまったく手の出ない値段設定と言うほどではないよね。でも、明治の初期は高かったのだろう。
因みに鉛筆の頭に消しゴムが付いた「ゴム付き鉛筆」は1858( 安政5)年、アメリカのリップマンによって考案されたそうだが、随分と古くからあったんだね~。
フリー百科事典Wikipediaによりと、鉛筆の一般的な形状が六角柱であるのは、丸いと机の上で転がってしまうからではなく、実際には製造法が理由であるとしている(「 製造法」の節を参照)が、三菱鉛筆HPによると、鉛筆の形状が六角柱であるのは、転がらないため、持ちやすいためだそうで、握った場合、必ず3点(親指、人差し指、中指)で押さえるので3の倍数である必要があるからだとか。色鉛筆では、文字を書くだけでなく、絵を描くために使ったり色々な持ち方をして使うので、指あたりのよい丸軸にしている・・・とある。ま、どちらの理由もあることにしておこう。
近年は、便利なシャープペンボールペンなどの普及によって、筆記用としての需要は激減しているが、私たちの年代の者には、あの鉛筆の指当りが良く、書きやすく長時間字を書いていても指が疲れなくて良い。しかし、絶えずエンピツの先を削らなくてはならないのが多少面倒ではあるが、それを鉛筆削り(器具)などを使用せず、昔よく使っていた肥後守などのナイフで削るのがなんともいえない快感だという人もある。私なども、学生の頃、鉛筆の6面をいずれも綺麗に形よくそろえて、先の尖った鉛筆を削ると、確かに快感を覚えたのを思い出す。しかし、最近の子供には、鉛筆をナイフで綺麗に削れない不器用な子が多いとも聞く。便利な電動の鉛筆削りなどもあるし、ナイフを使う機会もないのだろうがね~。それに、私達が子どもの頃は戦後のもののない頃だから、鉛筆も本当に小さくなるまで大切に使った。そして「ちびた」鉛筆を使えるようにするために、長さを延長する金属やプラスチックの器具も使っていたが、先日、家人が今でも本当に短くなったものに器具を使って使用しているのを見て、笑っていると、「大切につかわないと・・」と言って睨みつけられた。贅沢になった今でもそんな器具売っているのだろうか。それとも昔使っていたものを大事に置いていたのかな~。今の子供にも、ものを大切に使う習慣を身に付けさせて欲しいものだね~。
(画像は、左:眞崎家の家紋(三鱗=ミツウロコ)と右:三菱マーク。三菱鉛筆 より)
三菱鉛筆 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E8%8F%B1%E9%89%9B%E7%AD%86
日本鉛筆工業協同組合
http://www.pencil.or.jp/
三菱鉛筆 HP
http://www.mpuni.co.jp/

扇の日

2007-05-01 | 記念日
5月1日「扇の日」
京都扇子団扇商工協同組合が1990(平成2)年に制定。
『源氏物語』では女性が光源氏に扇を贈っていることから、「こ(5)い(1)」(恋)の語呂合せだとか。
扇子(せんす)は、扇(おうぎ)ともいうが、「おうぎ」は、歴史的仮名遣では「あふぎ」と書く。これは「あふぐ(煽ぐ)」の名詞形である。この扇子(せんす)を開いた形、「扇形」は、「末広がり」に通ずるので縁起のよいものとされてきた。そのため、めでたい席での引出物や年令礼のおりの年玉などによくもちいられた。
扇子と同じく自分の手で風を送るのに用いる道具「うちわ」は、紀元前の中国で用いられたとの記録があるそうだが、日本へは7世紀頃に伝来したが、うちわを折り畳んで携帯に便利な扇子にするというアイデアは、ずっと時代が下り、8世紀頃の日本で発明されたものだという。
先ず「桧扇」と呼ばれる薄い桧板を重ね綴ったものが作られ、京都・東寺の千手観音像の腕の中から発見された元慶元年(877年)と記された物が、我が国最古の檜扇とされており、これは、木簡から派生したと考えられるそうだ。当初は男性が用い、女性は「はしば」という団扇(うちわ)の一種を持っていたが、次第に女性も檜扇を用い初め、宮中の女人が常に手にするようになったそうだ。初めから装飾的役割が与えられていたが、特に女性が用いるようになってさらに彩り華やかな物になたという。次に竹と紙で出来ている「紙扇」が作られた。長保年間(999~1003年)以前には、金銀泥箔に彩画・詩歌がしたためられ色紙の粋を尽くし、骨数も次第に増え、その華やかさは、女子用檜扇にも劣らない物であり、男女間の文替わりの扇交換や宮中で侍臣に扇を賜る年中行事「扇の拝」の記録も平安初期に見られるようだ。(京都扇子団扇商工協同組合HPの扇子の種類参照)
平安時代頃から、扇子(扇)はあおぐという役割だけでなく、儀礼や贈答、コミュニケーションの道具としても用いられた。具体的には和歌を書いて贈ったり、花を載せて贈ったりしたことが、源氏物語などにも書かれている。そのことから、今日(5月1日)を「扇の日」としている。
源氏物語は、平安時代中期の、54帖より成る長篇で、800首弱の和歌を含む典型的な王朝物語であるが単に王朝物語言うにとどまらず、日本文学史上の長編物語の傑作で、作者については諸説あるが、一条天皇中宮上東門院彰子藤原道長息女)に女房として仕えた紫式部がその作者であるというのが通説となっている。
物語は、平安朝中期を舞台にして、天皇の皇子として生まれながら臣籍降下して源氏姓となった光源氏が数多くの恋愛遍歴をくりひろげながら人臣最高の栄誉を極め(第1部)、晩年にさしかかって愛情生活の破綻による無常を覚えるさままでを描く(第2部)。さらに老年の光源氏をとりまく子女の恋愛模様や(同じく第2部)、或いは源氏死後の孫たちの恋(第3部)がつづられ、長篇恋愛小説として間然(かんぜん=非難すべき欠点がない)とするところのない首尾を整えている。
『源氏物語』五十四帖の第4帖夕顔 がある。
以下参考に記載の『与謝野 晶子訳『 04 夕顔に源氏と夕霧・扇に関連するところを見て見ると概略以下のようにある。
”源氏が六条に恋人を持っていたころ、御所からそこへお忍びで通う途中、五条辺に住む重い病気にかかり尼になっていた大弐の乳母(めのと)を見舞った。
車が入るべき正門には施錠がしてあったので、従者に乳母の息子の惟光(これみつ)を呼ばせて、待っている間、源氏は立派とはいえないその辺の大路の様子をながめていると、乳母の家の隣の桧垣(ひがき)を外囲いして簾などを新しく整えた涼しげな、しかし簡素な家の桧垣には端隠しのように青々とした蔓草(つるくさ)が勢いよく這いかかり、その白い花だけがその辺で見る何よりもうれしそうな顔で笑っていた。それで、そこに白く咲いているのは何の花かという歌を口ずさんでいると、源氏の随身が車の前に膝まずいて言った。
「あの白い花を夕顔と申します。人間のような名でございまして、こうした卑しい家の垣根に咲くものでございます」と申し上げる。
その言葉どおりで、貧しげな小家が多くむさ苦しそうなこの通りのあちら、こちらの、あるものは倒れそうになった家の軒などにもこの花が咲いていた。
「気の毒な花の運命よ。一房手折ってまいれ」・・・といわれて、随身は花を一房折り取った。するとその家の中から女童が出てきて、黄色の生絹(すずし)の袴(はかま)を長めにはいた愛らしい童女が出て来て随身を招いて、「これへ載せておあげなさいまし。手で提(さ)げては不恰好な花ですもの」と、白い扇を色のつくほど薫物(たきもの)で燻(くゆ)らしたのを渡した。
この後、源氏は乳母を見舞って、帰ろうとする時に、さっき夕顔の花の載せられて来た扇を見た。よく使い込んだ、よい薫物(たきもの)の香のする扇に、きれいな字で、次の歌が書かれていた。
「心あてにそれかとぞ見る白露の光添へたる夕顔の花」
散らし書きの字が上品に見えた。それが少し意外だった源氏は、風流遊戯をしかけた女性に非常に好感を覚えた。このとき、惟光は主人の例の好色癖が出てきたと思った。
下の品の者(身分の低い者)が、物馴(ものな)れた戯れに、自分を光源氏と見て詠(よ)んだ歌をよこされたのに対して、何か言わねばならぬと、源氏は、花を折りに行った随身に以下の返歌を詠み持たせてやった。
「寄りてこそそれかとも見め黄昏(たそが)れにほのぼの見つる花の夕顔」
しかし、夕顔の花の家の人は源氏を知らなかったのだが・・・。”そして、いつしか秋になり、源氏の君は葵上の御邸にもたまにしか出かけなくなり、六条御息所に対しても、以前のように一途になることはなくなった。そして、惟光が、源氏の君の御心に添うようにと、段取りをつけ、夕顔の宿に通うようになった。源氏は可憐で素直な夕顔を深く愛するが、あるとき、逢引の舞台として寂れた某院(なにがしのいん、源融の旧邸六条河原院がモデルとされる)に夕顔を連れ込んだ源氏であったが、六条御息所が嫉妬のあまり生霊となってある夜これをとり殺す。源氏は女の死を深く嘆くのであった。夕顔は、登場する回数こそ少ないものの、佳人薄命を絵に描いたような悲劇的な最後が印象に残る女性。儚げながら可憐で朗らかな性格で、源氏は短い間であったが彼女にのめりこみ、死後も面影を追う。後には彼女の娘の玉鬘(たまかずら)が登場し、物語に色を添える。
源氏物語の作者は紫式部であることはまず動かないとされているが、複数作者説(一部の帖を後人の者とする)もある。それだけ、この物語の出来が、すばらしく完璧であるという事であろう。また、改めて読んでみるのもよいであろう。
(画像は、扇売り。扇子は、「末広がり」に通ずるので縁起のよいものとされ年令礼のおりの年玉などによく用いられた。NHKデーター情報部編、ヴジュアル百科「江戸事情」より)
源氏物語 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E6%B0%8F%E7%89%A9%E8%AA%9E
源氏物語の世界
http://www.sainet.or.jp/~eshibuya/
源氏大学.com
http://www.genji-daigaku.com/
『源氏物語 04 夕顔』与謝野 晶子訳:新字新仮名(青空文庫)
http://www.aozora.gr.jp/cards/000052/card5019.html
京扇子・京うちわ/京都扇子団扇商工協同組合HP
http://www.sensu-uchiwa.or.jp/index.html
扇子 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%89%87%E5%AD%90
東寺 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E5%AF%BA
京都まにあ/六条通
http://www.linkclub.or.jp/~mcyy/kyo/no.6/01.html
融の大臣のページ
http://www2u.biglobe.ne.jp/~rokujoh/tohru.html
六条の御息所
http://www.page.sannet.ne.jp/yagami/koten/rokuzyo.htm