今日のことあれこれと・・・

記念日や行事・歴史・人物など気の向くままに書いているだけですので、内容についての批難、中傷だけはご容赦ください。

上野公園開園式の行われた日

2007-05-09 | 歴史
1876(明治9)年の今日(5月9日)、明治天皇行幸で上野公園の開園式が行われた。
上野恩賜公園は、東京都台東区にある公園。(通称上野公園)、あるいは武蔵野台地末端の舌状台地「上野台」に公園が位置する事から、上野の山とも呼ばれる。総面積約53万m²。東京都建設局の管轄。
現在、国立東京博物館国立西洋美術館国立科学博物館恩賜上野動物園などの文化施設が集中して立地している。また彫刻家高村光雲作の西郷隆盛の銅像があることでも知られる。
鐘は上野か さくらに蓮に
文化の花も 咲き競う
大慈大悲の ひかりをうけて
月も清かれ 墨田の流れよ
下谷浅草 道ひろびろと
つづく街並み にぎやかに
上記の歌は「台東区の歌」である。この歌は何時作られたかは知らないが、明治の頃の浅草の様子を表しているのだろう。転調、転調、また転調と難しい歌であるが、なかなかいい曲だ。台東区ホームページTOPで聞ける。作曲は渡辺浦人だというがよく判らない。作詞は地元の土岐膳麿。浅草松清町(現西浅草)生まれの歌人、国学者、文学博士だそうだ。歌詞冒頭の「鐘は上野か ・・・」は、松尾芭蕉の有名な句「花の雲 鐘は上野か 浅草か」からの引用のようだ。以下参考に記載の芭蕉db「芭蕉俳句全集」のここ参照。
ここで詠まれている「鐘は上野か」の鐘は、上野の山の「時の鐘」で、精養軒入口の小高いところにある。所属は東叡山寛永寺。「時の鐘」は、江戸時代、時を知らせるものであった。はじめ江戸城内で撞かれていたが、1626(寛永3)年になって日本橋石町三丁目に移された。元禄以降、江戸の町の拡大に伴い、これだけでは足らなくなり、上野山内・浅草寺のほか、本所横川・芝切通し・市谷八幡・目白不動・目黒円通寺・四谷天竜寺などにも置かれた。上野寛永寺境内の初代の鐘は1666(寛文6)年に鋳造された。現在の鐘は天明7年(1787)のものだそうである。(以下参考の「岡本綺堂の東京を歩く(時の鐘散歩)」など参照)
芭蕉の句の中にある「花の雲」は、「の花」 であり、『政恒(まさひろ)一代記』 には、「花見は3月盛んなリ。殊に上野の花は(居住する御徒町から)間近なれば土地柄珍しからざれども、彼岸桜は上野が第一にて、一重・八重順次咲故、盛り長く、遊び場も広く、よき遊び場なり。」と書かれており、 『江戸名所図会』寛永寺その二にも「このあたり桜多し」と記入されている。(以下参考の「歴史の足跡/歴史を留める東京の風景」寛永寺参照)台東区にも、「さくらに蓮に」とあるように忍ばずの池の蓮と桜は当時から見ものであったのであろう。
上野公園は、三代将軍徳川家光が、江戸の丑寅(北東)の方角、すなわち鬼門を封じるために、天海僧に正命じてこの地に寛永寺を建てたのが始まり。子院三十六防、本坊、根本中堂、文殊楼(吉祥閣)により構成された寛永寺は、京の都の鬼門(北東)を守る比叡山に対して、「東の比叡山」という意味で山号を「東叡山」とした。この頃、広範な山内に大和の吉野山から寄せられた山桜が植栽され、 1698 (元禄11)年、桜ヶ丘が花見の場所として一般に開放されたそうだ。 以下参考の『上野の桜』参照)
その後1868年~1869年(慶応4年~ 明治2)の戊辰戦争時に、彰義隊が寛永寺に立てこもり、伽藍は焼失、一帯は焼け野原と化したまま放置されいた。1870(明治3)年、医学校と病院予定地として上野の山を視察した蘭医ボードウィンが、公園として残すよう日本政府にはたらきかけた。その結果1873(明治6)年の太政官布告により日本初の公園に指定された。
同太政官布告第16号で「三府ヲ始、人民輻輳ノ地ニシテ、古来ノ勝区名人ノ旧跡地等是迄群集遊覧ノ場所 東京ニ於テハ金龍山浅草寺、東叡山寛永寺境内ノ類、京都ニ於テハ八坂社、清水ノ境内、嵐山ノ類、総テ社寺境内除地域ハ公有地ノ類、従前高外除地ニ属セル分ハ永ク万人偕楽ノ地トシ、公園ト可被相定ニ付、府県ニ於テ右所ヲ択ヒ、其景況巨細取調、図面相添ヘ大蔵省ヘ可伺出来」と定め、旧社寺地等を接収し公園としたのが国営造物公園の始まりであり、これより以前に神戸の外国人居留遊園(1868年)と横浜の山手公園(1870年)が存在したが、居留地の外国人専用であり、日本国民にとっては公園ではなかった。旧寛永寺境内の大部分が公園としての指定をうけた2年後の1875(明治8)年、上野の寛永寺本坊跡に博物館を開設する方針が内定すると、博物局は一帯の整備に着手し、「上野公園貸地条例」を定めるとともに、道路の修築拡張、休憩所の修繕、公園事務所の設置などを行い、公園の整備が一段落した1876(明治9)年5月9日、明治天皇・皇后両陛下の行幸啓を仰ぎ、開園式が挙行された。そして、翌・1877(明治10)年には、上野公園で第1回内国勧業博覧会(政府主催)が開催された。この第1回内国勧業博覧会は寛永寺本坊跡に建てられた煉瓦造の美術館を中心に、左右対称に東本館と西本館が設けられ、機械館・園芸館・農業館など6地区に分けられた。博覧会の中心的建築物となった美術館は「美術館」の名称を使った最初の建物としても記念すべきもの。出品者1万6千人余、会期102日で入場者は45万人を越えたという。蒸気機関車が出品されたほか臥雲辰致のガラ紡機が人気を呼んだ。なお、このときの会場案内図には美術館の裏に博物局の出品である茶室・六窓庵が示されている。(以下参考の「東京国立博物館 6.内国勧業博覧会」より)
その後、上野公園では第1回内国勧業博覧会が開催されて以来、東京の博覧会と言えば上野といわれるほどに好適地とされてきた。交通の便の良さと、山や池、森など変化に富んだ地形から上野の森は江戸時代から人々の娯楽地として親しまれていたからだ。そして、内国勧業博覧会が1881(明治14)年に第2回目、1890(明治23)年に第3回目と続いて開催され、1914(大正3)年には、大正天皇の即位を祝いかつ、産業の振興を企図した東京府主催の「東京大正大博覧会」が開催されるなど、開園以降、このような博覧会行事が盛んに開催され、文化の森の先駆けとなった。以来、この地は多くの人々に親しまれ、1924(大正13)年には皇太子のご成婚を記念して、公園が東京市に下賜(かし)され、このときのいきさつから、現代の「上野恩賜公園」という名称となったのである。昨・2006(平成18)年には、東京国立博物館 特集陳列 「日本の博物学シリーズ 上野公園の130年展」が行われていた。
(画像は、天皇陛下御幸図 楊洲周延筆 明治9年(1876)。東京国立博物館 「日本の博物学シリーズ 上野公園の130年展」展示のものより)
参考:
上野恩賜公園 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8A%E9%87%8E%E6%81%A9%E8%B3%9C%E5%85%AC%E5%9C%92
歴史の足跡/歴史を留める東京の風景
http://bird.zero.ad.jp/~zam77093/fuukei.htm
寛永寺と徳川将軍家墓
http://www.aurora.dti.ne.jp/~ssaton/meisyo/kanneiji.html
台東区ホームページTOP
http://www.aurora.dti.ne.jp/~ssaton/index.html
芭蕉db「芭蕉俳句全集」
http://www.ese.yamanashi.ac.jp/~itoyo/basho/haikusyu/Default.htm
岡本綺堂の東京を歩く(時の鐘散歩)
http://www.tokyo-kurenaidan.com/okamoto-tokinokane1.htm
時の鐘
http://www.geocities.jp/kikuuj/kyudo/kane/toki.htm
寛永寺と徳川将軍家墓
http://www.aurora.dti.ne.jp/~ssaton/meisyo/kanneiji.html
江戸名所図会 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%9F%E6%88%B8%E5%90%8D%E6%89%80%E5%9B%B3%E4%BC%9A
鬼平犯科帳と江戸名所図会
http://homepage3.nifty.com/onihei-zue/
『上野の桜』・上野桜守の会
http://www.ueno.or.jp/sakuramori/ueno_sakura/shyoukai.html
博覧会 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%9A%E8%A6%A7%E4%BC%9A
東京国立博物館 6.内国勧業博覧会
http://www.tnm.jp/jp/history/06.html 
吉野山 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%82%AF%E3%83%A9
松尾芭蕉 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E5%B0%BE%E8%8A%AD%E8%95%89
博覧会ポスター | アド・ミュージアム東京
http://www.admt.jp/salon/collection/hakurankai.html
東京国立博物館 特集陳列 日本の博物学シリーズ 上野公園の130年
http://www.tnm.go.jp/jp/servlet/Con?pageId=B01&processId=01&event_id=2991
今日(8月21日)は「噴水の日」
http://blog.goo.ne.jp/yousan02/e/3d3e27c30f2885af23711dd8a9468740


童画の日

2007-05-08 | 記念日
今日(5月8日)は「童画の日」
長野県岡谷市が制定。
童画(どうが)とは大人が子供向けに描いた絵画である。 これに対して、「児童画」や「幼児画」は子ども自身が描いた絵画である。
1925(大正14)年5月8日~13日まで 武井武雄が東京銀座・資生堂ギャラリーで開催した個展「武井武雄童画展」で初めて童画という言葉が使われたそうだ。 武井武雄は、それまで童話の添え物として軽視されていたこの分野を芸術の域まで引き上げることをめざして造語したもので、1927年には武井武雄、初山滋川上四郎岡本帰一、深沢省三、村山知義清水良雄ら7人で「日本童画家協会」を結成した(1927年~1943年ころまで)。以下参考の「岡谷市-イルフ童画館」によると、”日本橋丸善ほか大阪三越などでも童画展を開催し童画芸術の発展と啓蒙に貢献したが、時局緊迫に伴い(戦争)情報局の要請により、「新ニッポン童画会」「童心美術協会」などとともに 「日本少国民文化協会」に統合され解散したが大きな業績を残した。”とある。童画という呼称はその後広まった。そのことから、 この展覧会の初日である5月8日を「童画の日」(日本記念日協会登録)と定め、 この日を挟んだ一週間を「童画週間」 としている。
大正時代を指して、大正デモクラシーとか大正ロマンチシズムと呼ぶ。これは、これらは社会の政治的、風俗的な動きに比重を置いた表現であるが、社会に何となくゆとりがあり、人々が生活を謳歌していたことを感じさせる。実際には、この時代は第1次世界大戦米騒動,、スペイン風邪の大流行など、社会を震撼させる事件が相次ぎながらも、それまでと比べて余裕を感じさせる時代でもあった。そして、そのゆとりは、子供たちの世界にも及び1918(大正18)年、19年ごろにはそれが一つの時代的特徴をなしていた。例えば1918(大正18)年7月1日鈴木三重吉が、北原白秋らと共に童話童謡の児童雑誌『赤い鳥』が創刊されが、これは、それまで政府主導の難解な唱歌説話に対し、子供の純性を育むための話・歌を創作し世に広める一大運動を宣言したものであり、創刊号には北原白秋、のほか、芥川龍之介有島武郎泉鏡花高浜虚子徳田秋声らが賛同の意を表明した。表紙絵は 清水良雄が描いた。この様な運動は誌名から「赤い鳥運動」と呼ばれるようになった。更に、翌年には、『赤い鳥』に刺戟されて、『金の船』(代表者:斎藤佐次郎)、1920年には、『童話』(代表者:千葉省三)といった類似の児童雑誌が創刊されたが、それまで、子供向けけの歌は唱歌と呼ばれ、文部省の指導で作られていた。
『赤い鳥』が創刊されて以来、モダンな造形感覚に溢れた挿絵を満載した芸術性の高い児童文芸雑誌が次々と創刊された。そうした中、東京社(後の婦人画報社)で、幼児雑誌『日本幼年』の編集をしていた 和田古江は、子供の情操教育に寄与するような本の出版を描いていた。教職の経験を持ち自らも童謡を書いていた和田は、文部省派遣の外遊から帰国して間もない幼児教育の第一人者・倉橋惣三、チャレンジ精神旺盛な画家・武井武雄の支持を得て1922(大正11)年1月、新雑誌『コドモノクニ』を創刊した(朝日クロニクル「週刊20世紀)。武井武雄は、1894(明治27)年 長野県諏訪郡に生 れ、1919(大正 8)年東京美術学校西洋画科入学。そのころ竹久夢二北原白秋に傾倒していたという。1920(大正 9)年 本科卒業後の、翌1921(大正10)年 結婚。生活のため、『子供之友』(婦人之友社)に初めて子どものための絵を描いていた。 『子供之友』については、以下参考に記載の「東京都立図書館・特別コレクション」の●第5回 みんなが読んだこども雑誌『子供之友』参照。そして、 「コドモノクニ」創刊号より参加した。
この「コドモノクニ」は、表紙とも30ページ。大判の厚手の画用紙のような紙に5色刷り。大きくて太い字。子供向けの雑誌は当時5銭から10銭のなか50銭という破格の値段だったという。そして、見開きいっぱいにレイアウトされた迫力ある画面。すべての面で画期的な絵雑誌であったそうだ。創刊から、北原白秋(童謡顧問)、野口雨情(童謡顧問)、中山晋平(音楽顧問)らが顧問として参加。創刊号で、特に目を引くのは、挿絵画家たちの豪華なラインナップで『金の卵』の挿絵を担当した岡本帰一を絵画主任にすえ、武井武雄、清水良雄本田庄太郎が寄稿し、後に『おとぎの国の世界』の挿絵画家、初山滋、『童話』の川上四郎らが加わったほか竹久夢二なども寄稿している。実に第一線で活躍中の作家や画家達が一同に会したものだった。詩と絵と曲とが一体となったこの本は、子供文化を創出した大正時代の傑作である。そして、1925(大正14)年の東京銀座・資生堂ギャラリーでの個展以来、柔らかな色彩とモダンな西洋画の手法で描かれた挿絵を武井は、『童画』と呼び、文章の添え物的な存在から独立した作品へと引き上げて行ったのであった。以下参考に記載の「岡谷市-イルフ童画館」などで武井武雄の素敵な絵が見れる。私も大正時代のほのぼのとしたロマンチックな絵が大好きである。1枚の絵を見ているだけで、いろいろとメルヘンの世界を想像することができる。是非一度覗かれるとよい。
この頃は、幼児用に言葉(文)のない絵本も多く出回っている。これを子供がどう読むか?また、どう読んで聞かせるか?・・・難しい面はあるが、絵は、子供の想像力を高める良い教材だよね。
(画像は、『コドモノクニ』1922年1月創刊号表紙。武井武雄画。題字も同じ。朝日クロニクル「週刊20世紀」より)
童画 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AB%A5%E7%94%BB
コドモノクニ
http://www.library.metro.tokyo.jp/17/005/17a00.html
現代童画会
http://www.gendoh.jp/index2.html
岡谷市-イルフ童画館
http://www.ilf.jp/takei/
赤い鳥 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B5%A4%E3%81%84%E9%B3%A5
児童文学資料研究
http://www.d1.dion.ne.jp/~ueda_nob/shiryo/shiryo.html
【金の星社】
http://www.kinnohoshi.co.jp/com/top.html
童謡・唱歌とは 
http://www5b.biglobe.ne.jp/~pst/douyou-syouka/11theme/mokuzi.htm
東京都立図書館・特別コレクション
http://www.library.metro.tokyo.jp/17/index.html
銀貨社
http://www.mars.dti.ne.jp/~ginka/index02.html
岡谷市ホームページ
http://www.city.okaya.nagano.jp/mmcb/
深沢 省三・紅子
http://www.odette.or.jp/kankou/bu_c_bi_ff_i/bu_c_bi_ff_i.html


女優・声優(オバQ)・曽我町子の忌日

2007-05-07 | 人物
今日(5月7日)は、女優・声優・曽我町子の2006年の忌日
曽我 町子と言えば「オバQ」そんなイメージが強烈に焼きついているが、本人はそんなイメージが嫌だったという。
曽我 町子は1938(昭和13 )年3月18日、 東京都八王子市に生まれた。東京都立南多摩高等学校を経て、東京アナウンスアカデミー・タレント科を卒業。
1956(昭和31)年にNHKの児童番組「みんな一緒」でデビュー。本人曰く、このとき合格したオーディションは度胸試しで受けたものであったという。 その後「チロリン村とクルミの木」や「オバケのQ太郎」の初代Q太郎役など、声優として活躍した。「オバケのQ太郎」は、藤子不二雄藤子不二雄A藤子・F・不二雄)のギャグ漫画作品及びそれを原作としたテレビ・劇場アニメ作品である。ごく普通の家庭に住み着いた、一匹の間の抜けたオバケがひき起こす騒動を面白おかしく描いた漫画で、『オバQ』と省略されて呼ぶことも多い。最初にオバケのQ太郎がテレビで放映されたのが、TBS系(毎週日曜日19:30 - 20:00・不二家の時間枠) での1965(昭和40)年8月29日 からのものであった。
曽我 は、この初番組から主役「オバQ」の声を演じていたことでよく知られている。ひょうきんなオバケは子供の心をとらえて、高視聴率を獲得。3度に渡ってアニメ化され、40年以上経った現在も根強い人気がある。しかし、曽我 はその人気に本人自身が潰されそうになったという。「オバQ」出演後、声優だけでなく顔出しの女優としても舞台、テレビなどで活躍。あまりにも「オバQ」のイメージが強くなり、他の番組に出演しても「オバQの声を出して」といわれた。それを逃れるようにイタリアに留学。その際第4次中東戦争が勃発したシリアへと足を運びアラブ世界に魅せられた。
帰国後は、俳優業の合間を見ては頻繁に中近東を訪れては、雑貨や骨董品を買いコレクションを展示即売する「ステラ」(イタリア語で星の意)を東京・原宿に開いた。晩年は、「美術品は静かな所でじっくり見るもの」と騒々しくしかも狭くてせっかくの美術品が全部飾れないなどから、原宿の地から、 都心から遠すぎず、しかも静かなところということで、国立に、アンティークショップ「ギャラリーステラ」を、オープン。役者の仕事がないときにはアクセサリーのデザインなど商品開発も手がけていたり、ファンとの交流会なども開催していたそうだ。そのことから、一時「ステラ曽我」の芸名を名乗っていた時期がある。
「戦隊シリーズ」と呼ばれるテレビの特撮番組で悪の女王魔女を数多く演じ、この役柄で右に出る女優はいないといわれるほどで、若者にも人気があった。2005(平成17)年の春から体調が悪かったようだが、東映の特撮映画「魔法戦隊マジレンジャー」に出演中であったことから、入院を拒んでいたが夏にとわかる。秋になって、入院したが「一日中ベッドにいるのはたまらない」と医師に頼み通院治療に替えた。亡くなる前日にも店にファンを招き「茶話会」を開いた。激しい痛みがありながら、表情にはださなかったという。ファンのために用意していたこんな便箋の手紙が「ステラ」に残されていたという。「マジエルよりありがたく為になる御言葉。今を大切にそして諦めてはならぬ。何事も行動することによって前進するのです」・・・と。(2006年6月12日、朝日新聞夕刊)
2006(昭和18)の年今日(5月7日) 膵臓癌のため国立市の自宅で急逝(享年68)し、遺体を発見したのは、訪れた知人であったという。遺作はプレイステーション2用ゲームソフト「宇宙刑事魂」(暗黒銀河女王役)。ただし、テレビおよび映画における最終出演作は「魔法戦隊マジレンジャー」である。
「魔法戦隊マジレンジャー」で曽我が演じた「天空大聖者マジエル」の役は当初俳優の岡田眞澄が務める予定であったが、岡田が体調不良を理由に辞退したため竹本昇監督の推薦によりその代役として曽我に依頼されたものであったという。しかし曽我自身もまたこの時既に病魔と闘いながらの撮影であった。また、曽我の死去から約3週間後の5月29日に岡田も癌によってこの世を去っている。 ・・・なにか、因縁めいたものがあるね。曽我が亡くなった日、テレビ等のメディアは「初代オバQの声優が亡くなった」等でしか取り上げなかったが、特撮・戦隊のジャンルのホームページ、mixiなどのコミュニティではその早すぎる突然の死を悲しむ声が数多く投稿されたという。 以下参考に記載の「懐かしの主題歌」に「オバQ」の歌があった。オバQ、オバQというと曽我さんが嫌うかもしれないが、オバQの歌懐かしんでみようかな。
オバケのQ太郎「オバケのQ太郎」 →http://www.fukuchan.ac/music/anime/obaq1.html
オバケのQ太郎「新オバケのQ太郎」→ http://www.fukuchan.ac/music/anime/obaq.html
(画像は、オバQ人気が「重荷」であったが、最後まで愛着を持ち続けていたという曽我町子 さん。朝日夕刊より)
曽我町子 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9B%BD%E6%88%91%E7%94%BA%E5%AD%90
曽我町子出演映画
http://www.jmdb.ne.jp/person/p0239830.htm
東京アナウンスアカデミー
http://www.t-a-a.jp/
第四次中東戦争 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AC%AC%E5%9B%9B%E6%AC%A1%E4%B8%AD%E6%9D%B1%E6%88%A6%E4%BA%89
国立の達人:アートギャラリー
http://www.hit-press.jp/kunitachist/gallery.html
懐かしの主題歌-目次-
http://www.fukuchan.ac/music/anime/anime-titles.html

マレーネ・ディートリッヒの忌日

2007-05-06 | 人物
今日(5月6日)は、マレーネ・ディートリッヒの1992年の忌日
マレーネ・ディートリッヒ(Marie Magdalene "Marlene" Dietrich, 本名:マリア・マグダレーナ・ディートリッヒ)は、ドイツ・ベルリン出身の女優・歌手である。通称はマルレーン。100万ドルの脚線美と大ヒット曲『リリー・マルレーン』で有名。
Vor der Kaserne                  
Vor dem großen Tor                          
Stand eine Laterne               
Und steht sie noch davor          
So woll'n wir uns da wieder seh'n    
Bei der Laterne wollen wir steh'n     
Wie einst Lili Marleen,  
Wie einst Lili Marleen.
歌詞は、兵舎で最前線から自分が帰ってくるのを待ってるであろう「リリー・マルレーン」と昔の様にまた会おう・・、という恋人を思う一兵卒を歌ったものである。以下で、リリー・マルレーンの歌詞(ドイツ語/英語)*歌詞の訳があり、また、歌を聞くことが出来る。
Lili Marlene
http://www.geocities.jp/asukal_trader/Asukal/lilimarlene.htm
いかなる国の軍歌にも戦意を高揚させる軍歌が存在し、いったん戦争となるとそれが国民にまで歌われるようになる。それらの大部分は当然、勇ましい行進曲風なのであるが、中には例外もあり、その代表的なものが、第二次世界大戦中に多くのドイツ兵によって、歌われたスローバラードの歌「リリー・マルレーン」(Lili Marleen)である。愛する恋人への思いを込めたなんとなく寂し気で、美しい旋律は、ヨーロッパその他各地で戦う兵士たちの間に静かに広がってゆき、しかも、驚くべき事は、次第に、敵対している国の多くの兵士達がくちずさみ始めた。この歌を聴いていると、厳しい戦場で兵士たちが情感溢れる、優しさを心に求めた気持ちがわかるような気がする。そのような気持ちを癒してくれる良い歌というものは、戦場においても、敵味方を越えて、熱狂的に支持されるものであるという事実を証明しており、また、そのことは、憎しみあいの場となる戦場で敵・見方に別れて殺し合いをしている兵士というものが決して、ただの殺人マシンではなく血の通った人間であることを如実に示しているものだともいえるであろう。そのような意味でこの歌は、画期的な歌であり、戦後の昭和50年代に至っては日本国内でも大流行をした。
マレーネ・ディートリッヒ」といえば「リリー・マルレーン」の名前が出てくる来るほどに、私達の年代のものにとっては懐かしい歌である。この曲は原題 "Lili Marleen" が彼女の通称"Marlene" と同音なので、"Lili Marlene" として歌ったものだそうである。しかし、この歌を最初に歌いだしたのは彼女ではなかったのだ。
この歌は、1915(大正4)年に、ドイツの詩人ハンス・ライプ(Hans Leip)の詩集"Das Lied eines jungen Soldaten auf der Wacht"に収録されていた詩をもとに、1938年、作曲家ノルベルト・シュルツェ(Norbert Schultze)が曲をつけたものを、歌手ラーレ・アンデルセン(Lale Andersen)によって録音されたがその時には売れず、曲も忘れ去られていたものだそうで、余ったレコードの内2枚が前線慰問用のレコード中に忍び込まされていたものが、1941(昭和16)年になって、21時57分、ベオグラード放送から北アフリカ戦線のドイツ兵向けにこの曲が流されたという。この曲は、たちまち戦線の、ドイツ兵の心を捉え、 多くの兵が故郷を思い涙を流したといわれているが、 ドイツ兵のみならずイギリス兵の間にも流行したため、ナチスはこの歌を禁止した。マレーネ・ディートリッヒは、18歳で国立ベルリン音楽学校に入学してバイオリニストを目指すが、手首を痛めて音楽家を断念。その後、映画・舞台で活躍していたが、ベルリンの舞台に立っていた1930(昭和5)年パラマウントに招かれてアメリカ合衆国に渡り、ゲイリー・クーパーと共演した『モロッコ』でハリウッド・デビュー。スタンバーグ監督とのコンビで黄金時代を築く。ヒトラーはディートリッヒがお気に入りだったようで、ドイツに戻るように要請したが、彼女は、それを断って1939(昭和14 )年にはアメリカの市民権を取得したため、ドイツでは彼女の映画は上映禁止となる。1940年代からは西部劇やブロードウェイの舞台にも立って活躍したが、1943〔昭和18)年からはUSO(米軍サービス機関)の一員として活動、アメリカ軍兵士の慰問にヨーロッパ各地を巡り、反ナチスにも参加、彼女は、このときから「リリー・マルレーン」の歌を歌った。デカタンスに満ちたディトリヒの歌声と切ない歌詞が相俟って連合軍、枢軸軍の両方から愛唱される歌となった。戦後、彼女は、その功績によって、アメリカからは自由勲章(アメリカ市民として最高の栄誉)、フランスからはレジオンドヌール勲章を授与されたという。1950年代からは歌手としての活動が多くなり、アメリカ合衆国やヨーロッパを巡業。レビューでのレパートリーにこの歌を加えて歌った。1970(昭和45)年と1974(昭和49)年には日本でもコンサートを行った。1979(昭和54)年、コンサート中に足を骨折して活動を中止せざるをえなくなり、引退後はパリに隠棲。1992(平成 4)年の今日(5月2日)パリで死去。葬儀はパリのマドレーヌ寺院で行われ、その後、遺骸がベルリンに移されベルリンでも葬儀が行われ、その遺骸は彼女の望み通りベルリンの母の墓の横に葬られたという。死後、ベルリン中心のポツダム広場に隣接した広場が「マレーネ・ディートリッヒ広場」と命名されたそうだ。
ドイツの中流貴族の家庭に生まれれ、映画、舞台で活躍し、1924年、映画の助監督のルドルフ・ズィーバーと結婚。同年娘マリアを出産しており、ドイツに別れて住むことになるズィーバーとは離婚しなかったとう。そして、ドイツに居たときに特に不遇な目にあった様子もない彼女が、アメリカへ渡ってから、なぜドイツ国籍を捨て、アメリカの市民権までとって、戦場へアメリカ兵の慰問に出て行ったのかは単に、ナチス嫌い・・だけでは片付けられない謎の面があるように思われる。彼女も、アメリカの対ドイツプロパガンダに組み込まれた哀れな戦争被害者ではなかっただろうか?
戦後、男性の気持ちを歌った詩であるが、女性歌手によって歌われることが多い日本では、加藤登紀子もこの歌を歌っている。以下では、マレーネ・ディートリッヒの歌のほか、男性歌手・ヴィリー・フリッチ(Willy Fritsch )、それに、ラーレ・アンデルセン(Lale Andersen)のオリジナル曲や編曲のものなど多数の「リリー・マルレーン」の曲が聴ける。それぞれ味があっていいものだ。是非一度聞き比べてみるとよい。↓
リリー・マルレーンのホームページ The Official Lili Marleen Page   
http://ingeb.org/garb/lmarleen.html
(画像は、「リリー・マルレーン」を歌ったマレーネ・デートリッヒ。朝日クロニクル「週刊20世紀」戦争より)
参考:
マレーネ・ディートリッヒ-Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%83%AC%E3%83%BC%E3%83%8D%E3%83%BB%E3%83%87%E3%82%A3%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%AA%E3%83%83%E3%83%92
リリー・マルレーンのホームページ The Official Lili Marleen Page   
http://ingeb.org/garb/lmarleen.html
リリー・マルレーン(LILI MARLEEN) 加藤登紀子
http://www.fukuchan.ac/music/j-sengo2/lilimarleen.html
リリー・マルレーン - goo 映画(1981)
http://movie.goo.ne.jp/movies/PMVWKPD11317/
Lili Marlene歌詞 歌 メロディー
http://www.geocities.jp/asukal_trader/Asukal/lilimarlene.htm
プロパガンダ - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%97%E3%83%AD%E3%83%91%E3%82%AC%E3%83%B3%E3%83%80
「リリー・マルレーンを聴いたことがありますか」
http://homepage2.nifty.com/snafkins-lifework/lilimarleen.htm
リリー・マルレーンの伝説
http://www.infosakyu.ne.jp/~sekkan/lili.htm


オモチャの日

2007-05-05 | 記念日
今日(5月5日)は「オモチャの日」
東京玩具人形問屋協同組合が制定。端午の節句に因み、おもちゃや人形のPRの為に設けられた。
【玩具(がんぐ)・おもちゃ】 を、国語辞典でを見ると、”〔「おもちあそび」の転〕(1)子供が持って遊ぶもの。がんぐ。(2)なぐさみにもてあそばれる人や物。→(おもちゃ)にする。=もてあそぶ。慰み物にする。”とあるように、一言で言えば、持て遊ぶ道具(▼物=がんろう-ぶつ)と言うことになる。このおもちゃの語源をたどれば、平安時代の源氏物語などには、「明け暮れのもて(ち)あそびに・・・」などと書かれているように、「もてあそび」ものとか「もちあそび」ものなどと呼ばれていた。これが、室町時代の御所などに仕える女房たちの間で「女房詞(ことば)」がはやり、上に「お」をつけて下の方を略して、「もてあそびもの」が「おもて」~「おもちゃ」になった。そのようなことから 、日露戦争の頃に行われた明治政府による国語統一運動の中でおもちゃに代わって玩具という語ができたが、この言葉には「もてあそぶ」という意味があるため、太平洋戦争中には、不健全なニュアンスがあるとして「遊具」と変更させられたようだが、国民にとってなじみのある言葉であったことから、戦後になって「玩具」が再び使われるようになったという。日本以外の国でも、「玩具」という言葉はあまりいい意味を持っておらず、英語「toy 」にも、”くだらない物、vi. 戯れる; おもちゃにする ”といった意味がある。
現代では、子供が持って遊びの対象として取り扱われるようなものを玩具としているが、狭義には、玩具の中でも構成および用法が単純または原始的で、特に対象層を子供向けに設定しているものを「おもちゃ」と呼ぶ傾向がある。
大人のお遊び道具の事は別にして、子どもたちの成長の中で、学問は別にして、健全な心・身の育成に、食べることと遊ぶことは最も重要な要素ではないだろうか。
今日のテーマーは、こどものおもちゃ。その成長過程において、最も適したおもちゃを、提供することは、子ども達の情操を豊かにし、社会性を高め、あるいは運動能力を培うなど、他の何ものにも代え難い重要な役割を果すものとなる。
しかし、この「おもちゃ」は、時代の変遷と共に、昔とは、随分と代わってきている。私達が、幼少期を過ごしたときの「おもちゃ」は、積み木、コマ回し、凧揚げ、けんだま(剣玉)や、メンコ、ビー玉、かるた、双六、ゼンマイ玩具や着せ替え人形などといったところであろうか。少し手先が器用になった小学生の頃になると、模型作りが流行っていた。それも、自分で木を削って潜水艦や軍艦、戦車、飛行機などを作って遊んでいた。まだ何でもが高く買えない次代だったので、何でもかでも作っていた。難しいものになると、お父さんなどが一緒になって作ってくれた。そんな、子供時代のおもちゃについての思い出は年代によって大きく違うだろう。ただ、現代の子供たちの遊び道具や遊び方が私達の年代の者と大きく違うのは、先ず、私達の年代の者は先にも書いたが、手作りのものの遊びが多かった。そして、例えば、出来合いのもののメンコ遊びにしても、夫々が、メンコに油や蝋を塗ったり形を工夫して遊んでいた。それと、殆どは団体で遊んでいた。おもちゃは仲間と一緒に遊ぶための道具であり、例えば、木で作った潜水艦などもその型を工夫し鉛の付け方を調整し、遊び仲間とどの位潜れるか、どの位早く進むかを競った。そこには、いつも工夫と競争があった。そして、物を作る時には、父親や母親がアドバイスをしてくれたし、また、トランプ遊びや、かるたとりなどには、兄弟や父母、また祖父母も参加しているし、正月などでは、親戚中の子供が集まって一緒に遊んでいた。
しかし、それに対して、現代の子供は、既に出来上がったもので、自分の個室で1人で楽しんでいるものが多いのではないだろうかね~。昔のおもちゃと今のおもちゃのどちらが良いかなどと言ったところで、昔と今では大きく生活環境も変わっているのでどうのこうのと言えないが、やはり、子供は遊びの中から色々な事を学んでいくものであり、子供の年齢に応じた適切なおもちゃを与え、極力、親なども一緒に遊べるようにはしたいものだよね~。我が家も、こどもの日に孫には、何を買ってあげようかと言うよりも、前もって、孫からおばあちゃんに何が欲しいと注文が来ている。こどもの日には、ただ、孫の要求にこたえるだけなのだが・・・。そのような家が多くなっているのではないだろうか。子供と違って、孫には、どうしても甘くなってしまうが、おじいさんやおばあさんのそんな弱みはちゃんと孫には見透かされているようだね。私は、現役時代アメリカの心理学を利用した「育親セミナー」に通った事があるが、親が子供を観察している積りで居るが、子供の方がよほど親を観察している事が良くわかったよ。(当時家庭内暴力、校内暴力が問題となっていた)
子供子供と甘く見ない方が良い。親が子供をしつけている積りでも、子供の方が親をコントロールしていることの方が多いということを肝に銘じておいた方がよいだろうね。その積りで、子供のおもちゃ選びもするように・・・・。
(画像は「>こけし」。こけしは、木製の人形玩具で、昔はこどものおもちゃであった。Wikipediaより)
東京玩具人形問屋協同組合
http://www.gangu-kumiai.com/
玩具 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8E%A9%E5%85%B7
遊具 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%8A%E5%85%B7
こけし
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%93%E3%81%91%E3%81%97
オモチャ・玩具(おもちゃ) - 語源由来辞典
http://gogen-allguide.com/o/omocha.html
女房言葉 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A5%B3%E6%88%BF%E8%A8%80%E8%91%89
(社)日本玩具協会
http://www.toys.or.jp/
おもちゃの歴史
http://www.toyculture.org/notice/toy.htm
なつかしい童謡・唱歌・わらべ歌・寮歌・民謡・歌謡(おもちゃのマーチ ,おもちゃのチャチャチャ)
http://www.mahoroba.ne.jp/~gonbe007/hog/shouka/00_songs.html
MG34号:CARE International Japan〔子どもとおもちゃ〕
http://www.careintjp.org/support/mg-backnumber/mg034.html