今日のことあれこれと・・・

記念日や行事・歴史・人物など気の向くままに書いているだけですので、内容についての批難、中傷だけはご容赦ください。

世界宇宙飛行の日Part 2「地球は青かった」

2010-04-12 | 記念日
ユーリイ・ガガーリン空軍少佐を乗せた世界最初の有人衛星宇宙船ボストーク1号が、中央アジアにあるバイコヌール宇宙基地から打ち上げられ、約1時間半で地球を1周し、ソ連領内に着陸した。このとき、人類で初めて宇宙に行ったユーリイ・ガガーリンの、「地球はかった」の言葉は、世界に残る名言になっている。この世界初の有人の宇宙衛星船・ソ連のボストーク1号が打ち上げに成功したことを記念し4月12日が、「世界宇宙飛行の日」となっていることについては以前に、このブログで1度書いた(以下参考の※:4月12日「世界宇宙飛行の日」参照)が、その時は、米ソの宇宙開発競争のことなど、宇宙船のことを中心に書いたので、今日は、そのPart 2として、ガガーリンが言ったと言われている有名な言葉「地球は青かった」をテーマーして書いてみる。
前のブログでもこの部分については、“ガガーリンは、帰還後、「暗黒の空を背景に地球は美しい青色のかさ(「ハロ」と言うらしい)をかぶっていた。それは、地平線を見るとよく分かった」と語った。この俗に言われる「地球は青かった」は当時流行語にもなった。このときのガガーリンが感動して、「青い」といったのは、弧を描く地球を薄く覆っている大気のことであったが、ガガーリンはそれを、人類として初めて大気圏の外から見たことになった。”・・・と書いておいた。
ハロ(=ハロー [halo])とは、広辞苑を見ると以下のように書かれている。
①暈(かさ)。天文用語。太陽または月の周囲に見える光の輪。光が微細な氷の結晶からなる雲で、反射・屈折を受ける結果生ずる。
②光輪。キリスト教芸術で、聖人や神的人格を象徴するために頭の周囲や描いた光の輪。
③渦巻銀河の円盤を広く取り囲むほぼ球状に星が分布している部分。
ガガーリンが宇宙船の窓から地球の姿を見て「地球は青かった」といった言葉は有名だが、以下参考の※:「ガガーリン地球は青かった原文探し旅」では、実際に、ガーリンがどのように語ったかを徹底的に調べているがその中で、“ロシア語では〔青い〕を表す単語が二つある。それは「синий(シーニー)」と「голубой(ガルボイ)」であり、研究社露和辞典によると、シーニーはガルボイに比べ、暗青色。ガルボイはシーニーに比べ、淡青色、空色と書かれている”。そして、 ガガーリンが、“ボストーク1号から9時27分に地球を見たとき語った言葉は「地球の縁、地平線の際は非常に美しい青い光の輪になっています。この光の輪は地球から離れるにつれ、暗くなっていきます。」・・であり、ガガーリンが感じた青は、「シーニー」ではなく「ガルボイ」であった。”旨、それと、“『地球という惑星が青かった』といったのではなく、宇宙空間との境い目の大気の層が青く見えたことを語っていた”のだと解説している。つまり、”今、あたりまえにのように、私たちが宇宙からの地球の写真で目にしている、あの青いオーラのような薄い層の色合いを。ちなみに、『光の輪』と訳したのは原語ではОРЕОЛ(アリオール)。露和辞書では光の輪、円光、後光、光背、ハレーションと訳されています。”・・・・と。ここに見られるように、宇宙船の中から地球を見たとき、ガガーリンは、地球を青かったとは言っていないが、地球に返ってきてから、イズベスチヤ4月13日掲載のオストロウーモフ記者による着陸地点からのルポの中で、ガガーリンの言葉として、 「空は非常に暗かった。一方、地球はガルボイがかっていた」・・・と語っているのが、日本の各誌などで「地球は青かった」と訳され報道されたようだ。そして、「ガルボイ」の色の説明として、“ブルーキュラソーの青。ピカソの”「青の時代」の青”を例に出している(「青の時代」については以下参考の※:「ピカソの「青の時代」 [アート論]」参照)。
面白いのは、”ガガーリンはプラウダに連載した『ダローガ・フ・コスモス(宇宙への道)』(ガガーリン著)の中で、地球の夜の面から昼の面へ飛行する時に地平線上に現われる色彩の美しさに感嘆し、まるでニコライ・レーリヒの絵のようだと語っているという。
ニコライ・レーリヒといっても、私はこのブログを書く為に色々に調べるまでよく知らなかったが、ロシア語名では、ニコライ・コンスタンチノヴィチ・リョーリフ、と言い、ロシアのサンクトペテルブルク生まれのドイツ系ロシア人で、美術界と法曹界で訓練を積み、文学や哲学、考古学にも関心を寄せた知識人で、一般的には、ストラヴィンスキーの「春の祭典」では生贄の処女が死ぬまで踊り狂うという古代の異教の徒の死の儀式がテーマとなっており、これを最初に着想・構想し、舞台デザインに関わった美術家として知られているようだが、私は、この作品も見たこともないのでこの作品のことは、以下参考の※:「ストラヴィンスキー/春の祭典」を見られると良い。
彼は、1920(大正9)年渡米後、英語風にニコラス(Nicholas)と名乗ったそうで、さまざまな神智学協会に加入するうち、美術活動よりも、むしろ、宗教活動が生活を支配するようになったようだ。1925(大正14)年から5年半に渡り、理想郷シャンバラを探し求めて中央アジア一帯、チベット、モンゴル、シベリアまでの広範囲を探索。当時シャンバラは地球の中心にあると言われる伝説上の都市アガルタの首都だと信じられていたようだ。レーリッヒやシャンバラの話などについては、以下参考の※:「ユートピア伝説」や※:「謎の地底王国アガルタ」などが詳しい。
晩年は、北インドのクルー渓谷(神々が住まう聖なる地と言われているようだ)に移住し、ヒマラヤ研究に専念したという。現地の風景を題材にした数多くの作品を残し、生涯で約7000点の絵画を創作しているというが、その独特な “レーリヒの青”を基調とした絵は、宗教性が強く、その幻想的、神秘的な作風は独特で示唆に満ちている。以下参考の※:「Nicholas Roerich Museum」には沢山の絵が展示されている。the-collecction また、 paintingsを覗かれるとよい。
ロシアの宇宙飛行士・ガガーリンが、地球の色を語るとき、地球の夜明けの色彩の美しさは、ニコライ・レーリヒの絵のようだと語っていることについて、以下参考の※:「ガガーリン地球は青かった原文探し旅」の管理者は、“ソ連の宇宙科学者たちが地球の外の「宇宙」についてみた夢と、レーリヒが地上の秘境、そして精神の奥底について見た夢は、じつは深いところで通底するものだったのではないか。そう考えると、ガガーリンが初めて宇宙に飛び出したときレーリッヒの名前を出したのも、単なる偶然とは思えなくなってくる。”・・・と述べているが、この管理者が、ガガーリンについていろいろ調べたことを書いているのを読んで、私もそのように思った。初めて見た光景の表現に、ガガーリンの文学的な才能も感じられる。
ガガーリンが、世界最初の有人宇宙飛行に成功したときのコールサインは「ケードル」(ロシア語:Кедр、ヒマラヤスギの意味)であったという。又、飛行中「祖国は聞いている」という歌(エヴゲーニー・ドルマトフスキー作詞、ドミトリー・ショスタコーヴィッチ作曲・作品86)を口ずさんで自分自身を元気づけていたという。
そういえば、1955(昭和30)年前後、日本では歌声喫茶が流行っていたが、このような歌を歌った記憶があるよ。当時、労働運動、学生運動の高まりとともに唱歌、童謡、歌謡曲などのほかに労働歌、反戦歌などと共に、ロシア民謡などがよく歌われていた。年輩の人なら覚えがあるのじゃないかな。⇒祖国は聞いている。同じドルマトフスキー作詞、ショスタコーヴィッチ作曲で、映画「エルベ河の邂逅」(1948年)の主題歌、エルベ河もあったよ。この頃は、本当に真面目な良い歌を歌っていたね~。
少し、脱線したが、ところで、それでは、地球がどうして青く見えるのかな?・・・。
冒頭掲載の画像は、1972(昭和47)年、アメリカのアポロ17号、ハリソン・シュミットから撮影した地球であるが、青く写っているところは、海だけではなく、陸地のところも青い。写真は、青い海、白い雲が大部分だが、雲の間から見える陸地を良く見てみると、砂漠を除くほとんどの部分が青く写っており、青く見える陸地の部分は、緑の森林・草地で覆われた地域である。そこは、本当は緑のはずだが宇宙から見ると青く見える。
それは、以下参考の※:「キリヤ化学/色と化学についてのQ&A」に詳しく書かれているが、要するに地球をとりまく大気が青いからだが、地球をとりまく大気を地上から見ると青空となって見えるのは、光の波長より小さな空気分子が短い波長をより多く散乱するレイリー散乱によるものだそうだ。その青空は、地上から見た場合だけでなく、宇宙から見た場合でも地球の大気は青く見える。それで,本当は緑である森林の緑も青に変わって見えるようだ。私は、この分野の専門家ではないので、興味があるなら、Q-51 青い目と空の青とは同じ? 。Q-41 海が青く見えるのはなぜですか? 。Q-25 空はどうして青く、夕焼けはどうして赤いのですか? ・・などを見てみると良い。
(画像は、1972年12月7日、アポロ17号、ハリソン・シュミットの撮影した地球。Wikipediaより)
参考:
※:4月12日「世界宇宙飛行の日」
http://blog.goo.ne.jp/yousan02/e/14e3a3d1a9a19d3fea00b56265de2cd1
※:今日も星日和/ガガーリン地球は青かった原文探し旅 
http://hoshi-biyori.cocolog-nifty.com/gagarin/cat6261514/index.html
※:ユートピア伝説
http://www.geocities.co.jp/berkeley/3860/Utopia/048.html
※:謎の地底王国アガルタ
http://members3.jcom.home.ne.jp/dandy2/works/works_14_w.html
※:Nicholas Roerich Museum
http://www.roerich.org/index.html
※:ピカソの「青の時代」 [アート論]
http://hikosaka.blog.so-net.ne.jp/2008-03-23
※:ストラヴィンスキー/春の祭典
http://www.geocities.jp/proglink/artists/harusai.htm
ニコライ・レーリッヒの思想と生涯(PDF)
http://www.saturn.dti.ne.jp/agni/life_of_roerich.pdf#search='クルー渓谷'
※:キリヤ化学/色と化学についてのQ&A
http://www.kiriya-chem.co.jp/q&a.html
祖国は聞いている【C】
http://bunbun.boo.jp/okera/saso/sokoku_kiite.htm
エルベ河 【Dm】
http://bunbun.boo.jp/okera/aaoo/erube_gawa.htm
ユーリイ・ガガーリン-Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A6%E3%83%BC%E3%83%AA%E3%82%A4%E3%83%BB%E3%82%AC%E3%82%AC%E3%83%BC%E3%83%AA%E3%83%B3
ニコライ・リョーリフ - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8B%E3%82%B3%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%83%BB%E3%83%AA%E3%83%A7%E3%83%BC%E3%83%AA%E3%83%95

大仏の日(Ⅰ)

2010-04-09 | 記念日
日本記念日協会には、今日・4月9日(旧暦)の記念日として「大仏の日」があった。752年(天平勝宝4年)の今日、奈良・東大寺の大仏の開眼供養が行われたことにちなむ。この廬遮那仏坐像は座高16 メートル、顔の長さ5 メートル、目の長さ2 メートルという巨大なもの。しかし、記念日と言うからには、何時、誰又、何処の団体が、何を目的に設定したのかが本当は分らないといけないのだが、そのようなことは、記念日設定の由緒には書かれていない。最近は、このような記念日が多いな~。
現在の奈良県奈良市にあった平城京(奈良の都)への遷都(710年)から2010(平成22)年の今年で1300周年を迎えることを記念して、今年・1月1日から12月31日まで1年間「はじまりの奈良、めぐる感動」をテーマに 「平城遷都1300年記念事業」(平城遷都1300年祭。以下参考の※:「平城遷都1300年」参照)が行なわれている。思い起こせば、その記念事業の公式マスコットキャラクター「せんとくん」が発表されたときには、「可愛い」「可愛くない」、また、仏教界からは、仏に鹿の角を生やしたような姿は「仏様を侮辱している」と異議が唱えられるなど、マスコミを騒がせたものであるが、いざ、開幕した今年には、何も騒ぎは起っていないようだね~。私も昔は何度も奈良へ行ったものだが、そういえば、ここ20年近くは行っていないので、余り人出の多くないようなときにでも1度行ってみないといけないな~。
唐の永徽律令(えいきりつれい、651年制定)を参考にしたと考えられている日本最初の本格的な律令である大宝律令が完成したのは、天武天皇没(686年)後の文武天皇の代の701(大宝元)年のことである。この年、文武と飛鳥時代の政治家で藤原氏の始祖・藤原(中臣)鎌足の息子である藤原不比等の娘・宮子との間に第一皇子・首皇子(聖武天皇)が誕生。また、不比等と県犬養三千代(橘三千代)との間に安宿媛(光明子。後に光明皇后)も誕生している(聖武天皇の母である藤原宮子は光明皇后の異母姉である)。707(慶雲4)年、文武天皇が崩御(享年25歳)したとき、首皇子は、まだ7歳であり、文武の母親である元明天皇天智天皇皇女)が中継ぎの天皇として即位した。この時期は701年に作られた大宝律令を整備し、運用していく時代であった為、実務に長けていた不比等を重用した。そして、元明天皇による藤原京より、平城京への遷都の詔が出され、710(和銅3)年、平城京に遷都したが、この遷都は不比等が主導権を握って行われたと伝えられている。そして、左大臣石上麻呂を藤原京の管理者として残したため右大臣の不比等が事実上の最高権力者になった。不比等は、厩坂寺を平城春日に移し、興福寺と改称。この年、大官大寺(大安寺の前身)も平城へ移している。元明天皇は、翌711(和銅4)年、律令の励行を命じている。
大宝律令は、日本史上最初の本格的律令法典であり、これにより日本の律令制が確立することとなった。大宝律令の施行は、当時としても非常に画期的かつ歴史的な一大事業と受け止められており、律令施行とほぼ同時に日本という国号と最初の制度的元号(大宝)が正式に定められた。さらに律令の制定後行なわれた空前規模の都城は9年の歳月を要して建設された。これらは、律令施行があたかも一つの王朝の創始(または国家建設)に擬せられていたことを表している。
「わが背子と 二人見ませば 幾許か この降る雪の 嬉しからまし 」(万葉集 巻8-1658)
光明皇后の歌である。意味は、「わが夫の君と、もし二人で見るのでしたら、どんなにか、いま降っているこの雪が喜ばしく満足に思われることでしょうに・・・」といったところであるが、何時の作かは不明であるがそこには、中睦まじい夫婦の姿が見えてくる。
しかし、天平の時代を担ったこの二人の生涯は決して安穏なものではなかった。
同じ701年生まれの元明天皇の皇太子・首皇子のもとに藤原不比等の娘・安宿媛が入内したのは716(霊亀2)年のことである。この前々年、首皇子は14歳で立太子し、前年正月には群臣の朝賀を受けていた。同年9月、元明天皇が譲位し、娘の氷高(ひたか)皇女(元正天皇)に譲位している。しかし、皇后あるいはそれに順ずる経歴も持たない元正天皇が皇位についた理由は、元明天皇自身の老いもあるが、何よりも文武天皇の嫡子であるまだ年若い首皇子に間違いなく皇位を継承させるためであり、それが、この女帝に課せられた地上命令でもあったようだ。しかし、720(養老4 )年に、首皇子への皇位継承と律令政治の推進に腐心した不比等が亡くなり、長屋の王が右大臣となり政権を掌握。続いて頼りにしていた母元明太上天皇が721 (養老5)年に相ついで世を去ったとき、元正天皇は、「心肝裂くるが如し」と、悲嘆に暮れたというが、さもあろう。そのような中、724(神亀元)年2月、元正天皇は、24歳になった皇太子に念願の皇位を譲り、ここに、聖武天皇の時代が始まる。安宿媛は夫の首皇子の即位とともにこの時、後宮の位階である夫人号を得る。727(神亀4)年、聖武天皇と光明子(光明夫人の美称)との間に誕生した第一皇子・基親王が、翌年皇太子に立てられたものの僅か2歳足らずで夭死し、これが後に、後継を争っての長屋王の変が起こる引き金となるが、長屋王の変後、729(天平元)年、光明子を皇后にするとの詔が発せられた。光明皇后の誕生は王族以外から立后された初例である。 以後、藤原氏の子女が皇后になる先例となった。そして、律令編纂に中心的な役割を果たした不比等は、その後、大納言・右大臣へ昇進し、政府の中枢において最大の権力者となり、藤原氏繁栄の基盤を作った。
兎に角、聖武天皇誕生以降、その愛娘孝謙(称徳)天皇、それに、光明皇后の加わった治世がおよそ半世紀に及び、この奈良時代は、その中心的な元号から天平時代と呼ばれることが多い。
この天平の初年頃、大宰府に赴任していた大宰大弐小野老(おののおゆ)が、はるか平城の都を偲び詠んだ歌が万葉集に見られる。
「あを(青丹)によし寧楽(なら)の京師(みやこ)は咲く花のにほふがごとく今盛りなり」(巻第三-328)
「青丹によし」は、「奈良」の枕詞であるが、歌の解釈等は以下参考の※:「枕詞「あをによし」について」を参考にされるとよい。
天平時代は東大寺と大仏の建立や正倉院の品々に見られる壮大、華麗な世界を、そして、遠く唐の都長安に学んだ日本古来の文化と大陸からの文化の融合といったことを思い浮かべる。しかし、この時代は華やかな都ぶりの対極に、暗く、陰惨な空気をはらんでいた。
大仏の造営などにかり出され、あるいは、天変地変に翻弄され、飢饉や天然痘など疫病で死に直面した民衆。そのような民衆が、律令制の下、租・庸・調の重税にあえいでいる様子は、山上憶良 の「貧窮問答」に生々しく描写されている(歌の内容等は、以下参考の※:「山上憶良 千人万首」※:「山上憶良:その生涯と貧窮問答歌 - 壺齋閑 話」を参照)。この歌は、筑前守を退任後、帰京間もない732(天平4)年の冬頃に完成したらしい。又、長屋王の変(729年)をはじめ藤原広嗣の乱(740年)など相次ぐ政争に、否応なく、巻き込まれてゆく皇族・貴族たちが見られる。
大宝律令の制定によって成立した律令国家が、その支配システムを社会に浸透させ、定着してゆくためには、幾つかの試練があった。先ず、唐の律令を真似た律令制が施行されたもののそれまでの慣行に生きてきた豪族達には殆ど理解できない合理性を備えていたようであり、思想的な価値観の対立や現実の利害も絡みその貫徹を許さず、法の修正をよぎなくされた場合や、新たな矛盾を生み出す場合もあった。天平の時代は律令制の政治理念と、これに合い矛盾する現実とを内包した時代であった。こんな天平時代の政治と文化の基調、律令と仏教は、いずれも外来のものであった。これがどのように日本の社会に受け入れられるか。そして、どのような機能を果たすべきか。天平時代の律令制の成果と矛盾は何よりもこの政治と仏教の関係にあったという(週間朝日百科「日本の歴史」古代⑩大仏建立と八万神:「鎮護国家と」とその行方)。
このような社会状況の中、大宰府から流行した天然痘の平城京への蔓延により民衆だけでなく藤原4兄弟を始めとする政府高官のほとんどが死亡するという惨事に見舞われ、天皇・皇后は仏教への傾倒を深く進めることとなった。
藤原広嗣の乱のときに、「朕意(おも)うところあるに縁(よ)りて、今月の末暫く関東に往(い)かんとす。その時に非(あら)ずと雖(いえど)も、事己(い=や)むこと能わず」と勅(ちょく)し、伊勢へ行幸。11月には、広嗣が逮捕され乱は平定されるが、それでも、平城京には戻らず、翌年恭仁京(くにきょう)遷都を宣言。宮殿は造られたが、都としては完成しないまま、その後も743(天平15)年紫香楽宮に移り、その翌年には難波京に遷都するなどと迷い続けた末、745(天平17)年平城京に都が戻されている。
東大寺・廬舎那大仏の造像が発願されたのは、奈良・平城京ではなく、この時、聖武天皇が平城京から恭仁京へ脱出し、そこから紫香楽宮に移った743(天平15年)のことであり、紫香楽宮の近くの甲賀寺(今の滋賀県甲賀市。以下参考の※:「近江国分寺」参照)に造られる計画であったが、紫香楽宮の周辺で山火事が相次ぐなど不穏な出来事があったために計画は中止され、実際の造像は平城京に戻ってきた745(天平17)年から準備が開始され、747(天平19)年、大仏の鋳造を開始。長門国長登銅山の銅、陸奥国を国司として治めていた百済王敬福から贈られた鍍金用の金を材料にして造られた。天平勝宝4年4月9日(西暦では752年5月26日)開眼供養会が実施された。

大仏の日(Ⅱ)へ続く

大仏の日(Ⅱ)

2010-04-09 | 記念日
藤原広嗣の乱のとき、平城京を逃げ出すような形で伊勢へ行幸し、その後、乱が平定されても、平城京には戻らずに、恭仁京・紫香楽宮・難波京へ宮都を転々としているが、それがなぜかについて、その背後には、恭仁が橘諸兄に、紫香楽が藤原仲麻呂に関係の深い地であり、紫香楽宮の造営と大仏造立のため恭仁宮の造作を停止しているのは、その背後に藤原仲麻呂の攻勢と橘諸兄の反撃があったと考えられている。広嗣の反乱に茫然自失した聖武天皇の行動には、この両者の政権抗争が絡み合っていた。この過程で、天皇の行動の主眼は仏神を動員した宗教にもとづく鎮護国家の樹立と皇太子への譲位以外になく、そのための行政一般は皇后の信頼をえて急速に進出してきた藤原仲麻呂に委ねられるようになる。
仏神に対する政策は大仏建立の詔(ここ参照)などで明らかであるが、たとえば、僧綱(そうごう)の行政を<太政官への申請とその指示によるべきことを命じたように、従来の学僧たちの主体性を否定しかねない方向性を打ち出したが、逆に、それまで抑圧してきた利他行(りたぎょう。ここ参照)・菩薩行という実戦をすすめる行基を大僧正に登用した。そこには、国家仏教としての変容を示すものがあり、幅広く民衆までを鎮護国家のイデオロギーの中に包摂(ほうせつ)しようとする姿勢が示されている。しかし、無節操ともいえるたび重なる造都と行幸の最大の犠牲者は民衆であり、紫香楽宮周辺の山々では頻々に不審火があったというのもそのことによるのであろう。結局、太政官の諸臣一致で平城への遷都が決まり、平城宮に戻った時、天皇は、殆ど政治に対する意欲を喪失していたようだ。
大仏開眼供養会の3年前、聖武天皇は749(天平21)年4月、東大寺に行幸し、念願の大仏造立の見通しが明らかになったのを見て、この年、の7月、娘の阿倍内親王(孝謙天皇)に譲位(一説には自らを「三宝の奴」と称した天皇が独断で出家してしまい、それを受けた朝廷が慌てて退位の手続を執ったともいわれる)し、初の男性の太上天皇となっている。光明皇后は皇太后として皇后宮職を紫微中台(しびちゅうだい)に発展させ新天皇を補佐する体制をととのえていた。
開眼供養会には、孝謙天皇をはじめ、聖武太上天皇、光明皇太后のほか要人が列席し、参列者は1万数千人に及んだという。聖武上皇にかわって当時大安寺に居住していたインド出身の僧・菩提僊那(ぼだいせんな)が開眼導師を担当した。異国の僧を起用しての供養絵は大仏開眼にふさわしいものであった。
奈良の大仏は、毘盧遮那仏と呼ばれるもので、これは、外来の仏教によるものであることから、既存寺院の猛反発もあったが、庶民に人気絶大であった行基に大仏建立の責任者を引き受けさせることによってこの反発を和らげ、当時の技術の粋を集めて作られた巨大な金銅仏である。聖武天皇は、大仏造立の詔の中で、「夫(そ)れ天下の富を有(たも)つ者は朕なり。天下の勢を有つ者も朕なり」と自分の権勢を誇示している。一方で、”「一枝の草、一把の土」をもって大仏造立を手伝おうとする者があれば、それを許せ、役人は大仏造立を口実に人民から無理な租税の取立てをしてはならない”という意味のことを述べている。
東大寺の地は、かって、聖武天皇の皇子・基王の菩提を弔うための山房が造営された地で、金鐘山房(金鐘寺、金鐘山寺とも)といわれた地で、やがて国分寺の造営がこの地で勧められ、この山房が大和の国金光明寺となった。ここに大仏が建立されほぼその完成期に東大寺と称されるようになった。よって、東大寺は、聖武天皇が当時の日本の60余か国に建立させた国分寺と国分尼寺の中心をなす「総国分寺」と位置づけられたものであり、国を傾ける程の莫大な資財と労力を投入してなし得た。この国分寺造立の思想的背景には護国経典である「金光明最勝王経」(以下参考の※:「金光明最勝王経」参照)の信仰があった。同経によれば、この経を信じる国王のもとには、仏教の護法善神である四天王が現われ、国を護るという。聖武は、日本のすみずみにまで国分寺を建て、釈迦像を安置し、金光明最勝王経を安置することによって、国家の安定を図ろうとする意図があったものと思われる。
兎に角、752(天平勝宝4)年4月9日の大仏開眼会が行われたとき聖武と光明の二人による政治の第一部の幕が下りたことになる。
東大寺の大仏は、752(天平勝宝4)年の開眼供養会の時点では、大仏本体の鋳造は基本的には完了していたが、細部の仕上げ、鍍金、光背の制作などは未完了。又、大仏殿も建物自体は完成していたが、内部の仕上げは未完成であったというが実際にどの状態であったのかは定かではない。この当初の大仏には、完成後数十年にして亀裂や傾きが生じ、855(斉衡2)年の地震では首が落ちるという事故があったが、ほどなく修理された様だが、その後大仏および大仏殿は、源平争乱(治承・寿永の乱)期と、戦国時代の2回、兵火で焼失したため、現存する像の大部分は鎌倉時代から室町時代に補修されたもので、天平時代当初建立された部分としては、台座、右の脇腹、両腕から垂れ下がる袖、大腿部などがある。以下の図参照。

上図は緑色部分が、天平当初の部分。紫色部分が鎌倉時代の補修部分。肌色部分が江戸時代初期の補修部分である(松川鉄夫ほか東京芸術大学調査グループによるもの。週間朝日百科「日本の歴史」54より)
1180(治承4)年、源平争乱期に平重衡の南都焼き討ちの際に消失する前の大仏の様子は、後代、平安時代の作であるが、唯一『信貴山縁起』(絵巻、朝護孫子寺蔵)の絵から伺い知ることができる。以下参考の※:「国宝 紙本著色(しほんちょしょく)信貴山縁起(しぎさんえんぎ)[信貴山縁起絵巻]」を参照。同HPの画像のところをクリックすると拡大画像で見れる。
又、以下の図は、1692(元禄)年に、現在の大仏の修理開眼供養をした模様を描いたものである(「開眼供養屏風」東大寺蔵。週間朝日百科「日本の歴史」54より)。

1567(永禄10)年、松永久秀の兵火(この時の詳しい戦いの様子は東大寺大仏殿の戦いを参照)により焼失した大仏はその直後に一時応急修理をしたままであったが、公慶上人の大仏殿再建勧進によって、1688(元禄元)年、大仏修復作業が始まり、露座のままこの年開眼供養会が行なわれた。ついで、1709(宝永6)年には、大仏殿落慶法要が行なわれた。上掲の画像は、享保末年(1730年代)頃に製作された6曲2双屏風の1つで、もう1つには、大仏殿落慶法要の模様が描かれているようである。
なお、奈良・東大寺の大仏と鎌倉市の高徳院にある鎌倉大仏は、「日本三大大仏」として、常に第1の大仏、第2の大仏に挙げられているが、第3の大仏は時代によって変遷し、定まりがない。日本三大大仏の変遷は大きく3つの時代に分けることができ、第1の時代は、京の方広寺(現・京都市東山区)にかつて存在した京の大仏が第3の大仏とされた近世、第2の時代は、神戸市兵庫区・能福寺にある(兵庫大仏が第3の大仏とされた近代、第3の時代は第3の大仏が事実上空位となり、日本各地の大仏が第3の大仏に挙げられている現代である。本当は、今日「大仏の日」に、この「京の大仏」「兵庫大仏」のことを採り上げたかったのだが、余りにも長くなるので、これらのことは、次の機会に書くことにしよう。
(冒頭の画像は、現在の東大寺盧舎那仏像。Wikipediaより)

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参考:
※:平城遷都1300年
http://www.pref.nara.jp/1300/kids/
※:小野老 千人万首
http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/oyu2.html
※:古典に親しむ/万葉集
http://www.h3.dion.ne.jp/~urutora/kotenpeji.htm
※:枕詞「あをによし」について
http://homepage1.nifty.com/k-kitagawa/qa/manqa02.html
※:山上憶良 千人万首
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※:金光明最勝王経
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国分寺
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王城年代記
http://www.geocities.jp/rois_77/outo-nendai.htm

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阿波よしこの名手・芸者お鯉こと、多田小餘綾の忌日

2010-04-06 | 人物

4月6日の今日は、「阿波よしこの」の名手芸者お鯉こと・多田小餘綾の2008年の忌日。
「多田小餘綾」(ただ こゆるぎ)と言う名前や「阿波よしこの」と言っても知らない人が多いのではないかと思うが、西馬音内の盆踊り郡上おどりと共に、日本三大盆踊りの1つに数えられる「阿波踊り」のことは誰もが良く知っているのではないか。
阿波踊り」は、約400年の歴史をもつ、徳島県(旧・阿波国)内各地の市町村(徳島市、鳴門市、<三好市など)で開催される盆踊りであるが、なかでも徳島市の阿波踊りが県内最大規模で最も有名である。江戸時代に、徳島藩の知行地となっていた兵庫県の淡路島でも踊る。
三味線、太鼓、鉦(かね)、横笛などの2拍子の急調子で囃(はや)し立てる伴奏にのって踊り手の集団(「連」)が踊り歩く。女性は優雅に、男性は腰を落として豪快に踊る。
「ハアラ エライヤッチャ エライヤッチャ ヨイヨイヨイヨイ」・・・。徳島の阿波踊りに欠かせないお囃子「阿波よしこの」の出だしである。
すっかり耳に馴染んだこの節回しを生み出し、阿波踊りを全国区にしたのが、2008(平成20)年の今日・4月6日、100歳(享年101)で逝去した芸者お鯉さんこと、多田小餘綾さんだった。
1907(明治40)年4月27日徳島市富田町に生まれる。本名の「小餘綾(こゆるぎ)」は、歌枕の「こゆるぎの磯」にちなみ、また、磯=五十にかかる歌枕でもある。父の金波が五十路を越えた時の娘であることから命名されたのだという(以下参考の※:「お鯉さん」より)。
歌枕とは、和歌に引証される地名のことであり、古今和歌集・東歌に
「こよろぎの 磯たちならし 磯菜つむ めざしぬらすな 沖にをれ浪」(巻二十-1094、読人知らず )
が あり、「こゆるぎの磯」とは、相模(さがみ:今の神奈川県)大磯から国府津(こうづ)にかけての海岸を言っているが、歌の意味は、“小余綾の磯で一生懸命に磯菜を摘んでいる、あの子の髪を濡らすな、沖に居ろ波”らしい(以下参考の※:「古今和歌集の部屋」参照)。又、万葉集・巻十四東歌には、「相模道(さがむぢ)の、余綾(よろぎ)の浜の、真砂(まなご)なす、子らは愛(かな)しく、思はるるかも」(3372作者: 不明)が見られ、意味は、“相模の余綾(よろぎ)の浜の砂のように、あの娘(こ)のことが限りなくいとおしく思われる“といった意味であり、”真砂(まなご)“は、砂浜の細かな砂のことであるが、また、「まなご」で「愛児(まなご:最愛の児)」をイメージさせているとも考えられるという(以下参考の※:「楽しい万葉集)。お鯉さんの父は、画を嗜み、藍香、また東洋亭金波と号し、狂歌や俳句、川柳や短歌など幅広くこなした粋人らしいが、50歳にもなってから出来た愛娘を本当にいとおしく想い、幸せな人生を望んでいたことが、この名前の付けかたでよくわかる。
そのような芸事が好きだった父親の影響で、数え年10歳の時に三味線を習い始め、1920(大正9)年14歳のときに、芸妓「うた丸」としてお披露目をし、一時検番を離れた後、1923(大正12)年「こゆるぎ」名で自前芸者(抱えではなく、独立して自力で営業)となり、その後、「お鯉」に改名したという。三味線の腕と艶のある声が評判になり、1931(昭和6)年、「徳島盆踊り歌」(阿波よしこの)をレコードに吹き込んだ。大阪のスタジオで鐘や太鼓の奏者と録音に望んだが、演奏を始めるタイミングが合わない。休憩を取り、屋上に上ったとき、ふと思い出したのが、江戸時代末期にはすでにあった囃子言葉「ハアラ 」と「エライヤッチャ」であり、これを組み合わせて即興の「お鯉節」に仕立て上げたのがこの「阿波よしこの」だそうで、当時は全国的な民謡ブームであり、このレコードを発売後、ラジオの出演依頼が続々と舞い込んだ。そして、「踊る阿呆に見る阿呆、同じ阿呆なら踊らな損々…」の「阿波よしこ」が広まったという(冒頭の画像①が、2007年4月100歳の記念コンサートで「阿波よしこの」を披露した故:多田小餘綾さん。2008年5月16日朝日新聞夕刊より)。
お鯉さんは、阿波踊りを広めた功績を讃えられても「好きな三味線を弾いてきただけです」と語っていたと言い、4月27日に予定していた101歳の誕生パーティーを最後に一線を退く積りだったという。1949 (昭和24)年の暮れ(42歳)には料亭「言問」を徳島市栄町に開業し、女将として料亭を切り盛りする傍ら、芸者としてラジオ・テレビに出演もし活躍。晩年は持病のリュウマチで手が動きにくくなっていたらしいが亡くなる前日も3時間の稽古をこなしていたという。就寝後そのまま文字通り眠るように死去されたそうだ。俗に老衰と言われるものだが、生涯芸者として現役を貫いた人生・・・。私など60歳ちょっとで現役を退き、何をするということもなく、余生を過ごしているものにとっては、うらやましい限りである。お鯉さんのことは以下参考の※:「お鯉さん」に詳しく書かれているので、そこを見られると良い。
「阿波踊り」は、三味線、太鼓、鉦(かね)、横笛などの2拍子の伴奏を伴なう賑やかな軽快で陽気な踊りを特徴とする「ぞめき」踊りであるが、「ぞめき」とは“騒がしい”などの意味で、派手で賑やかな踊りにつけられた名称である。
起源については、「」や「組踊」 といった特殊なものが派生してきたとはいえ、その元は旧暦の7月に行われた盆踊りであるという「精霊踊り」(精霊を慰めるための踊り。盆踊りの別名)説や念仏踊り又、阿波踊りの特色である組踊が、能楽の源流をなすといわれる風流(ふりゅう)」 の影響を強く受けていることから「風流踊り」が原形であるとする説など諸説あるが、文献上起源は明らかではなく、その中で、最もよく知られているのは、「阿波踊りの唄」として知られている「阿波よしこの」に「阿波の殿様蜂須賀様が今に残せし阿波踊り」とあるように、1587(天正15)年に蜂須賀家政によって徳島城が落成した時に、完成を祝って、城に招かれた町人たちが踊り狂ったのが始まりとする説であるが、いくら築城を記念してのものといっても、町人に無礼講で踊りを許したとは考え難く、たとえそれが事実だったとしても、阿波踊りがその時に始まったものではなく、それ以前からあった踊りを城内で踊ることを許したというだけであって、阿波踊りの起源と考えるのにはいささか無理があるだろう。
1931(昭和6)年にお鯉さんが、「阿波よしこの」をレコード化したとき「徳島盆踊り歌」として発売しているように、やはり、歴史的に見た阿波踊りの民俗芸能としての起源は、中世の「踊り念仏」が娯楽性・芸能性を強めた「念仏踊」にさかのぼり、この念仏踊りのうち特に盆の時期に踊られた「精霊踊」が現在の盆踊りの原型をつくったのだろう。
盆踊りは、元来寺院と檀家の宗徒の間で営まれた年に1度の仏教行事であったが、藩の寺院統制が強まる中で、反体制的な民衆の発起の場ともなりかねない寺院での踊りが禁止された。
踊りの場が町衆の生活の場や商いの場である町内に移されたことによって、次第に盆踊の宗教色が薄れたものと考えられている。踊りは年ごとに規模が大きくなり、衣装や持ち物を競いながら毎年、工夫を凝らした踊りを展開していく。
しかし、不特定多数の城下の町人たちが、市中にくり出して大乱舞を展開する「ぞめき」ものであることから、僅かな刺激によって暴動化する危険性は絶えずあったようだ。それに、踊りも次第に華美になってゆき、質素倹約を旨とする藩はたびたび「組踊り」禁止令を出して厳重に取り締まったようだが、阿波踊りの形態がどう変わろうと、宗教色が薄れようと、「阿波の盆踊り」として、毎年の盆会に、祖霊の鎮魂のために踊り継いできた精霊踊り(盆踊り)としておこなわれていた以上、いかに「ぞめき」の踊りであっても、宗教的な行事として盛り上がった踊りを、藩としては抑圧することもできず、全面的に禁じることもできなかったようだ。そのうえ、徳島の特産である藍産業が盛んになるとともに踊りを経済的に支えていたのは、これら藍商人らの富商層であり、これら富商たちは藩財政を支える大切な人びとであったことも、藩にとって踊りを規制することを困難にしていたようだ。

その盆踊りの振りや歌詞は地域によって様々である。上掲の画像②『讃岐国名勝図会』(梶原景紹作 嘉永7年 【1854年】、出版社:平野屋茂兵衛)に描かれた盆踊りの光景であるが、切子灯籠 の下で思い思いに仮装した人々が踊っている。この図は1854(嘉永7)年の作とされており、江戸末期には、このような風流(奇抜な趣向を凝らした作り物の装束などのこと)の要素を持つ盆踊りの多いことを示している(NHKヴィジュアル百科「江戸事情」第1巻生活編より)。讃岐国というから徳島ではなく香川県でのものだが・・・。香川県さぬき市津田町や徳島県の津田地区などでは、今でも、精霊踊りとして伝統的な盆踊りが行なわれているようだ。

次に上掲の画像③『讃岐国名勝図会』、(吉成葭亭【よしなりかてい】筆、西野家蔵。NHKヴィジュアル百科「江戸事情」第1巻生活編より)を見てください。この絵も中央に見える赤い傘は精霊踊りの祭に用いられるもの。笛や三味線・太鼓など多種の鳴り物入りで踊る盆踊りの賑やかさは、現代の盆踊りとはやや異なる。吉成葭亭は、1807(文化 4)年~1859(安政6)年の徳島大岡本町の人だそうだから、この絵は、江戸の末期の様子と言うことになる。

最後に、上掲の画像④『ちょうちょう踊り図巻』(大坂市立美図書館蔵。週間朝日百科:「日本の歴史」94近世から近世へ⑥世直しええじゃないかより)の図は、天保の飢饉大塩平八郎の乱の後に起こった1839(天保10)年3月から4月にかけて京都市中に熱病のように流行した「ちょうちょう踊り」。
平和と豊かな暮らしを望む民衆の思いはいつの世も変わらない。自らの手で生活を守るべき手段を持たなかった時代、自然の脅威にさらされたとき、或いは迫り来る次代の変化を嗅ぎ取ったとき、民衆が抱く不安と動揺は我々現代人の想像をはるかに超えるものであったろう。仮装をした奇妙なこの踊りは、京都今宮社の土木工事に際しての砂持(土木作業に従事するものが作業の時の景気づけのお祭り騒ぎの行事らしい)踊る様から「ちょうちょう踊り」(豊年踊り)と呼ばれたらしい。
人々が様々な仮装、かぶりものをして、踊っている。男が女に、女が男に扮し、又、狐・狸・虎・蝶・雷神・不動明王などおよそ考えつく限りの仮装を凝らし、腰に鈴をつけ、「おどろか、おどろふ、まけなよ、まきやせぬ、おどれよ、おどるぞ、踊らにやそんじゃや、おどるあはうに見るあはう、おなじあはうなら踊るがとくじゃ、お米のテウなら私もテウ\/、チョイト\/\/」と歌い、両足を跳ねて踊っているところのようだ。「テウテウ」は、「兆」で豊作の吉兆の意らしく、豊年の予想が民衆を狂喜させたようだ(以下参考の※:「第2章 「ええじゃないか」序曲」参照)。何か、歌の文句が阿波踊りに出てくる文句と似ていると思いませんか。
踊っている男女の異装などは江戸時代末期の1867(慶応3)年7月から翌1868(明治元)年4月にかけて、東海道、畿内を中心に、江戸から四国に広がった社会現象「ええじゃないか」でも見られるが、豊年踊りはその先駆であったようだ。(「ええじゃないか」騒動に興じる人々の画像はここ参照)。慶事の前触れだ、という話が広まるとともに、民衆が仮装するなどして囃子言葉の「ええじゃないか」等を連呼しながら集団で町々を巡って熱狂的に踊った。
「ええじゃないか」の目的は定かでないが、囃子言葉と共に政治情勢が歌われたことから、世直しを訴える民衆運動であったと解釈されている。岩倉具視の岩倉公実記によると、“京の都下において、神符がまかれ、ヨイジャナイカ、エイジャナイカ、エイジャーナカトと叫んだという。八月下旬に始まり十二月九日王政復古発令の日に至て止む”、とあり、明治維新直前の大衆騒動だったことがわかる。また、“ええじゃないか”の語源は、京の都下で叫ばれた言葉であったようだ。
この「ええじゃないか」のリズムは、現在の阿波踊りのリズムと非常によく似ている。ただメロディーについて言えば、現代の阿波踊りは近世後期から明治にかけての流行歌「よしこの 」節を使っている。
兎に角、徳島の盆踊りである阿波踊りは、明治以降時代の移り変わりとともにその姿を変えてきたものだろう。
昨・2009(平成21)年、高知県出身の日本画家、河野棹舟(1868~1945)が描いた「阿波盆踊図屏風」が徳島県内の旧家で見つかった。屏風には、踊り手5人と囃子方2人が描かれており、明治後期から大正ごろの阿波踊り風俗を写実的に描いた作品と鑑定された。以下参照。
明治〜大正の阿波踊り図屏風見つかる - MSN産経ニュース
http://sankei.jp.msn.com/life/trend/090709/trd0907092317018-n1.htm
明治時代、徳島の盆踊りは三日間、昼夜を問わずぶっ通しで踊り明かしていたという。又、日清日露戦争で勝利した時には、国内各地で祝勝祝いが行なわれるが、徳島では「祝勝阿波踊り」が開かれ、誰もが戦勝ムードに酔いしれたといい、戦争を期に、このころからお盆以外でも景気づけやお祝いの度ごとに阿波踊りは開催されるようになったという。大正時代に入ると、庶民の暮らしは豊になり、阿波踊りも時代を反映するかのようにいろいろ自由でユニークなスタイルのものが多くみられるようになったようだが、折しも第一次世界大戦(914年~1918年)後の大恐慌時代、県内にも暗い不況風が吹いていたとき、阿波踊りをリードしていたのは富町や内町の花柳界の芸子衆であったようで、その当時と変わらない阿波踊りの調べを歌い続けていた1人がお鯉さんこと、多田小餘綾さんだったようだ。この不況風が吹いていたとき、時の徳島商工会議所(当時は商業会議所)の玉田弥伊太会頭が、徳島の盆踊りを盛んにして、観光事業で不景気を追い払おうと思い立ち、徳島市内各層の有力者に相談を持ち掛けたとき、徳島出身の絵師・郷土芸能研究家で風流人・林鼓浪(はやしころう、本名:宜一)が、それまで、「阿波の盆踊り」と言っていたものに対して、旧国名から「阿波踊り」を提案がなされ命名されたものだそうだ。因みに、お鯉さんが、子供の頃から弟子入りし、三味線の指導を受けていたというのが富街芸妓衆の清元や三味線の指導にあたっていた師匠・清元延喜久(高橋シゲ)だそうだが、この人は、林鼓浪の内妻となった人だそうだ。
「阿波の盆踊り」が、阿波踊り」と呼ぶようになったのは昭和の初めのころと言うが、お鯉さんは、1935(昭和10)年には、ポリドールレコードから「阿波踊り(よしこの)」として出しており、この頃までにはそう呼ばれるようになっていたのだろう。その後、盛況に沸いた阿波踊りも、1937(昭和12)年、満州で盧溝橋事件勃発後暫く中止されたが、1941(昭和16)年に復活。この年には、阿波おどりを題材とした映画「阿波の踊子」が長谷川一夫主演で公開もされている。しかし、同じ年の1941(昭和16)年12月太平洋戦争が始まり戦況が悪化するやたちまち中止となった。戦後、復活した阿波踊りが盛んになるのは、昭和30年代に入った高度経済成長の波に乗ってからのことであろう。阿波踊りの歴史などは、以下参考の※:「あわぎん.>阿波踊りの歴史」他で詳し書かれているのでそれらを見られると良い。
(画像①:2007年4月100歳の記念コンサートで「阿波よしこの」を披露した故:多田小餘綾さん。2008・5・16朝日新聞夕刊より。②:、『讃岐国名勝図会』、NHKヴィジュアル百科「江戸事情」第1巻生活編より。盆踊り図。③:『阿波盆踊り図屏風』。吉成葭亭筆、西野家蔵。④:『ちょうちょう踊り図巻』(大坂市立美図書館蔵)。いずれも週間朝日百科:「日本の歴史」94近世から近世へ⑥世直しええじゃないかより。)

阿波よしこの名手・芸者お鯉こと、多田小餘綾の忌日:参考

グレアム・グリーン (英:小説家『第三の男』) の忌日

2010-04-03 | 人物
04月03日グレアム・グリーン (英:小説家『第三の男』) の忌日
今日・4月3日は、グレアム・グリーン (英:小説家『第三の男』) の1991年の忌日である。
イギリス映画は、第二次大戦後に黄金期を迎えた。その中心的存在が2人の監督キャロル・リードデビッド・リーンである。特に光と影を巧みに用いたリードの「第三の男」(白黒映画)は一世を風靡した。また、リーンはメロドラマの秀作「逢引き」を発表、以後、「旅情」「アラビアのロレンス」などのヒット作を制作した。イギリス映画のことはイギリスの映画-Wikipediaを、両監督の映画は、以下参考の※: 「[ ONTV MOVIE ]キャロル・リード - 監督作品リスト」「デビッド・リーン- 監督作品リスト」を見られると良い。
イギリス映画界の名匠キャロル・リード監督による映画「第三の男」の原作・脚本を書いたのが、戦後イギリス文壇で代表的な位置に立つカソリック作家グレアム・グリーンである。この映画「第三の男」は、オーストリアの民俗楽器、チターが奏でるテーマ音楽と相まって20世紀屈指の古典的名作として現在でもよく知られている作品であり、私も非常に印象に残っている映画なので書いてみる気になったが、グレアム・グリーン個人のことは、良く知らないので経歴のことなどは、Wikipediaのここや以下参考の※:「グレアム・グリーン(Graham Greene)」など参考にしてください。
映画「第三の男」がロンドンで封切られたのは、1949(昭和24)年9月のこと。日本公開は3年後の1952(昭和27)年のことである。
映画の主人公ホリー・マーチンスを演じるのは、ジョゼフ・コットンであるが、この映画では、やはり第二次世界大戦直後のウイーンの光と闇に出没する謎の男「第三の男」を演じたオーソン・ウェルズの名演技、存在感がなければ作品の魅力は半減していたといっても過言ではない。
映画は、世間知らずで陽気な米国人小説家、ホリー・マーチンスが旧友のハリー・ライム(オーソン・ウエルズ)の家を訪ねてくる。この男は、戦勝国アメリカの陽性を象徴する人物だろう。しかし彼は到着早々に門衛からホリーが交通事故で死んだことを知らされ、たちまちにウィーンという根っから陰性の支配する街に巻き込まれていくことになるハリーの葬儀に出席したホリーは、イギリス占領軍の少佐(トレバー・ハワード)から“ハリーは水で薄めたペニシリンを横流しする闇取引の黒幕だった。”と意外な情報がもたらされる。しかも多数の犠牲者を出していた。親友のハリーが悪人であるなど信じられないホリーは、ハリーの生前の恋人アンナへの関心も手伝ってアンナをはじめハリーの奇妙な死についての真相究明を決意するが・・・。関係者の話を聞くうちに事故にあったハリーを運んだのは二人だったという証言と、その他にもうひとり、死体を運んだ“第三の男”がいたという証言を門衛から得た。ホリーは、どこかおかしいと感じ始める…。第三の男とは誰なのか?二人は判明するがどうしても“第三の男”が判明しないまま、ホリーは何者かに脅かされはじめ、“第三の男”の証言者である門衛も殺されてしまった。一方、アンナは偽の旅券を所持する嫌疑でソ連MPに粒致されることになり、それとも知らずにアンナのアパートからの帰り道、街の物蔭に不審な人影を発見する・・・闇から浮かび上がった顔はなんとハリーであった。このときの不気味に、ニヤリとした表情は、オーソン・ウェルズならではの演技である。光と影の使い方の最たるものが、このオーソン・ウェルズの登場場面といえるかもしれない。ホリーは追った。しかしハリーは忽然と消えてしまう。いったいハリーはどこへ消えたのか?圧巻は、地下下水道での追跡劇、また、ラストの枯れ木の並木道での別れなど映画史に残る名シーンが続く。アントン・カラスのチター演奏によるテーマー曲「第三の男テーマ曲(ハリーライムのテーマ)」大ヒットした。
映画の舞台となったのはオーストリアの首都ウィーンである。
オーストリアは、ドイツの南方、中部ヨーロッパの内陸に位置し、650年間現在のスイス領内に発祥したドイツ系貴族の家系ハプスブルク家の帝国として君臨し、第一次世界大戦まではイギリス、ドイツ、フランス、ロシアとならぶ欧州五大国(列強)の一角を占めていた。ハプスブルク家のもとで帝都ウィーンでは華やかな貴族文化が栄えて、17世紀末からは旧市街の王宮ホーフブルクに加え、離宮シェーンブルン宮殿が郊外(現在は市内)に造営され、これが18世紀末から現在に至る「音楽の都ウィーン」の礎となった。1918年、第一次世界大戦は、ドイツ帝国・オーストリア帝国の敗北をもって終了。1867年より続いたハプスブルク家のオーストリア=ハンガリー帝国が解体し、チェコスロバキア、ハンガリー、ユーゴスラビア、ポーランドなどが次々と独立、この時点で多民族国家だった旧帝国のうち、支配民族のドイツ人地域に版図(国の領土)が絞られ、新しい共和国の首都となったウィーンは経済的困窮に追い込まれ、社会主義系の市政が発足し、保守的な地方の農村部からは「赤いウィーン」と呼ばれて、両派の政治的確執は国政全体の不安定へとつながった。このような時代をウィーンで過ごしたアドルフ・ヒトラーが、やがてドイツの独裁者となり、1938(昭和13)年には、ドイツ系民族統合を主張して、母国オーストリアを、ナチス・ドイツ併合したことからウィーンは約700年ぶりに首都でなくなってしまう。ヒトラー体制の下、オーストリアはその後第二次世界大戦に駆り立てられたが、1945(昭和20)年ドイツの敗北により戦争は終結するが、1945年から1955年の間、オーストリアはドイツ同様に、連合国の列強4ヶ国(米英仏ソ)によって分割占領下に置かれ、独立国家としての地位を取り戻すことができなかった。
大戦末期、歴史あるウィーンも連合軍の空爆により国立オペラ劇場も炎上するなど大きな被害を受け、かつてのウィーンの面影はすっかりなくなっていた。そして、そんな夜陰の都市の治安を4カ国の兵士が交代で警戒していた。1948(昭和23)年2月、グレアム・グリーンは映画の脚本を描くため、又、同年6月にキャロル・リード監督と共にウイーンを再訪した時には、そんなウイーンの姿を目の当たりにしていたことだろう。この映画は、そのような時代のウイーンを舞台に製作された。
カメラは爆撃による廃墟が至る所に残る街並みを、特徴のある光と影を効果的に用いた映像で映し出す。又、しばしば登場させる斜めのアングルは、独得のドイツ表現主義の影響を窺わせ、戦争の影を背負った人々の姿を巧みに描いている。(“ドイツ表現主義”については、以下参考の※:「「第三の男」が映し出したウィーン【PDF】」や※:「ドイツ表現主義を楽しもう」を参照)
この映画の見せ場の一つに、戦火で廃墟となった遊園地(プラーター公園)の中に奇跡的にポツンと残った大観覧車のゴンドラの中で、かつての親友同士・・・アメリカから会いに来たホリーと、戦後の生活苦のためか、悪の世界に入り警察の目を避けて会わねばならなくなった親友ハリー・・・の再会場面がある。観覧車の中で、ハリーが親友のホリーに水で薄めたペニシリンの闇販売を責められたあと、観覧車を降りながら言った次の台詞が有名である。
「イタリアではボルジア家の統治下にあった30年間に、戦争やテロや殺人や殺し合いが起こっていたがミケランジェロレオナルド・ダ・ヴィンチルネッサンスを生んだが、スイスの500年の同胞愛、そして、デモクラシー(民主主義)と平和はいったい何をもたらした? 鳩時計だけさ」。
この映画の脚本は、グリーンが執筆し、同名の小説も書いているが、小説の方は映画の公開後に出版されたものだそうであるが、グリーンが執筆した脚本の草稿にはこの名台詞は、存在せず、ハリー・ライム役を演じたオーソン・ウェルズの提案によるものだそうだ。
圧制のあったイタリアでさえもルネッサンスを生んでいるのに、国境を接している隣国で永世中立国を主張するスイスは友愛や、民主主義。平和を唱えていても戦後困っているオーストリアに何をしてくれたのだとの強烈な皮肉を込めた台詞であるが、鳩時計はスイスが原産であるとされているが、実はドイツのシュバルツバルトで発明されたものであり、これは、誤認であろう。
第一次世界大戦後スイスと同じ共和国としてあったオーストリアはドイツに併合され、否応なく第二次世界大戦に組み込まれてしまった。ウィーンが、如何に長い歴史の中で育まれた伝統ある街であったとしても、第二次世界大戦でドイツが敗戦後、ドイツと同じように、列強4ヶ国に分割された、首都ウィーンは、瓦礫とギャングであふれていた。そのような混沌とした状況の中で生きていかざるを得ない人間にとって、きれい事など言っていられない。犯した犯罪もただ生きるためのギリギリの手段なのだと彼は言いたいのだ。敗戦後の闇市を蔭のように生きるハリーの姿は、そのまま廃墟と化し地下下水道のほかはなにもなくなってしまった当時の暗黒街ウィーンとだぶらしている。そのような闇の中の蔭の男をアメリカの名優オーソン・ウェルズに演じさせたことがこの映画の成功の一因でもあったといえる。
見せ場である下水道地下での銃撃戦、追いつめられたハリーはついに、親友・ホリーの一弾に倒れる。ハリーの埋葬が行われた日、ホリーは墓地でアンナを待つ。
アントン・カラスのチターの音色が響くなか、並木道をこちらに向かってまっすぐに歩いてくるアンナ。彼女の目は正面を見据えたまま、彼の前を無言で歩み去って行った。
カットなしで撮影されたというこのラストシーンは映画史に残る名場面として有名であるが、このシーンは当初の予定にはなかったもので、グリーンが最初に書いた脚本では通俗的なハッピーエンドとなるはずであったそうだが、グリーンの原案に反対し、このような形に変更させたのはプロデューサーのデヴィッド・O・セルズニックであったという。
グリーンが執筆した台本と実際に劇場公開された映画では登場人物の名前や国籍などの設定が異なる点があるという。例えば主人公の大衆作家ホリーはイギリス人から、アメリカ人へ、ハリーの恋人であったアンナ・シュミットもハンガリー人からチェコ人に変更されたという。
ハリーの死はイギリス管理地区で起きたことから、陽気なアメリカ人のホリーと行動をともにすることになるイギリスのMPキャロウェー少佐(トレヴァー・ハワード)。一方で、同じ建物に本拠を構えるソ連の陣営はハリーの死には興味なく、もっぱらアンナの旅券偽造を暴き(実際の偽造はハリー)、彼女を本国であるチェコスロバキアに強制送還させることに躍起なる様子を描き、東西冷戦下にあって、同じ占領軍であっても、その思惑が複雑に錯綜していたことを窺わせている。
当時の東欧における共産化を決定付けるとともに、西側諸国に冷戦の冷徹な現実を突きつけたのが、1948年2月のチェコスロバキア政変であった。
1949年4月、アメリカ・イギリスなど西側12カ国はソ連の脅威に対して、北大西洋条約機構(NATO)を結成。枢軸の中心であったドイツとオーストリアは、アメリカ・イギリス・フランス・ソ連が4分割して占領統治していたが占領行政の方式や賠償問題などでソ連と米英仏の対立が深まり、同年、西側占領地域はドイツ連邦共和国(西ドイツ)、ソ連占領地域にはドイツ民主共和国(東ドイツ)が成立する。その後、NATOの結成に対抗し東側も軍事面での結束を強め、1955年5月にソ連・ポーランド・東ドイツ・チェコスロヴァキア・ハンガリー・ルーマニア・ブルガリア・アルバニアの8カ国は、東欧8カ国友好協力相互援助条約(ワルシャワ条約)に調印し、軍事同盟を結成した。この年、オーストリアは、東西陣営の不緩衝地帯として永世中立の連邦共和制国家として独立を果たしている。
以下では「第三の男」の観光コースが入っており下水道も見られる。
YouTube-オーストリア旅行記Part3 (Part1, Part2もあり)
http://www.youtube.com/watch?v=rNYvH3BnCDM&feature=related
又、以下では、映画以上にヒットした名曲「第三の男テーマ曲(ハリーライムのテーマ)」が聞ける。
YouTube-第三の男
http://www.youtube.com/watch?v=1BzKdQqLfWo
(画像は、1904年英国映画「第三の男」ポスター。アサヒクロニクル週間20世紀「映画の100年」より)

 グレアム・グリーン (英:小説家『第三の男』) の忌日:参考