日本近代文学の森へ 277 志賀直哉『暗夜行路』 164 不味い米と美しい娘 「後篇第四 十四」 その2
2025.2.16
彼は大山の生活には大体満足していたが、ただ寺の食事には閉口した。彼は出掛けに食料品を送る事を断った位で、粗食は覚悟していたが、其所まで予期出来なかったのは米の質が極端に悪い事だった。彼はそれまで米の質など余り気にする方ではなかったが、食うに堪えない米で我慢していると、いつか減食する結果になり身体が弱ってくるように思われた。
寺の上(かみ)さんは好人物で彼の世話をよくした。山独活(やまうど)の奈良潰を作る事が得意で、それだけはうまかった。
「食うに堪えない米」とは、どんな米なのか。現代の都会の人間からすると、田舎の米はうまいだろうと思いがちだが、この時代には、やれコシヒカリだの、ユメピリカだのといった米があるはずもなく、貧しい地方では、質の悪い米しか作れなかったのだろう。炊き方が悪かったとも考えられるが、カマドで炊いたのだろうから旨いはずで、それより、何日も前に炊いた米を温め直したのかもしれない。「炊きたて」というわけにもいかなかったのだろう。こうした当時の食料事情というのは、なかなか分からないものである。
山独活の奈良漬けというのは、確かに旨そうだ。ぼくは奈良漬けはあんまり好きじゃないけど。しかし、これしか旨くなかったということは、他にいったいどんなものが供されたのだろうか。
鳥取へ嫁入った寺の娘が赤児を連れて来ていた。十七、八の美しい娘だった。座敷へは余り入って来なかったが、彼の窓の下へ来てよく話した。
「やや児のような者にやや児が出来てどうもなりません」娘はこんな事をいって笑った。人からいわれたのをそのまま真似していっているとしか思われなかった。母親一人で忙しく働いているのに娘はいつも赤児を抱いてぶらぶらしていた。謙作はこの娘に対して別に何の感情をも持たなかったが、娘がよ<窓の外へ来て立話をして行く気持には、娘ながらに、既に人妻となったという事で男を恐れなくなったのだと思った。そして彼は直子の過失も直子がまだもし処女であったら、あるいはああいう事は起らなかったのではなかろうかと考えたりした。
「娘ながらに、既に人妻となったという事で男を恐れなくなったのだと思った。」とあるのは、なんでもないようなことだが、ちょっとハッとする。当時は、「人妻になる」ということは「処女を失う」ことに他ならなかったのだから、「処女である」ということが「男を恐れる」原因となる。「処女を失う」ことは、「お嫁にいけなくなる」ことを直接に意味していたからだ。今ではまるでバカバカしいことではあるが、時代というのはオソロシイもので、あの田山花袋の『蒲団』では、女弟子に惚れてしまった先生が、その女弟子に彼氏ができたとき、女弟子に「処女の喪失」が起きていないかということを、まるで気が狂ったように執拗に問い詰める場面がある。場面があるどころじゃない。それが主題かと思われるほど執拗である。つまりは、それほど、「処女であること」が「結婚」にとって、大問題だったということだ。
だから、というわけでもないが、謙作が「直子の過失も直子がまだもし処女であったら、あるいはああいう事は起らなかったのではなかろうかと考えたりした。」というのは、「ああいうこと」が、「人妻の過失」であるにもかかわらず、「もし処女であったら」というような矛盾した仮定をしてしまうというのも、直子が人妻となって処女を失ったから、男に対してルーズになったのかもしれないと思ってしまったからだろう。
道徳的に考えれば、「人妻」となったからこそ、「ああいうこと」をしないように自分を律していくべきだということになるのだろうが、謙作の頭の中では、「処女性」が大きなウエイトを占めるから、こうした矛盾が生じてしまうのではなかろうか。
ある日、寺の上さんが手紙を持って謙作の所へ相談に来た。四、五十人の団体の申込みだった。
「どうしましょう」
しかし謙作には分らなかった。
「炊事は出来るんですか」
「出来ん事はありません」
「そんなら引受けたらどうですか。──もっとも私はなんにも手伝えないが」
上さんはなお迷うらしく少時(しばらく)考えていたが、遂に引うける事に決心した。そして独言のように、「お由(よし)がもう少し役に立っといいんだけど」といった。
「赤ちゃんがいるから……それより竹さんをお頼みなさい」
竹さんというのは麓の村の屋根屋で、大山神社の水屋の屋根の葺きかえに来ている若者だった。板葺の厚い屋根で、山の木で、その折板(へぎ)から作ってかかるので一人為事(しごと)では容易な業ではなかった。寝泊(ねとまり)食事は寺の方にしてもらって、その労力を奉納するのだという話だった。謙作はこの人に好意を持ち、仕事をしているところで、よく話込むことがあった。
謙作は引受ける返事の端書を書かされた。
二、三日して謙作は机に椅(よ)り、ぼんやりしていると、下の路から上さんが「来ました、来ました」とせかせか石段を馳登(かけのぼ)って来た。
如何にも大事件らしいその様子がおかしかった。珍らしくもなさそうな事を何故こんなに騒ぐのかと思った。しかしいつもは和尚も働くらしく、上さん一人ではそれは大分重荷だったに違いない。上さんは午後になって何度か坂の上まで見に行ったが、今、四、五十人の人がぞろぞろ河原を渡って来るのを見、そんなに興奮しているのであった。
間もなく団体の連中が着くと、寺の方は急に騒がしくなった。謙作は手伝えるものならば手伝ってやりたいと思ったが、出来ないので、そのまま散歩に出た。
日が暮れ、彼が還って暫くして漸(ようや)く晩飯が赤児を抱いた娘の手で運ばれた。
「自分でつけるから構いませんよ」
「どうせ何もしないんですから」そして娘は笑いながら、「今夜は旦那さんの傍(わき)に寝させてもらいます」といった。
謙作はちょっと返事に困った。勿論傍というのはこの離れの玄関の間の事だろうとは思ったが、きっと蚊帳などは足りなくなっているに違いないので、多少まぎらわしい気もするのであった。
その夜、謙作はいつものようにして寝た。娘はそれきり顔を出さなかった。それで当り前なのだが、彼は娘が何故不意にそんな事をいい出したか不思議な気がした。
謙作が滞在した「蓮浄院」という寺は、実在した寺である。「蓮浄院は、江戸時代中期に建てられた大山寺の支院のひとつで、以前は宿坊・旅館業として運営されていたが、平成2年に住職が亡くなった後は、旅館業も廃業。平成8年に無人となってからは、老朽化が進んでいた。」(「だいせん議会だより 第5号」 ここでの「質問」の中に、「志賀直哉の暗夜行路執筆の地、蓮浄院は…」とあるが、間違いである。「執筆の地」ではなくて「滞在の地」である。)ということだが、その後、改修などをめぐってゴタゴタがあり、改修も進まないうちに大雪で建物は崩壊。どうやら、現在は「蓮浄院跡」となっているらしい。
志賀直哉は松江在住のころ、ここに10日間ほど滞在したことがあり、その記憶を頼りに『暗夜行路』の部分を書いたと言われている。その執筆は、滞在してから24年ほど後なので、やっぱり志賀直哉の記憶力というのはすごい。
四、五十人もの客を受け入れることができるというのだから、相当大きな宿坊だったのだろう。神奈川県の大山(おおやま)も、「大山詣で」で有名だが、こちらの大山(だいせん)も、「大山参り」が盛んだったわけである。
この寺のお上さんの慌てぶりが面白い。坂の上から「四、五十人の人がぞろぞろ河原を渡って来るのを見」たという描写も短いながら、鮮明だ。
それにしても、この「お由」という娘。どうも気になる。志賀が「不思議な気がした」と書くときは、注意しなくてはならない。「お由」が、「今夜は旦那さんの傍(わき)に寝させてもらいます」と言ったのは、どういう意味だったのか、謙作は、「不思議」に思うのだが、謙作は、そこに性的なニュアンスがを嗅ぎ取っているのだ。
「勿論傍というのはこの離れの玄関の間の事だろうとは思ったが、きっと蚊帳などは足りなくなっているに違いないので、多少まぎらわしい気もするのであった。」というのも、なにがどう「まぎらわしい」のか、よく分からない。蚊帳が足りないので、娘が、自分の蚊帳に入れてくれとでも言ってくるのかと思い、それはヤバいとか思ったのだろうか。そんな不埒な想像をちょっとでも巡らしたため、その晩、娘が顔を出さなかったのを「それで当り前なのだが」と書く。つまり、謙作は、「当たり前じゃないこと」を期待、といってはいいすぎだけど、ちょっと頭をかすめたということなんじゃないだろうか。そういえば、この娘が登場したとき、「十七、八の美しい娘だった。」と書いている。「美しい娘」というだけでは、別に「客観的」な記述かもしれないが、場合によっては「主観的」な記述ともいえる。だから、とっさに、言い訳のように「謙作はこの娘に対して別に何の感情をも持たなかったが」と書くことになるのだ。この「別に何の感情をも持たなかった」という記述が、この晩の謙作の「不埒な想像」への言い訳(?)になっているのかもしれない。
とにかく、この辺りは、謙作の感情というか、生理というか、そんなものが、微妙に揺れ動き、なかなか面白いところである。
この謙作の感情・生理の微妙な揺れは、その晩に見た夢となって具体的な形をとる。それは次の「十五」の冒頭から語られることになる。