日本近代文学の森へ (136) 志賀直哉『暗夜行路』 23 「愛子とのこと」⑶──冷たい調子 「前篇第一 五」その3
2019.11.27
父の冷たい態度に不快な気持ちになった謙作は、兄の信行に頼もうかとも思ったが、どうもその気にもなれず、「どうせ同じことだ。やはり総てを自分一人でやろう。結局その方が簡単に済む。」と考えて、ある日、自ら愛子の家に出かけていった。
ところが、愛子の母はそれを聴くと非常に吃驚(びっくり)したらしかった。彼がそれを切り出した時のドギマギした様子はむしろ惨めな気さえした。謙作の方も少しドギマギした。そして、これは自分の知らない許嫁(いいなずけ)があるのかしらと思った。
「とにかく、慶太郎や、此方(こちら)の親類方にも相談した上で本郷の方へ御返事をしましょう」
彼はこの申込は本郷とは全然無関係に自分がいい出すので、父も勿論知ってはいるが、直接申込むというのも実は父の意志から出た事だと話した。
「へえ。それは不思議ですネ」愛子の母は顔を曇らせていった。
謙作は不快(いや)な気持で帰って来た。父の返事はとにかく予期の内だが、この返事──返事の表面上の意味は至極当然で別に不思議はないが、これに含まれた変に冷たい調子は彼の予期には全く入り得ないものだった。
ここでも「変に冷たい調子」が出て来る。父の場合もそうだった。父の言葉には「変に冷たく、薄気味悪い調子」があった。
愛子の母の「返事の表面上の意味」は「至極当然で別に不思議はない」のだが、「これに含まれた変に冷たい調子」は予想外だったというのだ。
「これに含まれた」の「これ」が何を指示するのかが難しいが、「この返事」と考えるのが妥当だろう。「返事の表面上の意味」というのは、愛子の母が発した言葉そのものが含む意味だ。
愛子の母の言葉は「こちらで相談してから返事をします。」ということと、謙作が直接やってきたのは「父の意志」によるということに対する「不思議ですね」ということだ。「相談した上で返事をする」のはむしろ当然だから、謙作も「別に不思議はない」と思うのだが、後の「それは不思議ですね」はどうか。当時は結婚話は、当事者が持ち込むことは当たり前のことではないから、謙作の父が、そうさせたのは「不思議」といえばいえる。だから、この言葉もそれほど「冷たい」わけではないのだ。
けれども、謙作は「冷たい調子」を感じとる。なぜか。それは、「この返事」に決定的に欠落しているものがあったからだ。つまり、「単純な喜び」がなかったのだ。愛子の母が、謙作から結婚の話が出たことを喜んでいるのなら、「あら、そうなの? 嬉しい! でもね、こういうお話しはもちろん私の一存では決められないから、慶太郎にも、親戚にもいちおう相談して、改めてお返事をするわ。でも、嬉しいわ〜」という風な応対を謙作は予測していたのだろう。それがない。「嬉しい」の一言がない。
「それは不思議ですね。」の方も、「あら、それは不思議。お父様も変わってるわね。でも、あなたが直接来てくださって嬉しいわ。」でもよかったはずなのだ。やっぱり「嬉しい」がない。それが「冷たい調子」と感じられるのである。
その後、謙作は、慶太郎に会って話をしようとするが、慶太郎はああだこうだと理由をつけて会おうとしない。
そうこうしているうちに、兄の信行がやってきた。
十一時過、彼は漸く自家(うち)へ帰って来た。自家では兄の信行が待っていた。そして、いきなりこういい出した。
「お前はどうしても愛子さんでなければ、いけないのか? 如何(どう)なんだ。」
「それは、そうじゃない」
「本統にそうじゃないネ?」
「…………」
「もしそうなら、俺は慶太郎や先方のお母(つか)さんと喧嘩をしてもやって見るよ。出来るかどうか分らないが、とにかくやる所まではやって見る。しかしそれは、お前がどうしても、という場合だけだ。お前の愛子さんに対する気持が其処まで突きつめていないのなら、念(おも)い断(き)る方が俺はいいと思っている。何方(どっち)なんだ」
「念い断ろう」
「うん」と信行はちょっとお辞儀でもするように点頭(うなづ)いて黙った。
二人は少時(しばらく)黙った。
「念い断れるのなら、念い断った方がいいだろう」と信行がいった。「お前の不愉快な気持はよく解る。お前にとってはこれは二重の不愉快だったのだ。しかし何しろ慶太郎がああいう男だし、お母さんもお前に好意はあるのだが、何しろこういう時には女は手頼(たよ)にならないものだから……」
「慶さんの態度がいけない。断るなら断るだけの明瞭(はっきり)した理由を何故いわないのだ。変に一時逃ればかりして此方(こっち)に不愉快を与える事で間接に断る意志を仄(ほの)めかしている」
信行は返事をしなかった。
「する事が余りに良心がなさ過ぎる」
「昔からそういう奴だよ」と信行がいった。
暫くして信行は帰って行った。
信行の「どうしても愛子さんでなければいけないのか?」という詰問に対して謙作は「それは、そうじゃない」と答える。「そうだ」と答えればよかったはずだが、謙作の性格からしてそうは言えない。そうは言えないということを信行は見越してこう詰問しているのだ。そこがとてもイヤラシイところ。
このように聞けば、謙作は、思わず「そうじゃない」というだろうと見越して、案の定「本統にそうじゃない」との言葉を聞いてから、自分の「誠意」を思い切り開陳してみせる。そんなところがある。そこがイヤラシイわけだ。
謙作は「断る理由」を知りたいのだ。それなのに、愛子の母も、兄の慶太郎も、そして信行までもが、その理由をはっきりと言わない。謙作はひとり「泥田に落ち込んだような」気分になるのだった。
謙作はもう慶太郎の来る事を、あてにしてはいなかった。しかしもし来て、明瞭(はっきり)した理由をいってくれたら、自分は《まいる》としても、とにかく今の一人泥田へ落込んだようなこの不愉快からは脱けられるのだがと思った。慶太郎はやはり愛子の結婚を手段として何かに利用する気に違いない。理由としてはそれ以外にない。しかしそれでもはっきりいってもらう方がいいが、慶太郎もそんな事をいうはずはないと思った。
(注)《 》は傍点を示す。