日本近代文学の森へ (185) 志賀直哉『暗夜行路』 72 ずる賢いヤツら 「前篇第二 十二」 その1
2021.2.18
転居をしようと思い立った謙作は、信行と引っ越し先を見学にいく。
翌日二人が家を出たのはもう二時過ぎていた。五反田の方から先に見た。小さい鉄工所の側から狭い坂を登り、下に四、五百坪の草原になった空地を見下しながら廻って行くと、その一軒があったが、きたない平家で、前は割りに広い庭になっているが、日当りは余りよさそうでなく、よほど手を入れなければ住めそうもない家で、彼は気乗がしなかった。それにこういう家(うち)を余り見た事のない謙作は、自分が住めばこれが何(ど)の程度に居心地よくなるのか見当がつかなかった。何となく、このがらんとした、きたない家にこのまま自分が入るような気がされて一層気乗がしなかった。もう一軒は周囲が狭苦しくってとても入る気のしない家だった。二人はのんびりした心持で樫の芽の強い香りを嗅ぎながら道路を大森の方へぶらぶらと話しながら歩いた。信行はもう一トかどの禅居士になり済ましていた。そして、丁度高等学校時代の知識慾のような知識慾で、『碧巌録』に載っている話を次から次とよく覚え込んでいて話した。
この頃は、どこへ行くにも歩きだ。五反田から大森へ。のどかである。
二軒とも「入る気がしない」家。「こういう家(うち)を余り見た事のない謙作は、自分が住めばこれが何(ど)の程度に居心地よくなるのか見当がつかなかった。」なんて、やっぱり謙作は金持ちのぼんぼんなのだ。
「樫の芽の強い香りを嗅ぎながら」というところに惹かれる。樫の木は知っているが、その芽が強い香りを放つなんて知らない。樫の芽特有の匂いなのだろうが、いったいどういう匂いなんだろう。
五反田から大森へと歩く途中に、こうした樫の木なんかがふつうにあって、その芽の香りを当時の人は当たり前のように知っていて、そこに季節を感じたりしていたのだと思うと、なぜだか不思議な気がする。むろん今だって、街路樹に樫の木が植わっていることはあるだろうし、家の庭に樫の木があることもあるだろうが、そこを歩く人々が、その香りに敏感だということはありそうもない。匂いどころか、どれが樫の木かということすら、分かる人は稀だろう。
「そうだ、この道は自家(うち)の地所のある処へ出る道だよ」信行は立止って往来の前後を見較べながら、こういい出した。「ちょっと寄って見るかね。生垣を作らして、まだ誰も見に行かないんだ」
やっぱり金持ちだね。自分の家の土地があって、植木屋に生け垣を作らせたが、放ってあるというのだ。
この植木屋は「亀吉」というのだが、善良そのものの人間のように見えるので、「この者に任せておいて、ずるい事をされる心配はないと誰でも思わないわけにはいかないような男」だと書かれているが、謙作は、「見た通りが本統だろうか?」と疑っていたが、信行はその意見には反対だった。二人は、間もなくその土地に着いた。
長方形に往来に添うた二千坪ばかりの地所で、今まで畑にしてあったのを宅地に直し、四つ目垣に結び、これに檜(ひのき)の苗木を植込ましたのである。
「何処から入るのだ」信行は入口を探して歩いた。「入口がないぜ」
「そんな事はあるまい」
「何処にも入る処はないよ。そういえば、俺が亀吉に見積りを出さしたのだが、入口の事をいうのを忘れたのかも知れない」
二人は笑った。そしてなお、探したが完全に四つ目垣を結い廻してあって、何処にも入る処はなかった。
「作りながら気がつかなかったかね」
むしろ愛嬌だった。二人はそれから、土地を管理してもらっている百姓の家へ寄って入口の事を亀吉へいいつける事を頼んで来た。(そしてこれはそれから二、三ヶ月後の話であるが、亀吉は実際謙作が疑ったように本統の正直者でない事がわかった。草刈をしたからと、土地の広さに対しても多過ぎる手間賃を本郷の家から受取っておいて、草は草で、生えたなりに馬の飼い葉として売り、懐手をしながら、両方から金もうけしていたのであった。)
話の本筋とは関係のない話だが、ちょっと面白い。周囲を生け垣で囲めと言われて、いくら入口も作れと言われなかったからといって、中に入れないんじゃしょうがない。
みるからに正直そうな人間が、実はずる賢い悪党だということも、よくある話だ。「みるからに○○そうだ」という時点で、既に「あやしい」と思わなければなるまい。けれども、それがなかなか見抜けない。だから詐欺被害もなくならない。その点謙作の人を見る目は確かだ。
しかし、それにしても2000坪とは恐れ入る。信行が、簡単に会社を辞めて、鎌倉に引っ越し、禅なんかをやっていても、ちっとも金に困らないのは、こういう背景があるわけで、それはまた謙作とて大きな違いはないのだろう。
日が暮れかかって来た。大井の山王寄りに一軒建ての二階家があった。外から見た所ではちょっと気の利いた家だった。謙作はもう疲れていた。そして、これで充分だと思った。
「新しいだけでも気持がいい、間どりもよさそうじゃないか」と信行もいった
で、二人は山王の大家の家へ寄って借りる事に話をきめた。
大森の停車場へ来ると(院線電車のない頃で)上りは少し間があって、下りが先へ来た。鎌倉へ帰る信行を送りがてら、横浜まで支那料理を食いに行く事にして、そして晩(おそ)くなって謙作だけ東京へ帰って来た。
五日ほどして、謙作は其処へ引移った。
しかしその家は夕方、気忙しく見て思ったよりは、遥かにいやな家だった。本統の貸家向きに建てた家で、二階で少し烈しく歩くと家が揺れた。そして誰か下の部屋で新聞でも展げていれば、その上にバラバラと音がして天井のごみが落ちて来た。
「此方(こっち)へ来てから髪がよごれてしようがないのよ」下の部屋にばかりいるお栄はこんな事をいってこぼした。
五反田の家を見て、大森の方へ歩いていき、大井の山王寄りにある借家を借りることにした。見ただけですぐに借りたわけだが、実際住んでみると、「いやな家」だったという。もうちょっとちゃんと下見すればいいのにと思うのだが、なんというか、どうもその辺が鷹揚というかいい加減だ。
「本統の貸家向きに建てた家」というのは、こんなものだったということだろうか。二階で激しく動くと、家が揺れ、下では天井からゴミが落ちてくるというのは、いくらなんでもひどいとは思うが、昔はこんなもんだったというのはよく分かる。
年寄りはよく「昔はよかった」というが、そんなことはぜんぜんない。ここに出てくる植木屋のしても、貸家の建て主にしても、良心のかけらもないずる賢いヤツらだ。いわゆる「格差」もひどいもの。今の世の中だってロクデモナイけれど、だからといって「昔はよかった」ということにはならないのである。
大森からわざわざ横浜へ行って、「支那料理」を食って東京へ戻るというのも、贅沢なものだ。この小説が書かれた大正10年のころは、まだ今ほどの「中華街」というもものではないけれど、それでも本格的な中華料理屋があったわけで、東京にはあまりなかったということだろう。交通費だってバカにならないわけだが、まあ、金持ちだからね。
それにしても、お栄がまだちゃんと一緒に住んでいるというのが、どうにも違和感がある。普通、こうした経緯なら、一緒に住んではいられないと思うのだが、いったいお栄はどういう料簡なんだろう。