作是教已復至他国
山深き木の本ごとに契りおきて朝立つ霧のあとの露けさ
半紙
【題出典】『法華経』寿量品
【題意】 この教えを作し已りて、また他国に至り
この教えを残して、他国へ去る。
【歌の通釈】
深山の木の本ごとに約束を残して(病の深い子ども一人一人に薬を飲むよう言い残し)朝に立つ霧(朝に発つ父)のあとの露けさ(悲しさ)よ。
【考】『法華経』の七喩の一つ。良医病子の譬喩の場面。父は本心を失った子どもに、薬を飲むように言い残して他国へ去り、自分が死んだと告げさせる。それにより子どもたちがようやく目を覚ます。これは、仏が涅槃に入るのは衆生の目を覚まさせるための方便であることを明らかにする比喩である。父が子ども一人一人に教えを言い残して別れる場面を、朝霧が一本一本に約束を残すように消え去ってゆく風景により詠んだ。「病」に「山」を、「子」に「木」を掛けることにより深山の景を浮かび上がらせ、その別れの悲しみを朝霧が立つ情景によりしっとりと描いた。
(以上、『寂然法門百首全釈』山本章博著 による。)
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見事な歌だ。教えを一人一人に残し、消え去っていく父。しかし、子どもは父が死んだと知ってからでなくては、目を覚まさない。父の死によって、目を覚ました子どもは、はじめて、その教えに耳を傾ける。
そうした「人事」を、秋のしっとりとした風景として描き出す歌。その歌の情感とともに、仏の教えが、身にしみてくる。「釈教歌」の神髄だろう。
強引な比較かもしれないが、キリスト教の「復活」も、これと同じことなのかもしれない。